第45話

 私はそうして唐突に言われた言葉を、未だ脳内で処理できないでいた。

「……えっと、ごめんね。ちょっと頭が混乱してるみたいで……」

 並木くんはさっき何と言ったのだろう。「わかれてくれ」と言われたような気がする。「わかれる」ってどういう字だっけ……。

 いや、本当はわざわざそんな回りくどいことをしなくてもわかっていた。ただ、私はそれを受け入れることができないでいた。

「わ、別れるって……どうして?」

 ようやくのこと、震える声で私はそう口にすることしかできなかった。並木くんの目を見れば何かわかるかと思って、せめて目線だけは逸らさなかった。けれど、結局その行為には何の意味もなかった。私の問いを受けた並木くんの方が目を逸らしたから。

「……もしかして、他に好きな人ができたとか?」

 私は恐る恐るそう尋ねる。けれど並木くんは私の目を見ないまま、答えてくれない。

「……ごめん」

 そして、それだけを口にした。私はその言葉を質問への肯定と受け取るべきか否定と受け取るべきかわからなかった。並木くんは何に対して謝ったのだろう。何か私に謝るようなことでもしたのだろうか。ああ、思考が覚束ない。

「……もしかして、涼風さん?」

 並木くんは下を向いたまま、やはり何も答えてくれない。私がそう尋ねたのには理由があった。文化祭で初めて会った時から、並木くんと涼風さんの間にはただの友達同士という以外の関係があるような気がしていた。もしかすると、昔二人は付き合っていたのではないかと思ったほどだ。文化祭で彼女と再会して、並木くんの気持ちに変化が起こった?

それとも、私が……、私が何かしてしまったのだろうか。並木くんに関係を終わらせたいと思わせるほどのことを何か……。

 私たちを覆う空を徐々に闇が侵食していた。どれだけの時間が経っただろう。体感では一瞬だったようにも、かなり長い時間だったようにも感じる。私はこの時になって初めて、誰もいない公園を少しだけ怖いと思ってしまった。

「ごめん、汐帆」

「え、並木くん?」

 並木くんはそう言うと、ベンチの横に置いてあったリュックを持って立ち上がる。

「ま、待って。私まだ……」

 私が言い終わるのも待たず、並木くんは背中を見せると公園の出口へと足を速める。私も一動作遅れてそれに付いていこうとする。けれど、慌てたせいで私のリュックはベンチの角に引っ掛かってしまう。どうにかそれを解き、並木くんの後ろ姿を追おうとする。並木くんはもう公園の外まで出てしまっていた。

「っ……待って、並木くん!」

 私がそう呼び掛けても、並木くんの耳には届いていないように見えた。走り去る並木くんにどうにかして追いつこうと、私も走り出そうとする。けれど、ほんの数歩進んだだけで不意に段差に躓いてしまう。私は満足な受け身も取ることができず、まともに地面と衝突する。肘と膝を擦った感触があり、次いで身体全体が地面に倒れる。つんとする感覚が鼻を抜ける。けれど、まだ速度が出きっていなかったからか、衝撃を感じたくらいで痛みはそれほど感じなかった。私は何とか上体だけでも無理やりに起こす。

 そうして、ようやく顔を上げた私の視界の中には、けれど誰の姿もなかったのだった。


 外が暗くなってくると電車の窓には人の姿が映る。私はそれがあまり好きじゃなかった。自分の容姿が嫌いなわけじゃない。ただ、他の人と自分を比べてしまうことが嫌だった。千夏なんかはスタイルが良くて羨ましいと言ってくれるけど、こんなのはただ背が高いだけ。そんなことは自分がよくわかっていた。表情を顔に出すことも苦手な私は、目つきも相まってどこか不機嫌なように見えた。その様子は明らかに今の私の内面とはちぐはぐに思えた。

 私は女の子らしくない自分が嫌いだった。中学あたりから周りよりも伸び始めた身長のせいで、自分には可愛い服が似合わないのだということに気が付いた。別に積極的にそういう服を着たいとは思わないけど、そもそも選択肢にないことがどこか遣る瀬無かった。背だけじゃない。他にも、この目つきのせいで、普通にしているつもりでも「どうして睨むの」と言われたこともあった。だから、私は高校に入ってから出会った彼女、茅ヶ崎千夏のことが羨ましかった。快活な性格をそのまま映したような大きな目に、ころころと変わる表情。それに、彼女には私が絶対に着ないであろう服が似合った。

 私は窓に映った自分の姿を見る。買った時にはダメージ加工はなかったはずのデニムの膝元が少し破れてしまっている。窓の中に映った破れ目からは傷痕までは見えなかったけど、実際の私の膝元にしたって、よっぽど注目しなければ怪我をしているとはわかりそうになかった。他にも肘を擦った感覚があったけど、傷痕は腕を伸ばすとシャツの袖に隠れて見えなかった。車両には仕事帰りらしい大勢の人が乗っていたけど、そのうちの誰が窓越しに映る私を見たとしても、たとえ実際の私を見たとしても、私が怪我をしているのだと気が付く人はいなさそうだった。

 あの後、少しして徐々に冷静さを取り戻していくにつれ、地面で擦った個所がじくじくと痛みだした。私は公園に備えられていた水道で軽く傷口を洗うと、そして途方に暮れてしまった。並木くんの後を追いかけようにも、どこに行ったのかわからなかったし、それになによりきっと私では追いつけない場所にいたと思う。多分、連絡をしようにも返事はしてくれないだろうなとも思った。けれど、いくら公園に留まってみたところで、傷が痛む以外には何も起こらない。私はどうすることもできずに、とりあえず電車に乗った。あまり遅くなっては両親が心配するからと、私は一度家に帰ることにしたのだ。いつもの放課後、学校から帰る時と同じように。いっそのことと、何処か遠くへと駆け出すこともできない自分に辟易しつつ。

 電車の揺れに合わせて、私の長く伸ばされた髪も揺れ動く。この髪は女の子らしくない私の、せめてもの抵抗だった。今にして思うと、こんな私に並木くんが愛想を尽かすのも時間の問題だったのかもしれない。窓の中の私はこんな時に涙も流していない。

 自分でもどうしたかったのかわからない。私は気が付くとメッセージアプリを開いていた。そうして私は誰に何を送信するわけでもなく、並木くんの連絡先をただただ眺めていた。

 並木くんは憶えていないかもしれない。だけど入学式のあの日、窓の中の姿と同じくきっと不愛想だったはずの私に、初めて声を掛けてくれたのは並木くんだった。あれ以来、私はずっと……。

 画面上部の時刻表示はすでに六時を回っていた。次第に家の最寄り駅が近づいてくる。私はスマホの電源ボタンを押し画面をロックする。

今の私はこうして家に帰る以外にどうすることもできない。そうして一度家に帰って、また明日機会があれば学校で並木くんに理由を聞こう。私はそんなできもしない考えの末、スマホをポケットに仕舞おうとした。

 通知音が鳴った。

 私の手は止まる。今の私に連絡をくれる相手がいただろうか。並木くん……はきっとあり得ない。千夏からか、そうでなければ両親のうちのどちらかだろう。そう思い、私はロック画面を確認する。そうして開いたスマホの画面には、思いがけず「剣谷犬汰」と表示されていたのだった。

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