第55話

 そして、さっき潮見さんが言ったように、文化祭が終わった後に俺はすずさんから並木についてのいくつかの話を聞いたんだ。二人になった帰り道だった。ただ、これに関してはすずさんの名誉のために言うけど、俺はあの人からは並木が浮気をしていることに関して、何一つ直接的なことは聞いていない。俺があの人から聞いたのは、『並木が夏祭りで女性にプレゼントを渡していた』ことと、『並木が何かを収める旨の発言をした』ことだけだ。プレゼントを渡した女性が誰かなんてあの人は一切口にしていないし、何を収めるかについてもそう。もちろん、夏祭りでは雨が降っていたことや、うどんのことは聞いたけど、並木の浮気それ自体には全く触れていないかった。俺が並木の浮気についてある程度の想定がなければ、きっとすずさん自身の恋愛の話と受け取っていただろう。だから、あの人について誤解はしないでほしいんだ」

 剣谷くんはそう言うと、私の反応を待つようにこちらを窺った。だけど、そうして剣谷くんの話を聞いても、今の私には一体何を口にすれば良いのか、わからなかった。剣谷くんの推理はきっと当たってる。もしかすると細部は実際とは異なるかもしれないけど、それでも並木くんは浮気をしていることと、その相手が千夏だってことは、きっとそう、間違いないはず。だから、それは、もう良い。だけど、最後の話はどうやって受け止めれば良いのだろう。並木くんは私のためを思って、私と付き合い続けていた。それも去年の夏休みからなら、一年以上も。二人で色んなことをしたし、色んなところへ行った。夏休みに水族園へ一緒に行ったことなんかはまだ記憶に新しい。その全部が並木くんにとってはやらなくてはいけないことだった。私のために……。

 知らずテーブルの下の手に力が入っていた。私のため? ううん、並木くん。そんなのは私のためなんて言わない。並木くんがそうやって苦しむくらいなら、私に相談してほしかった。振られても良い。千夏を選んだのなら、それでも良い。だけど、せめて悩みを共有できるだけの間柄ではありたかった。高校に入って初めてできた恋人であり、そして初めてできた友達だった。それなのに、そう思っていたのは私だけで、並木くんにとっては私はそのどちらでもなかったの? 並木くんは私を思ってくれていたのかもしれない。だけど気付いてる? 並木くん、そこに、私はいないんだよ。

 ……ああ、と私は思い直す。そんなはずない! 振られても良い? 千夏を選んだならそれでも良かった? ううん、違う。そうして大人ぶって一歩引いてみたところで、そんなのが本心なんかじゃないことは私が一番よくわかってる。そうやって格好つけて、私は私を守ってるだけだ。

 私は、もっと並木くんといたかったんだ。千夏よりも私を選んでほしかった。並木くんと、もっと色んなことを話したかった。それなのに、こんな形で終わりだなんて。……そんなの嫌だよ。……並木くん。

 私がそうして口を開けないでいるところを見て、やがて剣谷くんはもう一度自分から話し出す。

「……今のを聞いて気付いたと思う。俺は最初に『わかった』なんて言い方をしたけど、その実、これらに明確な根拠なんてものはない。さっき真中さん、マスターに聞いたことを除けば、そのすべてが俺の推測にすぎない。いや、推測どころか願望と言ってしまって良いものまであった。そんな話を、潮見さんにはしたくなかったんだ。だけど、そのことをわかっていて、ひとつ潮見さんに言いたいことがある。これは潮見さんの知る剣谷犬汰じゃなくて、中学の頃からの並木の友達が言ってると思ってほしい。高校に上がって初めて並木と会った時、俺はあいつを変わったなと思った。中学ではすずさんの一件があったっていうのもあるけど、それを抜きにしても、あいつは少し明るくなった。それに、思っていることを、それが相手にとって良いことなら、口に出すようにもなった。きっと高校に入ってからの周りの影響だろうと思った。間違いなく、潮見さんもそこに含まれるんだ。これは気休めなんかじゃない。こんなことを言ってしまって、顰蹙を買ってしまうかもしれない。だけど、それでも構わない。潮見さんは並木にとって、絶対に大事な人だったはずなんだ。少なくともそれだけは、俺の願望じゃないはずなんだ」

 少し、疲れていた。そういえば、今日は夏休みが明けてから初めて本格的な授業がある日だった。体育もあったから身体的にも少し疲れている。だけど、それを上回るのはやっぱり精神的な疲労感。このまま家に帰っても、きっと剣谷くんは何も言わない。そして、いつものように明日も早いからと眠る準備をする。いつも通り学校へ行くために。

 しばらくの間、私たちのどちらも、お互いに黙っている時間が続いた。やがて、再び口を開いたのは私の方だった。

「……剣谷くんが今日、私にあのメッセージをくれていなければ、きっと私は何もわからないままだった。色んなことを、色んな人の気持ちを見落として、明日からの日々を過ごしてた。剣谷くん。話してくれて……ありがとう」

 きっと剣谷くんも疲れているだろうに、私の言葉を受け取って微笑みを作ってくれた。そう、剣谷くんはきっと並木くんについて、知ってることを全部話してくれた。だけど、それで終わりじゃない。私にはまだもう少しだけやらなくちゃいけないことがある。

「剣谷くんは今日、並木くんについて多くのことを話してくれた。きっと、知ってることすべて。でも、聞いてないことがあるの。それは、並木くんのことでも、涼風さんのことでも、そして私のことでもない。剣谷くん自身のこと。その本心。もう一度聞かせてくれる?

 ……剣谷くんは、どうして最初にすべて自分が見たなんて嘘をついたの?」

 疲れていたけど、それだけは最後に聞いておかなくてはいけないと思った。剣谷くんはさっき、推測や願望でできた話を私に聞かせたくなかったと言った。だけど、剣谷くんも私も、探偵じゃない。ただの高校生だ。それは、最初に剣谷くんが言ったことだ。高校生二人が話をする時、根拠なんていうものを気にする必要なんてない。きっと最初から剣谷くんの三つの推理を聞いていたとしても、私はそれを受け入れた。剣谷くんは、どうして最初に嘘をついたのか。私は聞かなくてはいけないのだ。これがただの高校生二人の会話なら、尚更。

「……それは」

 私の意図を瞬時に察した剣谷くんの表情は、けれど今までに私が一度も見たことのないものだった。嫌悪とも拒絶とも違う、ひどく苦々しい表情。それでも、剣谷くんは何度か口を開こうとする。だけど、どうにも言葉にならないといった様子で顔を伏せてしまう。私はただ剣谷くんが話してくれるのを待った。そうすることが、今の私にできるすべてだったから。たとえ私は剣谷くんに何を言われたとしても、それを聞かなくてはいけない。

 やがてしばらくの瞑目の後に、息を整えた剣谷くんはようやく顔を上げた。その顔には依然苦々しさが残っていたけど、それよりも覚悟の色の方が濃く見えたから、私も姿勢を正す。

 そして、剣谷くんはゆっくりと口を開いた。

「俺は……」

 剣谷くんは少しだけ、目を伏せた。

「潮見さんのことが……好きなんだ」

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