第3話『奇跡なんか無くっても、人は幸せになれるんだ』
人生何があるか分からない。
上ばかり見ていては足元がおろそかになるし、下ばかり見ていては目標を見失うだろう。
と、中学時代の恩師は言っていた。
なるほどと俺は納得し、それなりに前を向いて歩いてきたつもりだったが、これはどういう事だろうかと恩師に心の中で言葉を投げかける。
前を向いて歩いていたら、人気のない交差点で幽霊に出会うとは。
これも一つの教訓なのでしょうか……。
俺は心の中で腕を組みながら何度も頷いていた恩師に問いかけるが、恩師は何も答えず人形の様に首を上下に振るだけだった。
役に立たない先生だ。と本人が聞いたら殴られそうな事を思いつつ、俺は横断歩道の向こう側に佇む幽霊を直視しないようにしながら盗み見た。
胸の内側から湧き上がってくる恐怖はあるが、それと同じくらいの好奇心があり、俺は道を変えず真っすぐに進む事にした。
まだ信号は赤である。これから青に変われば、俺はあの幽霊に向かって歩く訳だが、果たしてどうなるのか。
どこかワクワクとした気持ちを隠せないまま俺は青になるのを待ち、そして歩行者信号が変わったのを確認しながら歩き始めた。
一歩一歩と幽霊に近づいていくが、特に何か妙な事が起こるという事は無い様だった。
むしろ、普通の人間? の様にも見える。
交差点の端に置かれた花を見ながら、立ち尽くしている姿は普通の人間だった。
何だか拍子抜けしたような気持ちのまま、女性の横に立ち、次なる横断歩道の前に立つ。
このまま青になったら、何事も無かった様に道を渡り、家に帰る。
ただそれだけなのだが、何故か俺は立ち尽くす女性の事が妙に気になってしまった。
特別凄い美人という訳でもない。というよりも全身にまとった薄暗い雰囲気のせいで、好ましくは映らない。
長すぎる前髪が原因か。暗色ばかりの服が原因か。
その理由は分からないが、少なくとも好意的に見る事は出来ない。
しかし、気になるのだ。
信号を待ちながらも、何度か盗み見て、何故惹かれるのかを考えるが、結局信号が青に変わるまでその理由は分からなかった。
何だか消化不良の様な気持ちを抱えながら横断歩道を歩き始めた俺だったが、少し歩いてすぐに左側から強い光に当てられ、その足を止めた。
眩いばかりの光に全身が照らされている。
そして俺に迫る大きな音と光は、明らかに遅すぎる思考で、車が俺に迫っている事を導き出していた。
体は動かない。間に合わない。ここで轢かれてしまう。
あぁ、まだ爺ちゃんと婆ちゃんに恩返ししてないのにな。なんて、後悔ばかりが俺に襲い掛かるが、どうにも出来ないのは変わりない。
そして俺はそのまま車に……轢かれる事なく、強く後ろに引っ張られ、地面に倒れこんだ。
直後に少し離れた場所に響く衝撃音と誰かの悲鳴。
しかし、そんなものは俺に何一つとして届いてはいなかった。
何故なら俺の目の前には、大きく見開かれた瞳から涙を流し、大粒の汗を流しながら俺に声を掛ける人が居たからだ。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「……」
「あの!? あなた!!」
「……天使だ」
「は?」
あぁ。先生。どうやら前ばかり見ていても、自分の未来しか見えないらしい。
何せ俺の運命は、後ろにあり、俺は彼女が俺を捕まえてくれたお陰で、ようやく見つける事が出来たのだから。
しかし、これも俺が前を向いて歩けたお陰なのかもしれませんね。
彼女との衝撃的な出会いから三ヵ月。俺は偶然にも同じ大学で同学年であった彼女と積極的に交流をもつ様になった。
しかし彼女はあまり他人と一緒に居る事が好きではないらしく、俺やその仲間たちが同じ場所に居る事に居心地の悪さを感じている様だった。
これはいけないと、俺は友人たちに謝り、当分は一人で行動する事を告げた。
そして、彼女渡辺理沙さんが不快にならぬよう、一人で話しかけに行くのだった。
「おはよう! 渡辺さん!!」
「今日も、朝から元気ですね」
「まぁそれが俺の良いところだからね!」
「そうですか」
「うん。そうなんだ! ところで横に座っても良いかな?」
「別にここは私の席じゃないですから。お好きにどうぞ」
「ありがとう! じゃあ失礼するよ!」
渡辺さんの隣に座り、教授の話を聞くというのはとても楽しい。
退屈なばかりであった授業が楽しく感じるなんて、世界はここまで変わるのかと驚いたものだ。
そして授業を聞きながら、横を見れば真剣なまなざしで教授の話をノートに書き記している渡辺さんの姿に、思わず溜息が出そうになる。
なんて美しい人なのだろうか。
彼女はいつも真剣に、真面目に、ひたむきに、大学に向き合っている。
そんな彼女の横顔を見るのが俺は好きだ。
「あの」
「なんだい?」
「なんで、楠木さんは私なんかに構うんですか?」
「三ヵ月前にも言ったけど。渡辺さんが命の恩人だから。そして、渡辺さんに一目ぼれしたからだよ」
「一目ぼれって、私なんて、地味で暗くて、何も良いところなんて無いですけど」
「そんな事はない!! 渡辺さん。それは、違うよ。君はとても美しい人だ!!」
『あー。楠木。大変情熱的な告白。結構だが。今は授業中だー。後にしろー』
「はい!! 申し訳ございません!!!」
授業中だという事で教授に怒られてしまったが、俺は申し訳なさそうにしている渡辺さんの近くで机を軽く指で叩き、こちらを見る様に促してから笑う。
何てことはないのだと。
そもそも俺は恐らくは何も考えていない悪友と目立つ事を色々しているせいで、教授には目を付けられているのだ。
むしろ優等生の渡辺さんを巻き込んでいる事に申し訳なさを覚えるのはこちらである。
とは言っても、渡辺さんが渡辺さんを悪く言うのだから、俺が激しく反論するのも仕方のない事ではあるのだが。
仕方ない。渡辺さんは謙虚な方なのだ。
授業が終わり、俺は渡辺さんと話がしたいと告げると、控え目に頷いてくれた。
伺う様にこちらを見ている彼女の瞳は迷いで揺れていたが、そこに嫌悪感は感じない。
長い前髪で隠れた顔は、彼女と他の人を遮る壁の様であるが、彼女自身は優しき人であるので、人を拒否していたとしても、人を傷つける事が出来ないのだろう。
素晴らしい人だと思う。
そして俺は渡辺さんを伴って、人の居ない空き教室へと来た。
こんな場所に連れ込まれては気になるだろうと、渡辺さんが俺からすぐ逃げる事が出来るように俺は奥にある窓側へと向かう。
「さっきはごめんね。授業中に騒いでしまって」
「いえ。私から話しかけたので」
「そうか。なら、互いに悪かったという事でこの話は終わろう。それで、さっきの話の続きを俺はしたかったんだけど、良いかな?」
「……そうですね。ちょうどいい機会ですし。楠木さんに、私を知ってもらういい機会かもしれません」
「お。渡辺さんの事を教えてくれるのかい? それは嬉しいねぇ。誕生日とかを教えてくれるなら、プレゼントは期待してくれ!」
「どうせすぐ、そんな事言えなくなりますよ」
「そっか。じゃあ聞かせて。渡辺さんの話を」
俺は窓枠に寄りかかりながら、渡辺さんの話を待った。
何度か話をしようとして、言葉を発せず、苦しむ様に胸元を掴む渡辺さんに俺は我慢できず、近づくとその手を取った。
「嫌なら振り払って」
「楠木、さん?」
「婆ちゃんが言ってたんだ。困った時は人の体温を感じると落ち着くって」
俺は婆ちゃんの笑顔を思い出しながら笑った。
そしてそのまま渡辺さんの言葉を待つ。
「なんで、楠木さんは、私にそこまでしてくれるんですか?」
「渡辺さんに一目ぼれしたから。だよ。それに渡辺さんは俺の命の恩人だ。何かしたいと思うのは、当然だろう?」
「私は、そんな上等な人間じゃないですよ」
「……」
「楠木さんは奇跡の力って知ってますか? 願いの力とも言われてますけど」
「あぁ。聞いたことがあるね。純粋な人の願いを叶える力だよね? どんな願いも叶える事が出来るって奴だろう?」
「そう。その力です。私は、その力で救われた事のある人間なんです」
それは恐らく言葉に出来ない衝撃であった。
都市伝説の様に語り継がれ、様々な人がその力の存在を語るが、実際に見た人間はいない。
そしてそんな奇跡を見たことがある人間もいない。
ただの噂話だと思ってたが、まさか本当にその奇跡の力を知る人間が居たとは思わなかった。
思わず緊張で手に力が入りそうになるが、それを何とか自制する。
「私の父はごく普通の会社員でした。ごく普通に会社に入り母と結婚し、私を生みました」
「しかし父は普通ではない所が一つありました。それは、奇跡の力を持っていた事です」
「そして父はその力を持っていたが故に命を落としました」
渡辺さんの言葉を遮るまいと、黙って聞いていた俺だったが、渡辺さんの言葉に思わず疑問を口にしてしまった。
「持っていたから、亡くなった?」
「はい。そうです。あれはある夏の日。私たち家族は三人でとある観光地へ行きました」
「私は楽しくて、ずっと笑っていた事を覚えています。しかし、温泉から出て廊下を歩いていた時、大きな爆発の音が響きました」
「その時の事はあまり詳しくは覚えていません。黒い煙と、燃え盛る炎と、お母さんの今にも泣きそうな声と頭痛」
「そしてお父さんの早く行け。逃げろという声がずっと、ずっと遠い炎の向こう側に聞こえていました」
「後々、お母さんに聞いた話ではお父さんは爆発の影響で壊れた棚に挟まれ、動く事が出来なかったそうです」
「しかし、私たちを逃がすために、お父さんは奇跡の力を使いました。もし私たちが居なければ、お父さんは自らにその力を使い脱出する事が出来ただろうに」
渡辺さんの言葉に俺は見たこともない、その光景を頭に描いた。
しかし、その事件で渡辺さんが責任を感じるのはおかしいのでは無いかと思う。
「渡辺さんは……」
「それだけじゃない。それだけじゃ、ないんです」
俺は渡辺さんに言葉を掛けようとしたが、遮られそのまま口を閉じる。
そして、瞳を大きく揺らしながら言葉を吐き出そうとしている渡辺さんの手を強く握った。
「お、お母さんも、私は、私を助けようとして、命を捨てて、私を!」
「渡辺さん。大丈夫だから。落ち着いて。ゆっくりでいい」
「私が、中学生の時、私は馬鹿で、考え知らずだったから、お父さんがいない悲しみをお母さんにぶつけたんです!」
「お母さんだって辛いはずなのに、でも私を責めないでくれて、なのに、私はそんなお母さんを見て、勝手に傷ついて!!」
「家を飛び出して、あの交差点で、車に! 私なんて見捨てれば、お母さんは助かったのに! 私を助けるために、どうして!」
震えながら、どうにか言葉を紡ぐ渡辺さんに、俺は彼女と出会った時の事を思い出していた。
『あの交差点で』という言葉はきっと、あの場所の事を指しているのだろう。
そして、あそこに供えられていた花は恐らくは彼女がお母さんにと置いた花だったのだ。
あの時、彼女が流した涙の意味も知り、俺は何とも言えない気持ちになった。
父は母と娘を生かす為に己が助かる選択肢を切り捨てた。
母は娘を生かす為に己が助かる選択肢を切り捨てた。
しかし、その命を救っても、その行為が彼女の心を大きく傷つけたのだろう。
それが彼女がここまで自分を貶める理由だったという訳だ。
ここで彼女にかける言葉は何か、考える。が良い案は浮かばない。
なら、俺も自分の話をするべきかと友の様に、話をする事にした。
「渡辺さん。少し俺の話も聞いてくれるかな?」
渡辺さんはしゃくり上げながらも頷き、涙を流しながら、俺の言葉を待ってくれている。
「ありがとう」
「そうだな。まず、どこから話そうか。まぁ、最初はここかな。渡辺さん。俺はね。両親が居ないんだ」
驚いた様に顔を上げる渡辺さんに俺は笑いかける。
別にそこまで暗い話をするつもりは無いよと伝えるように。
「とは言っても、最初から居なかった訳じゃない。両親とも病気になってね。亡くなったんだ。俺が小学校と中学校の時かな」
「でも俺には爺ちゃんと婆ちゃんが居たからさ。そこまで苦労する事は無かったよ。楽しくやってきたと思う」
「ただ、ずっと考えていたんだ。奇跡の力で助かった人がいて、奇跡の力で救われた人がいて、どうして俺の両親は誰も助けてくれなかったんだろうって」
「どうして僕にはその力が貰えなかったんだろうって、子供の時はずっと考えてた」
「もちろん、奇跡はその言葉が言う様にやっぱり奇跡でさ。誰にでも与えられる物じゃない。だから当然なんだと思う」
「それでも、ってやっぱり考えてた。もしかしたら神様はお父さんやお母さんの事が嫌いだったのかなってさ」
「でも、今ならわかる。先生が言っていた言葉が分かるんだ。俺は、奇跡を与えられなかった。でも、奇跡が貰えなかったからこそ、渡辺さんに伝えられる言葉がある」
「渡辺さん。奇跡なんか無くっても、人は幸せになれるんだ」
「渡辺さん。渡辺さんを助けたのは、奇跡じゃない。渡辺さんのお父さんとお母さんが渡辺さんの幸せを願って、それがただ、奇跡の力って形で渡辺さんに届いただけなんだ」
「それは呪いじゃない。願いだ。幸せになってほしいっていう祈りだ」
「二人は命の選択をしたんじゃない。ただ、愛した人を助けたかった。それだけなんだよ」
何が言いたいのか自分でもよく分かっていなかったが、渡辺さんには何かしら届いたらしく、先ほどよりも大粒の涙を流しながら泣く。
俺はそんな姿が愛おしくて、大切にしたくて、思わず抱きしめてしまった。
すぐ我に返り、渡辺さんの様子を伺うが、特に嫌がっては無さそうだ。俺の服を涙で濡らしている。
そのままハンカチ代わりにして貰えれば良いと思う。
ただ、一枚二千五百円のシャツだから、あんまり触り心地は良くないかもしれないけど。
「ねぇ。渡辺さん。やっぱりさ。俺、渡辺さんの事がもっと知りたいよ。これが運命だなんて言うつもりは無いけど、俺は出会えた意味を感じてる」
「だからさ。少しずつでも、渡辺さんの事を教えてもらえたら、嬉しい」
何度か腕の中で渡辺さんが頷くのを感じながら、俺は胸の奥にあふれる温かさを感じていた。
そして、先生が口癖の様に言っていた言葉には続きがあったなと思い出す。
『上ばかり見ていては足元がおろそかになるし、下ばかり見ていては目標を見失うだろう。私達は社会で他者と共に生きる人間だ。横に並び立つ者を思い、前を向いて歩いて行くんだよ』
先生の教えを頭に繰り返しながら、俺はこれから始める渡辺さんと共に歩む日々を想い、目を閉じるのだった。
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