第58話
電車を降りると生温い風が体に纏わりついてきた。私は思わず息を漏らす。日が短くなったとはいえ、どうやら夏の暑さはまだ鳴りを潜めてはくれないらしい。先ほどまで快適な空間にいたこともあり、今の私には余計にそう感じられた。駅のホームの邪魔にならない場所まで行くと、私は左手首に内向きに巻いた腕時計を確認する。少し遅くなったかと思ったけど、短針はまだ九時にも達していなかった。この時間であればギリギリ親に咎められることもないだろう。とはいえ、辺りにはもうとっぷりと夜の闇が満ちている。時間の面でも気持ちの面でも、今の私には寄り道をするだけの余裕はなかった。
そして、私は時計から目線を外すと改札へと歩を進め始める。流石に足取りはいつも通りとはいかなかった。自然と顔が地面の方を向いてしまう。ふと、破れたデニムが目に入った。今日は色んなことがあった。破れ目から覗く絆創膏を見て、私はそう思った。だけど、今の私の頭に真っ先に思い浮かぶのは、最後に剣谷くんから言われた言葉だった。
流石にもう暗いからと、喫茶店から駅までは剣谷くんが送ってくれた。その間、会話らしい会話はなかった。気まずさのようなものは確かにあったけど、それよりもお互いに疲れていて、無理に話をするような状況でもなかったことの方が大きいと思う。そして駅まで着き、送ってくれたお礼を述べた私に剣谷くんは言った。
『友達って些細なことで破綻することもあれば、よっぽどのことがあった後でも、意外と亀裂すらも入らなかったりするらしい』
その場で、剣谷くんの場合はどちらかと聞くこともできたけど、止めておいた。剣谷くんにとっての並木くん、そして私にとっての彼女のことは、お互いに干渉し過ぎることではないと思ったから。
明日も今日と変わらず学校がある。明日の授業は何だっただろう。改札へと続く階段を下りながら、私はふとそんなことを考える。誰かが時間割が変更になったと言っていた気もする。体育だと、嫌だな。帰ったら確認しておかないと。あとは、出された課題の確認も。
そうして階段を下りた私はIC定期券を取り出し、目の前の改札に翳す。私の煩雑とした頭の中とは違って、改札からはいつもと少しも変わらない電子音が返ってくる。そして改札を抜けた私の身体は、自然といつもと同じように南口へと歩き出す。思考は覚束ないのに、染みついた習慣だけがいつもと同じ道を辿って駅を出ようとしてくれる。だけど、丁度駅を出た辺りで私の両脚は止まってしまう。この時の私には明日の時間割のことも課題のこともどうでもよくなっていた。ぽつりと、誰に聞かせるでもなく私は呟いた。
「……明日からお昼、誰と食べよう」
もしかすると、今考えるべきことはそれではないのかもしれない。だけど、それでも、明日からの昼食に彼女の姿がないだろうことが、私にはひどく悲しく、寂しいことのように思えて仕方がなかった。
……汐帆
俯く私の名前を呼ぶ声があった気がした。聞こえたその声もまた、どこか悲しそうな響きを持っていた気がして、私はゆっくりと顔を上げてみる。夜に映える、綺麗な髪色だと思った。
果たして、そこには今にも泣き出しそうな顔をした千夏がいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます