第59話
「汐帆、その膝どうしたの?」
千夏は私の膝元を指して、そう言った。
「……気付くんだ」
「え?」
私の口の中だけで発された言葉は、しかし千夏の耳には届かなかった。私は「何でもない」とだけ言って、それきり何も言わなかった。そして、ただ千夏が口を開くのを待った。
同じ風が私たち二人を撫でる。
「剣谷くんからね、連絡があったの。それで私、汐帆に会わなきゃって……」
隣を歩く千夏はそう言った。千夏の降りる駅は私の駅よりもひとつだけ学校側に近い。一駅分という距離は行動圏として無理はない。そのため、私は千夏が偶然さっきの駅にいたのだと思っていた。剣谷くんからの連絡とはつまり、恐らく私が電車に乗った後か直前に彼から送られてきたものだろう。内容はきっと、彼のことだから私が電車に乗ったという、ただそれだけのもの。私の降りる駅を知っている千夏なら、それだけで駅を出てくる私を待つことができる。何となく、剣谷くんなら多分そうするだろうなと思った。もしメッセージを受け取った千夏が駅に来なければ、私には剣谷くんがそのメッセージを送ったことを知る術はない。それでも、私を送ってくれた後の彼の言葉はせめてもの示唆だったのだろう。私は彼のこの過干渉を責めようとは思わなかった。剣谷くんのことだから、きっとわかっていながら、それでもせざるを得なかったのだろうから。多分、私のために。
「どうしてって聞かないの?」
千夏は私にそう尋ねた。どうして、とはきっと千夏がここに来た理由についてだろう。それなら私は……。
「……うん」
私はそれだけを口にした。
「そっか、汐帆は……全部知ってるんだね」
千夏の声に特段驚いた様子はなかった。私は小さく頷いた。
千夏にその動作が見えていたかはわからない。私は千夏の方を向いていなかったから。だけど、千夏はやがて、自分の知っているすべてを私に話してくれた。
千夏は一年の一学期、私が行けなかった花火大会の場で、並木くんに告白した。この時、千夏は私と並木くんが既に付き合っていることは知らなかったらしい。嘘ではないと思った。私たちは当時、交際を隠していたわけではないけど、積極的に公にもしていなかった。知らなくても無理はない。現に山根くんから告白を受けた際も、彼は私が既に付き合っていることを知らなかった。そして、並木くんは千夏の告白を受け入れ、二人は付き合い始めた。千夏も夏休みの間は私の存在を知らなかった。その頃、私たちは同じクラスだったとはいえ、交流らしい交流もなかったから、気付かなくても当然だ。だけど、二学期に入って学校が始まると事情が変わる。千夏は私と並木くんの仲から、私たちが付き合っていることに勘付いた。そして、千夏は並木くんを問い詰め、真相を知ることになる。
「自分が二股をかけられてるって知って、すごくショックだった。ショックだったから、汐帆に積極的に話しかけた。そうすることで、汐帆にも自分が浮気をされたんだって気付かせたかった。悔しかったけど、並木のことは好きだったから。私が別れるよりも汐帆に気付かせてそっちを別れさせようと思ったの。だけど、汐帆はいくら私が露骨な態度を取っても一向に気付く素振りもなかった。初めはこんなに鈍感な人がいるんだって呆れた。だけどすぐにわかったの。汐帆は並木のことが好きだから、信用してるからなんだって。もうその時点で、私の中の汐帆に対する悪意みたいなものは知らないうちに無くなってた」
それから私たちの仲が深まるのに時間は掛からなかった。そして、自然と私と千夏、それに並木くんの三人でいることが増えていった。その頃から、千夏は私に浮気の事実を気付かせないよう、並木くんの計画に協力することにした。並木くんのように山根くんを警戒してではなく、いずれ私が自分から並木くんと別れるその時が来るまで、私が何も知らないでいられるように。
それから千夏は並木くんと相談し、学校ではお互いに普通の友達同士として振る舞うように決めた。思えば、並木くんに私のことを下の名前で呼ぶように提案したのも千夏だった。対照的に、千夏と並木くんの二人は私の前ではずっと苗字で呼び合っていた。きっとこれも周りの人や、そして私に違和感を抱かせないためだったのだろう。
「並木、酷いんだよ。花火大会で私にプレゼントを渡す時、最初に『潮見』って言ったの。まあ、並木らしいっちゃらしいんだけど」
そうして千夏はあの花火大会であったことを話した。会場である砂浜で花火が打ち上るのを待っている間、並木くんから千夏にメッセージが送られてきた。それは『二人きりで渡したいものがある』というものだった。初めに千夏が抜け、その少し後に様子を見てくると並木くんも抜けた。その間に、千夏は並木くんからプレゼントであるネックレスを受け取った。雨が降っていたから、合羽を着て。
「夏休みは他にも二人で一緒に水族園にも行ったの。それに並木は私のバイト先にも一人で来てくれた」
私は千夏のその言葉に、並木くんと二人で水族園に行った日のことを思い出す。あの時の並木くんは水族園のマップに詳しかった。本人はそんなことはないと言っていたけど、あの時私と行った水族園はもしかすると千夏と行った後だったのかもしれない。少し考えすぎかもしれないけど。それに私は千夏のバイト先のカフェへは、予備校の夏期講習に参加していたせいで並木くんとは予定が合わず、一緒に行けていない。本当は並木くんと二人で行って千夏を驚かせたりもしたかった。
恐らく私が気付いていなかっただけで、千夏と並木くんの関係を匂わせるものは他にもあったのだろう。私はそれらに悉く気付くことができなかった。並木くんはもちろん、千夏も、それに少ししか会っていない剣谷くんや涼風さんまでもが事情を知っていた。今日まで何も知らなかったのはきっと、私だけ。
そうして千夏の話が終わり、千夏も私もまたしばらく口を開けなかった。見ると、少し先の歩行者信号が点滅している。今走れば間に合いそうな距離だった。だけど、私と千夏のどちらも走ろうとはしなかった。そして、私たちの目の前で信号は赤に変わる。明確な目的地があって歩いているわけではないから、ここで迂回しても良かった。車が通る様子もなく、辺りには私たち二人以外には誰もいない。何なら、このまま渡ってしまうこともできた。だけど、どちらの足も動かなかった。そうして、住宅街の静けさが夜の闇と溶け合う。
「私、並木と別れたよ」
「……え?」
唐突に発された言葉に、私は思わず千夏の方を向く。それまでは気が付いていなかったけど、この時初めて千夏がずっと私の方を見て話していたのだと知った。そして、その目は少しだけ赤らんでいた。
「ど、どうして……なんで、そうなるの」
私はそう尋ねる他なかった。
「……今日ね、ここに来る前に並木に呼ばれて、会って話したの」
千夏は遠い過去を振り返りでもするように話す。
「そしたら、汐帆に別れたいってこと、伝えたって聞いた。これからは私だけが彼女だって言ってくれたの。今まであったこと全部話して、謝ってくれた。それでね、私、これで並木が私だけを見てくれるんだって、そんなこと少しも思わなかった。私の頭にあったのは……汐帆のことだけだった」
千夏は目を逸らすと、少しだけ笑ってそう言った。
「だからって、私、千夏に別れてほしいなんて……。そんなの私のためじゃない。全然嬉しくないよ!」
信号が青に変わる。だけど、道路には相変わらず車も人も通らない。
「ううん、汐帆に遠慮してとか、そういうんじゃない。もちろん、汐帆に喜んでほしいとかもないよ。並木と別れたのは……何ていうか、きっと私のためなの。あのまま並木と付き合い続けると……私はきっと大事なものを失うと思ったの」
「……大事なもの?」
自分のためを思うのなら、それこそ千夏は並木くんと付き合い続ければ良かった。千夏は私の問いに、ひとつ柔らかい笑みを浮かべた。
「そう。たとえば、友達と一緒に帰ったり、何でもないことで笑ったり。それに、時々喧嘩したり。そういう、何でもない時間。そういうのの一つ一つが、私にとっての大事なもの」
信号が再び点滅を始める。
「そこに汐帆がいないのは、どう考えたって嫌だったから」
一人で赤と青を往復する信号は、私を急かすようにも、気にもかけていないようにも思えた。
「……並木くんと別れたとして、私が千夏のこと、拒絶するとは考えなかったの?」
私の声は知らず険しくなっていた。みんなみんな、自分勝手だ。一方的に別れたいだなんて言ったり、私のことを優しいって勘違いしたり。だけど、千夏は私の言葉にも気を悪くした様子はなかった。
「あはは、その時はもう……仕方ないかなあ」
ただ、少し悲しそうに笑った。
そんな顔しないでよ。どうせなら最後まで……我儘でいてよ。
「だから、汐帆が並木ともう一度付き合ったとしても、今の私にはそれに口を挟む権利はない」
彼女は私にこう言うのだ。『これからは汐帆の好きなようにやりなよ』、と。
目の前の信号が青に変わる。
皆、自分勝手すぎる。
……なら、私も自分の好きなようにやろう。
私は一人、目の前の信号を渡り始める。
「汐帆……」
来た道を戻ることもできた。交差する別の信号を渡ることもできた。全く別の道を行くことも。だけど、私は前に進みたかった。
横断歩道の真ん中で、私は後ろを振り返る。一人佇む千夏が今にも消え入りそうになりながら私を見ていた。
「……千夏、行こ?」
我儘な私は彼女にそう声を掛けた。
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