第56話
自分の耳を疑うのは今日、これで何度目だろう。
「……冗談、じゃないよね」
私の言葉を受ける剣谷くんの耳の先が赤くなっている。それでも、私はそう聞かないわけにはいかなかった。剣谷くんの気持ちもそうだけど、どうして今それを口にしたのか、私にはわからなかったから。
「……潮見さんは、どうして俺が最初に並木の浮気現場をこの目で見たと嘘をついたのか知りたいって言ったよね。それは……確たる証拠が欲しかったからだ。並木が浮気をしているっていう確かな証拠が」
剣谷くんはぽつりぽつりと言葉を続ける。
「俺は並木と潮見さんが二人だけでいる様子を見たことがない。見たことがあるのは文化祭で大人数でいる時だけだった。だから、潮見さんの並木を想う気持ちがどこまで深いのか、本当のところがわからなかった。もしかすると、潮見さんは俺の推測だけで構築された考えを聞く耳も持たずに突っぱねてしまうのではと思った。そうなると、困る。きっと並木は自分では潮見さんには何も話さない。自分が浮気をしていたことも、どうして潮見さんと付き合い続けたのかも。そしてその場合、潮見さんは並木のことを諦めないかもしれない。ずっと潮見さんの中に並木が存在し続ける。そんな事態だけは、どうしても避けたかった。俺は、潮見さんに並木を諦めてほしかったんだ……」
最後の方になるにつれ、剣谷くんの顔は次第に下を向き、声は小さくなっていった。
「……それで、並木くんを諦めて傷心した私ならどうにかできると思ったの?」
私の言葉に剣谷くんはばっと顔を上げる。
「それは……」
私自身、どうしてこうも意地の悪い問いを口にしたのかわからなかった。だけど、それでもわかることがひとつだけあった。きっと、私は怒っていたのだ。
「……正直に言うと、その気持ちが全くなかったわけじゃない、と思う。だけど、それよりも多分俺は……前に進みたかったんだ。すずさんは文化祭で並木に気持ちを伝えた。中学の頃、俺の助言があったとは言え、偽の恋人なんて回りくどい方法を取ったようなあの人がだ。並木にしても、そうだ。中学以来、随分と距離の開いてしまった俺たちをああして文化祭に呼んだ。それに何より、浮気の関係を解消しようと決意した。並木の場合、形としてはマイナスを清算しただけかもしれない。だけど、二人とも前に進もうとしたんだ。進めてないのは……俺だけだった。いや、周りがどうこうじゃない。俺は、文化祭で再び潮見さんに会ってしまってから、これでもう潮見さんに会えなくなるんだと思うと、何か行動せざるを得なかったんだ。そうして俺は、潮見さんにあのメッセージを送った。だから、そこに一切の邪な考えがなかったとは言わない……」
剣谷くんはそう口にした。そんなこと、聞くまでもなくわかっていた。好きな人と話をする、いや同じ空間にいるだけでもあわよくばと思ってしまうのは、きっと普通のことだ。それは誰かに責められるようなことじゃない。多くの人は自分が下品に思われないよう、嫌われないよう、それを表には出さないようにする。私はそのことを了解していながら、それでも剣谷くんにあえてその不文律を確かめるような問いをした。明確な考えがあったわけでもなく、ただ事態を把握できない苛立ちに任せて。それなのに、剣谷くんは自分の気持ちを偽ることなく話した。それだけで剣谷くんの気持ちを知るには十分だった。だけど、だからこそ私にはわからなかった。
「……どうして私なの? だって私、剣谷くんとは中学の頃は……」
少し理性的になった私には、その先を言うのは憚られた。どうしたってそれは、面と向かって人に言うようなことではなかったから。だけど、剣谷くんはあえてその先を続ける。
「……そう、友達ですらなかったよ。ただ席が隣で数回話をしただけ。そんなことは俺が一番よくわかってる。……わかってるさ。こんなの、気持ち悪いことだって。だけど、自分ではどうしようもできないんだ。俺はどうしようもなく、潮見さんのことが好きなんだ。中学の頃からずっと。俺の…………初恋だった」
剣谷くんの声は震えていて、そのためか、酷く切実な響きが空気を伝って私の両耳に届いた。
「潮見さんの綺麗な切れ長の目、大人びた容貌、そして綽綽とした立ち居振る舞いに心惹かれた。そして数回話すうち、潮見さんのその声に、優しさに心奪われた。当時、俺はクラスメイトと話す時、決まって思うことがあった。『ああ、今この人にとっての俺はきっと、話をしてあげている存在なんだろうな』、と。自分でも捻くれた考えだと思うよ。人間は意識的にも無意識的にもレッテルを貼って生きる生き物だ。たとえ本当にそう思っていたとしても本人に悪気があるわけではないだろうし、勉強くらいしか取り柄のなかった俺にそうした態度で接するのは変なことじゃない。だけど、当時の俺はクラスメイトと会話をしながら、誰も自分と話をしていないような気がしていた。そんな中で、潮見さんだけがそんな誰とも違っていたんだ。話をしてくれているんじゃなく、ちゃんと俺の言葉を聞いて、俺を見て話をしているような気がした。そうして、俺自身も潮見さんにレッテルを貼ってしまっていた。そのことに気付いていながら、俺にはどうしようもなかった。どうしようもないほどに、潮見さんを好きになっていたんだ。いつかこの想いを伝えたかった。だけど、中学の時の俺はあまりにも子供で、きっと潮見さんには見向きもされないだろうと思った。……いや、こんなのは言い訳か。結局、俺はただ自分の臆病さゆえに、中学のうちに自分の気持ちを伝えることができなかったんだ。後悔したよ、本当に。潮見さんとは通う学校も違っていたから、きっともう会うことはないんだと思った。そして皮肉なことに、そのことを理解した途端、俺の背が伸び始めた。高校に入って美容院に行くようにもなってスタイリングも教えてもらった。そのおかげか、高校ではかっこいいと言ってもらえることも多くなった。女子から告白を受ける機会も増えた。だけど、駄目なんだ。いくら告白を受けても、心が動かない。それどころか、潮見さんなら今の自分をどう思うかなんて考えばかりが頭をよぎるんだ。ずっと、どうしようもないほどに潮見さんが恋しかった。潮見さんの声で俺の名前を呼んでほしかった。潮見さんの笑う顔をもう一度見たかった。潮見さんに、もう一度だけでも会いたかった……」
そう言う剣谷くんの顔は、けれど俯いていたせいで見えなかった。
私が中学の頃に剣谷くんとした話なんて、他愛のないものばかりだったはずだ。それこそ好きな本や好きな曲、時には苦手な先生の話なんかもしたかもしれない。だけど、私にはその一つ一つを仔細に思い出すことはできなかった。そのせいもあったと思う。
「……もし剣谷くんが本当に中学の頃に私を好きだったとしても、剣谷くんならきっと私よりも綺麗な
、魅力的な人を選べたはず。それでも私をだなんて……無理があるよ。それに何より、私がこうしてここにいるってことは、並木くんにとって私には魅力はなかったってことでしょ? 尚更、剣谷くんが今でも私を好きだなんて……」
剣谷くんが顔を上げる。端正な顔の中に存在感を放つ二つの目が私を見据える。
「俺にとって潮見さんより魅力的な人なんていなかったよ」
思わず私の方が目を逸らしてしまいそうになる。
「並木が選んだのが潮見さんとは別の女性だったとしても、それは潮見さんが魅力的でないことにはならない。俺と並木は違う。生い立ちも、性格も、きっと何もかもが違っている。並木の考えを否定してるわけじゃない。だけど少なくとも、俺は潮見さんよりも魅力的な人とは会ったことがない」
剣谷くんは私の目を見て、そう言い切ったのだった。だからこそ、私は言わずにはいれなかった。剣谷くんの見る私の像が、そもそも間違っているのだということを。
「……私は、剣谷くんが言うような人間じゃない。堂々としてるとか、余裕があるなんて私の評として正しくない。目つきが悪くてただ感情が表に出にくいから、みんな私のことを勘違いしてるだけだよ。内心はいつも怯えてばかり。さっき剣谷くんは私のこと優しいって言ったけど、違う。そんなはずないの。だって、現に私は中学の頃、剣谷くんと話したことをほとんど憶えてない。きっと臆病な私は、誰からも嫌われたくなかっただけ。だから、剣谷くんの言ってたことは本当は逆なの。私の方が剣谷くんに話をしてもらってた。ただ、私が嫌われないために。自分のことばっかり考えてた。それが本当の私。……憶えてる? 文化祭で軽音部のライブを見たいって私が言った時、涼風さんが言ってた。『そういうのに興味あるんだ、意外』って。皆に見えてる私ってきっとそうなんだよ。私はロックが好きだって隠してたわけじゃない。それなのにそう見えてたってことは、周りが見てる私はきっと私の知る私じゃない。だから、剣谷くんが好きだって言ってくれる私もきっと……」
「BUMP OF CHICKENが好き」
「……え?」
私は顔を上げる。
「他にも、andymori、ART-SCHOOL、LUNKHEAD、SPARTA LOCALS、Syrup 16g、THE BACK HORN、THE NOVEMBERS、アルカラ、くるり、クリープハイプ、相対性理論、フジファブリック……。全部、潮見さんが中学の頃、俺に好きだって話してくれたバンドだ。それだけじゃない。話題にした小説家も憶えてる。有栖川有栖、泡坂妻夫、岡嶋二人、北村薫、連城三紀彦……。俺、潮見さんから聞いて、いつかもう一度話そうと思って全部聴いたし、読んだんだ。岡嶋二人は井上夢人作品まで。あとは、体育の
剣谷くんは少し微笑んでそう言った。
「さっき俺が並木の中学の頃の話をした時、俺は自分の浅慮がすべての原因だと言った。それだけじゃない。明らかに俺はグズグズとした、赦しでも乞うているような話し方をしていた。それなのに、そんな俺を潮見さんは突き放さなかった。最善ではなかったと言いつつも、俺を否定することはなかった。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、俺はその言葉に救われたんだ。他の誰でもない、潮見さんの言葉に。きっと潮見さんはそれすらも自分のためだと言うんだろうけど、それは必ずしも潮見さんの優しさを否定することにはならない。自分が嫌われないためには、結局、一度は目の前の人の気持ちを考えることになる。そうして他人のために思考をすることを、俺はやっぱり優しさと呼んでしまっても良いと思う。だから、俺にとっての潮見さんは優しい人だよ。今も昔も変わらずに」
剣谷くんはそう言って、確かに私の目を見た。そうして、しばらくの間、お互いに無言の状態が続いた。
「……剣谷くんの知ってる私は、やっぱり本当の私とは違う」
ようやく耳にした私の言葉に剣谷くんは静かに目を閉じた。だけど、私は構わず言葉を続ける。
「私が好きなバンドは剣谷くんが挙げたものだけじゃないよ。キャプテンストライダムも好きだし、Galileo Galileiやスーパーカー、ナンバーガールもそう。小説にしても、ミステリ以外にも好きな作品はたくさんある。あ、でも体育の宇賀島先生が苦手だったっていうのは合ってる」
剣谷くんは少し驚いたような顔を見せた。
「……はは、そっか。それは知らなかったな。……うん、ちゃんと憶えておくよ」
私はそう言って笑う剣谷くんの顔に、中学の頃と変わらない彼を見たと思った。
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