熱海編8 約束のサイン

 平日かつグリーン車以上しかないにも関わらず、サフィール踊り子の車内は年配の方や女性客でほぼ満席になっている。それでも、日常の喧騒とは程遠い、落ち着いた時間が流れていた。


「こんなにリラックスできるなんて最高ですね」


 背もたれをめいいっぱいリクライニングして足を伸ばし、天窓から差し込む青空を仰ぎながら話す。穂積もまた同情した。


「そうだよね。ほかに個室もあるし、食事できるカフェテリアもあるんだよ。ホントは連れていきたかったけど、予約埋まってて取れなかったよ」

「いえいえ、さっきご馳走していただきましたし大丈夫です。どんなものが食べられるのですか?」

「時期によるけど、中華の麺類やカレー、上り列車限定でスイーツもあるよ」

「うわぁ、最高ですね……!」


 乗るのを今回限りにするのが勿体無いくらいだ。機会があったら、また由香里たちと一緒に乗って出かけたい。


 とはいえ、ジャージ姿で高校生がこんな豪華列車に乗るのは、あまりに分不相応すぎる気がした。幸いにも他の乗客から注目されることはないけど、やはりこの空間では明らかに私一人だけが浮いている。

 彼の顔色を伺い、ふと問いかけてみた。


「ずっと気になってましたけど、穂積さんって高級志向なんですか?」


 穂積は意外そうな顔で答える。


「別にそんなことないけど?」

「でも、改札でお金貸してくれた後もいろいろ奢ってくれましたし、日帰り温泉とか特急列車も高級なところばかりじゃないですか。もしかして、モテたくて振る舞ってます?」

「まさか!確かに誰かにはモテたいとは思ってるけど、それで貢いだり豪遊しようだなんて考えないよ!」


 穂積は大きく首を横に振るけど、本人にモテたい意識はあるのか。

 しかし、これだけリッチな過ごし方をしていると、普段の金銭感覚が少々心配になる。彼はひと息ついて続けた。


「こういうお出かけのときは、お金の使い方を工夫してプチ贅沢しているんだよ。その分、普段の生活はちゃんと節約してるし。それに困っている人を助けたり、誰かに奢ったりしてあげたら、いつか自分のもとにいい形で還ってくると思うんだ」


 そう言うと、彼は目線を車窓の外へと移した。熱海の温泉で見たのと同じような雄大な相模湾が広がるが、夕方に向けてオレンジがかってきている。


 人助け精神の強い穂積らしい答えだな、と思わず感心してしまう。彼の元に幸運が舞い込んできて欲しいけど、優しすぎるがあまり心配な面もある。


「いろいろ奢ってくれるのはありがたいですけど、気をつけた方がいいですよ。人情につけ込んで貸し借り頼まれたり、下手したら詐欺に逢うかもしれませんし」

「そうだよね。気をつけるよ」


 穂積が苦笑すると、前方から車内販売がやってきた。奢ってもらうことなくそれぞれ瓶のみかんジュースを購入し、程よい酸味を感じながら車窓を楽しんだ。




 海岸線に沿ってゆったりと走っていた列車は、小田原を通過すると海岸線を離れてスピードを上げ、住宅街を颯爽と走り抜けていく。


「そういえば穂積さん、この後バイトあるんですよね」

「うん。夜22時までみっちり」

「ひぇー、大変ですね!」

「十分ゆっくりして来れたし、全然大変じゃないよ。かえって程よく忙しいほうが、俺としてはありがたいかな」


 穂積と過ごす時間も残り僅かだ。偶然彼と出会ったおかげで、明日から頑張る元気をもらえた。

 この先もずっと、今日のことを忘れずに折れない心を持ち続けたい。その想いはきっと、彼も同じだろう。

 意を決して、一つの提案を持ちかけた。


「穂積さん、もしよかったらサインの交換しませんか?」

「えっ、どうして?」

「今日会えた記念になりますし、前を向くための意識を高め合いたいと思ったんです」


 私なりにはっきり理由を伝えるも、何故か穂積は首を捻る。


「有名人のサインをすぐ転売かけたりする人いるじゃん。ぞんざいにされたくなくて、ほとんど書いたことないんだよね……」

「私はそんなズルいこと絶対にしません!一緒に短いコメントを添えれば、これからの励みになると思うんです。そうすれば、お互いにとってお金には換えられない、価値あるものになりませんか?」


 私も幼い頃は自分のサインを考える遊びをしていたが、直筆では小学校時代の友達数人以外に書いたことがない。


 彼は返答を渋っていたが、しばらく考えた末に答えを示した。


「……わかった。じゃあ、書こうか」

「ありがとうございます!私もしっかり考えて書きますね!」


 私は色紙の代わりにノートをカバンから取り出し、未使用のページを破ってペンとともに穂積へ渡した。

 その紙を前面テーブルに敷き、それぞれのサインと今日の日付、相手の名前を書く。最後に添えるねぎらいの短いメッセージは、何度も推敲してなかなかペンが進まなかったが、彼への願望を込めてようやく内容を決めた。


『穂積さんの輝く日が来ますように!』


 メッセージを書き終え、ペンを置いて軽く背伸びする。


「よしっ、できました!」

「俺も書いたよ。じゃあ、交換しよう」


 それぞれの紙を渡し合い、お互い内容を確認する。私にくれた穂積のサインにも、右下に力強いメッセージが書かれてあった。


『才能に自信と誇りを持って突き進め!』


 ネガティブ思考になりつつあった私に対する彼からのエールに、胸が熱くなるのを感じた。


「ありがとうございます。穂積さんの言葉、とても嬉しいです!大切に保管しますね」

「こちらこそありがとう。期待に応えられるように頑張るね!」


 お互いのサインはクリアファイルにしっかり挟んで、それぞれのカバンにしまった。




『まもなく、品川に到着いたします。山手線、京浜東北線、横須賀線、京急線はお乗り換えです。お降りのお客様は、お忘れ物のないようお支度ください。品川の次は、終点・東京でございます』


 いつの間にか車窓は都会の風景に様変わりし、贅沢な時間もあっという間だった。

 後ろ髪を引かれる想いで16:42に品川へ降り立ち、私達はサフィール踊り子を後にした。

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