第53話

「次に、『なぜ、浮気相手がわかったか』について。これは潮見さんの高校に流布されていたジンクスと関係があるんだ」

「ジンクス?」

 ジンクスと言えば、並木くんが朝日ヶ丘さんに話したあれのことだろう。けど、どうしてそれが並木くんの浮気相手と繋がるというのだろうか。

「確認しておくと、潮見さんの高校のジンクスは、『恋人になりたい対象と二人でヒノキに触れ、振り返る』というものだった。しかし、おかしなことに潮見さんの高校には檜は一本も植わっていなかった。確か茅ヶ崎さんか朝日ヶ丘さんの話では、長くあの学校に勤めているという教師や用務員に話を聞いても、かつて校内に檜が植わっていたという事実もなかったという。そのため、このジンクスはかつて存在した檜を対象にしてできた話でもなさそうだった。そんな状況にあって、校内の生徒の多くはジンクスの存在について知ってはいても、その対象となる檜がないために強く信じる者はいなかった」

 そうだ。あの時、確かに元々中庭には人が集まっていた。けれど、そんな人たちの多くはジンクスを信じてというよりは、ジンクスをネタにして他者と関係を深めようとしているように見えたのだった。

「けど、今回の文化祭でその状況が変わった。いや、並木がそれを変えたと言っても良いだろう。並木は『ヒノキ』を檜のことではなく、火の木、つまりキャンプファイヤーの井桁に使われる材木のことであるとし、そして『振り返る』という行為を二人で材木を持って歩いている姿であるという解釈を唱えた。それも、ただ俺たちの前で唱えたんじゃない。わざわざ新聞部の部員である朝日ヶ丘さんがいる前で、だ。このことが俺にひとつのある疑惑を抱かせた。もしかすると、並木の浮気相手とは茅ヶ崎さんなのではないか、と」

「待って、剣谷くん。話が繋がらない。どういうこと?」

「並木はあの時、俺たちの中学の話を引用して、ジンクスに関する噂が人から人へと伝わっていく際、少しずつ曲解されていったのだろうと説明していた。けど潮見さん、並木の推理を聞いた時に思わなかった? 少し、無理があるんじゃないかって」

 私はその剣谷くんの問いに頷くことはしなかった。けれど、正直なところを言うと、心当たりがないというわけでもなかった。剣谷くんは私のその反応を肯定と受け取ったようだった。

「キャンプファイヤーの井桁を『火の木』だとするのもそうだし、材木を運んでいる姿を『振り返っている』とすることも同様だ。いかにもジンクスで扱われそうな『キャンプファイヤー』なんてものが『火』なんて一文字に形を変えるとは考えづらい。材木を運ぶ姿も、いくら曲解されたとはいえ、運ぶという要素が全く消えるとは思えない。もちろん、全くない話だと否定することもできないけど、それでも並木の解釈を積極的に信じることはできなかった。並木も馬鹿じゃない。そのことについては、きっと本人も気が付いていたはずだ。けど、並木は自分のその推理を押し通すしかなかった。他のどの時間、どの場でもなく、あの時、あの場所で」

「……どういうこと?」

 並木くんの話した推理が少し無理のあるものだということは、一応納得できる。私も確かにあの時、同じことを思ったから。でも、その後の剣谷くんの言うことがわからない。あの時、あの場所で話す必然性。そんなものが本当にあったのだろうか。

「あの時、並木がその説を唱えることによって何が起こったか、憶えてる?」

 あの後、何があっただろう。確か……。

「並木くんのその説を信じた人たちが中庭に殺到した……?」

 あの日、並木くんの推理を聞いた後、少しして中庭へと向かった私たちの目の前には、そこを埋め尽くさんばかりの人の姿があった。剣谷くんはそれのことを言っているのだろうか。

「そう。じゃあ中庭に人が殺到して、その後は?」

「実行委員だった私と千夏が中庭の整理係を任された……とか?」

「それもそうだけど、少し行き過ぎかな。中庭に潮見さんたちの整理が必要になるくらい人が押し寄せた。これって、その大群のせいで中庭には人が立ち入れない状態になったってことだよね。つまり俺が言いたいのは、あの時、俺と茅ヶ崎さんの二人が中庭に行けなくなった、ということ」

 いよいよ剣谷くんが何を言いたいのかわからなくなった。あの時、中庭に行けなくなったのは何も剣谷くんと千夏の二人だけではなかったはずだ。講堂までの通り抜けに使おうとしていた私と並木くん、涼風さんも中庭には行けなかった。それがどうして剣谷くんと千夏だけ……。そう考えて、私はひとつ思い当たるところがあった。

「その様子だと何かわかったみたいだね。そう、あの時中庭に行こうとしたのは何も俺と茅ヶ崎さんだけじゃなかった。他のみんなも同じだ。けど、その目的が違っていたんだ。潮見さんと並木とすずさんの三人は講堂までの通り抜けのために中庭を使おうとしていた。でも、俺と茅ヶ崎さんの二人の目的はその中庭そのものだった」

 あの時は千夏が講堂でのライブに参加できなかったため、それを聞いた剣谷くんが千夏に付き添う予定だった。特別教室棟の窓から見えた中庭が目に入った千夏が、あそこで待っていようと提案したことを憶えている。

「何もなければ、俺と茅ヶ崎さんはあのまま中庭に向かっていたはずだ。そして、あの時の茅ヶ崎さんの提案は、ただ中庭に行こうというものではなかった。茅ヶ崎さんは俺に向かってこう言ったんだ。『中庭のベンチで並木の中学時代の話でも聞かせてよ』、と」

「……あ」

 私はこの時になってようやく、剣谷くんが何を言いたいのかわかった。それなら、並木くんがあの推理を話した理由って……。

「さっき、あの学校にはヒノキは植わってないって言ったよね。俺は実際に確認したわけではないけど、新聞部の朝日ヶ丘さんが言うからには確かに植わっていなかったんだろう。けど、植わっていないだけだったんだ。ジンクスの『ヒノキ』は並木が言ったような『火の木』なんかじゃなくて、本当に『檜』のことを指していたんだ。あの中庭にはあったよね、プラスチック製のものとは別に……やけに年季の入った木製のベンチが。つまり、『ヒノキ』とは、中庭にあった檜でできたベンチのことだったんだ。俺は遠目にしか見てないけど、側にあったテーブルと合わせて、あれは確かに木製だった。そう考えると、ベンチに座った二人が『振り返る』ものとして妥当そうなものは自ずとわかってくる。これは物理的に振り返ること、ましてや材木を運ぶことを意味するんじゃない。二人で『過去を振り返る』ってことなんだ。つまり、潮見さんの高校に流布していたジンクスの元々の形は、『二人で中庭の檜でできたベンチに座り、思い出話をする』ことだったんだ」

 剣谷くんの言葉を信じるなら、『檜でできたベンチに座』るは時の流れとともに『ヒノキに触れる』に変わり、『過去を振り返る』は目的語が抜け、単に『振り返る』だけになったことになる。並木くんの説だと、ジンクスは人に伝わるにつれて単純化され、そして曲解される必要があった。けれど、剣谷くんの説だと、それぞれの要素は単純化されるに留まる。どちらの方があり得そうかは言うまでもなかった。

「今日、俺がこの場所を指定したのは何も時間のことを気にしてというだけじゃないんだ。並木には話したけど、実はあの人は潮見さんの高校のOBなんだ。だから、もしかするとジンクスについて何か知っていることがあるかもしれないと思った。真中さん、今の話、聞こえてた?」

 剣谷くんはカウンターの方へ顔を向けてそう言った。何やら作業をしていたマスターは剣谷くんの言葉を受けて手を止める。少しの間があった後、低い声で口がこちらに届いてきた。

「……そもそも、俺の代にキャンプファイヤーなんてものはなかった。あれは、ここ数年でやるようになったものだと聞いている」

 マスターはそれだけ言うと、ちらとだけ私の方を見て、また元の作業へと戻った。マスターの話を信じるなら、並木くんの説はほとんど否定されたことになる。キャンプファイヤーがここ数年でプログラムに盛り込まれたものであるなら、当然ジンクス自体もその数年以内にできたものということになる。もし並木くんの語った説がジンクスの真相なら、誰かの口からキャンプファイヤーという言葉が出ていてもおかしくない。それなのに、学内の教師や関係者の誰に聞いてもキャンプファイヤーという言葉は出てこなかった。出てきたのは『ヒノキ』という言葉だけ。

 剣谷くんはそうしてマスターの証言を得られると、ひとつ頷いてからこちらに向き直った。私はその仕草から、二人が予め示し合わせていたわけではないのだろうと思った。

「並木は俺と違って好んで推理をするような人間じゃない。それなのにあの時は、多少の無理を承知の上で、それでもその説を押し通す必要があったんだ」

「……それって、朝日ヶ丘さんの存在があったからってことだよね」

 私の言葉に剣谷くんは頷きを返す。

「そう。並木の目の前には、これから正にジンクス通りの行動を取ろうとしている俺と茅ヶ崎さんがいた。並木としてはどうにかしてそれを止めたかったことだろう。けれど、直接そう口にすることもできない。『ジンクスの真相はこうだから、茅ヶ崎と剣谷は中庭に行くのを止めてくれ』、なんて言ってしまうと、茅ヶ崎さんと何かあるのかと思われかねない。並木の立場としては、少しでも茅ヶ崎さんとの関係を疑われることは避けたかったはずだ。だけど、並木一人の力では中庭へ向かおうとする俺と茅ヶ崎さんを止められそうにない。そうしてどうしようもなかったところへ、丁度朝日ヶ丘さんが現れたんだ。それも、学内新聞に掲載する、あと一つの記事を探している様子でね。並木にとっては望んでもないことだっただろう。なぜなら、学内新聞ではその日の朝、一度ジンクスの存在について触れていたんだから」

 並木くんはきっと、誰よりも早くにジンクスの真相に気が付いたんだ。けれど、それをそのまま話してしまうわけにはいかなかった。剣谷くんが言ったように、話して千夏との関係を疑われるのもそうだし、そうでなくとも剣谷くんと千夏がその話を聞いてもなお、ジンクスなど気にすることなくベンチに向かってしまうということもあっただろうから。並木くんにしてみると、そのどちらも面白くなかったはずだ。自分の恋人に魅力的な同性が近づいて欲しくない気持ちは、私にもわかる。だから、剣谷くんの言う通り、何とかして千夏と剣谷くんの二人を中庭に近づけさせたくなかった並木くんにとって朝日ヶ丘さんの出現は望んでもない状況だっただろう。何せ、朝日ヶ丘さんは朝のHRで先生が少し話しただけのジンクスに関する情報を瞬く間に学校中に広めてしまった。朝日ヶ丘さんのその能力は、一年の頃に同じ部員だった並木くんならわかっていたはずだ。そして、どうやって話せば彼女の食指が動くかも。

「並木としては、一時だけでも噂になってくれれば良かったはずだ。あの時、軽音部のライブの残り時間はお昼休憩の間、残り三十分程だった。その間だけでも中庭へ行くのを阻止できれば、今度のライブは一時間後。それまでに次の策を考えるつもりだったんだろう。もっとも、それ以降は俺が別れて行動したから策を立てるまでもなかっただろうけどね。今にして思うと、中庭に到着するまでに並木がトイレに行ってたのも、朝日ヶ丘さんの記事が読まれるまでの、せめてもの時間稼ぎだったんだろうね」

 あの時、朝日ヶ丘さんは並木くんの推理を聞きながらスマホを触っていた。あれが剣谷くんの言ったように記事の執筆か、聞いた内容の転送だったなら、あとは記事をひとつ載せるのみの状態だった学内新聞を、彼女のことだからきっとすぐに仕上げただろう。それは多分、他の新聞部の部員の誰でもなく、朝日ヶ丘さんでないとできないことだ。今になって考えると、プログラムの最後、キャンプファイヤーの際にジンクスのことを話題に出している人はいなかった。もしかすると朝日ヶ丘さんのことだから、あの後、記事が真実とは違うと気付いて新聞の掲載を取りやめたということもあるのかもしれない。

「だけど、それら並木の不審な行動の数々によって逆に気付くことができたんだ。並木がそうまでして俺と茅ヶ崎さんを中庭に行かせたくなかった理由は何かって。まあ、そうは言っても俺がそうして並木の浮気相手に気が付いたのは相当遅い頃だったけどね。潮見さんは憶えてる? 文化祭の時、正門に設置されてた看板のこと」

「正門の看板? ……確か、『文化祭 カイマク』って書かれたあれのこと?」

 私は係ではなかったけど、文化祭実行委員の人が毎年書いているらしく、私も当然その存在自体は知っていた。

「そう。潮見さんは知ってると思うけど、あれには仕掛けがあった。最終的に加筆されて『文化祭 ヘイカイ マタ来年』となる仕掛けが。フェアな謎ではなかったけど、そんな風に言葉なんてのはどうとでも解釈できる。時には恣意的に解釈することも。そうして俺は並木の推理を聞いた時に感じた違和感を紐解いていき、最終的に並木の浮気相手は茅ヶ崎さんなのではないかと考えた。これが二つ目、『なぜ、浮気相手がわかったか』、だ」

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