第46話
やけに入りにくい外装の、本当に店かどうかもわからない場所の前に立った私は、もう一度自分のスマホを確認する。送られてきた説明だと恐らくここで間違いない。それでも私はいまいち確信が持てないでいた。彼には「モナカ」という喫茶店を指定された。私は顔を上げて目の前にある煉瓦造の店の上部に取り付けられた看板を見ようとするも、絡まった蔦のせいで「喫」と「モ」以外は碌に読めなかった。けれど、ここまで来ていつまでも尻込みをしていても仕方ない。もし間違えていたのなら一言謝ってから出れば良い。私は手に持ったスマホをポケットに仕舞うと、意を決し木製のドアに手をかける。私の動きに合わせてカラカラと軽快なドアベルが鳴った。
そうして店内へと足を踏み入れた私は、どうやら誰に謝る必要もなさそうなことがわかり、ひとまず胸を撫でる。
「やあ。早かったね」
既にカウンターに座っていた彼はドアを開けた私に気が付くとそう言った。
「……剣谷くん」
店内の涼しい空気が肌に触れる。
「まあ座ってよ。テーブルで良い?」
剣谷くんはカウンターから立ち上がると、慣れた様子で私に席を勧める。店内には私たちの他にお客さんはいなかった。何となく、店の外観から内装にも癖の強い装飾が施されたりしているのだろうかと思っていたが、私の予想は良い意味で裏切られた。空調などの環境周りからちょっとした調度品に至るまでが訪れる人のことを考えて調整されているようで、店内は寧ろ絶妙な心地良ささえ感じるほどだった。私は二つのテーブル席のうち、剣谷くんの勧めてくれた出入口に近い方に座ろうとする。
「潮見さん、どうしたのそれ」
そうして椅子に座ろうとした私の膝元を見て、剣谷くんは指差した。思わず、私は自分の脚を確認する。公園で洗ったから血は付いてなかったけど、それでもデニムの破れ目からはそれとわかる擦過傷がちらと覗いていた。
「ああ、えっとこれは……」
当然気付かれないだろうと思っていた私は、自分が傷痕の説明を何も考えていなかったことに思い至る。並木くんを追いかけようとして転んだとはとても言えない。
「ちょっと……転んだだけ」
考えあぐねた末、私は結局それだけを伝えることにした。さっと剣谷くんの表情が変わる。
「転んだって、処置は?」
「一応、近くにあった水道で洗いはしたけど……」
「ああ……。ごめん、ちょっと待ってて。えっと、確か擦り傷の処置は……」
剣谷くんはそう言って素早くスマホを操作すると、カウンターの方へ向かい、奥にいたマスターらしい男の人に何やら頼み事をした。それがあまりに迅速なことだったので、私は彼に「気にしないで」と伝えるのを忘れていた。しばらくして、先ほどのマスターらしき人が救急箱を持ってカウンターから出てくる。
「ありがとう。あとはこっちでやるよ」
剣谷くんはそう伝えると、救急箱を開く。マスターらしき人はちらとだけこちらを窺うと、小さく頷いて奥へと戻っていった。
「ぱっと見た感じそこまで酷い状態じゃなさそうだけど、とりあえず絆創膏だけでも貼っておいた方が良いと思う。膝の他に傷はある?」
そう聞かれた私は素直にシャツの下に隠れた肘を見せる。剣谷くんは救急箱の中から絆創膏を数枚手に取ると、椅子に座る私にそれを渡してくれる。
「お手洗いはあっちの方にあるから」
剣谷くんはそう言って店内の奥の方を指差した。
「……ありがとう」
私は貰った絆創膏を手に、彼にそう伝える。
「ううん。その、余計なお世話だったらごめん。でもどうしても放っとけなくて……」
剣谷くんはそう言うと、少しだけ困ったように笑った。
私は彼のその表情にすっかり毒気が抜かれた気分だった。
「実はここ、俺の叔父さんがやってる店なんだ」
注文したコーヒーを待っている間、剣谷くんがカウンターにいるマスターの方を見てそう言った。剣谷くん曰く、どうやらあの人がマスターで間違いないらしい。剣谷くんの言葉を受けて私はひとつ合点がいった。
「そっか、だからさっきはあんなに親しげだったんだ」
私は先ほどの剣谷くんとマスターのやり取りを思い出す。ただの店員さんとお客さんのやり取りにしては、剣谷くんが砕けた言葉遣いをしていたのが少し気になっていた。いくら通い詰めたお店であっても、剣谷くんがそうした口調で話すとは思えなかったのだ。
それを聞いて、私は剣谷くんがこのお店を選んだ理由がわかる気がした。親戚のやっているお店なら、少しは帰りが遅くなってしまっても家族に心配をかけることもないだろう。私の我儘に付き合わせてしまう以上、剣谷くんに必要以上に迷惑を掛けることは避けたかった。
少しして、私たちのテーブルに頼んでいたコーヒーが供される。
「……良い香り」
私はカップから立ち上ってくる芳しい香りに、思わずそう口にする。
「だってさ、良かったね」
剣谷くんがトレーを持ってテーブルの横に立つマスターにそう声を掛ける。私もそちらを窺う。緩いパーマがかけられた髪に口元と顎に蓄えられた髭のせいで、ぱっと見ただけではちょっと年齢がわからなかった。けれど、多分五十は行っていないように見える。剣谷くんが話しかけても表情に動いたところは見られない。私みたいな子供にコーヒーの良し悪しなどと思っているのかもしれない、と考えるのは少し捻くれているだろうか。
「……ごゆっくり」
結局マスターはそれだけ言うと、カウンターへと戻っていった。私はそうして残された空間に少しだけ気まずさを感じてしまう。
「真中さん、嬉しそうだったね」
「……えっ」
思わず、どこがと言ってしまいそうになった。真中さんというのはあのマスターのことだろうけど、少なくとも私にはさっきの表情が嬉しそうには見えなかった。けれど、剣谷くんを見る限り、私を気遣って嘘を言っているような風もない。どうやら、少なくとも気を悪くしたということはないらしい。
「あ、もしかして店名の『モナカ』って……」
私は思わずそう口にする。
「そう、真中をもじってモナカ。可愛い店名だよね。実は俺もちょっとだけ考えるのに協力したんだ」
剣谷くんはそう言うとふっと微笑んだ。
何となく、そのやり取りでこの場の空気が弛緩したような気がした。私はカップを持ち上げ、数回息を吹きかけるとそれを口に運ぶ。コーヒーの味と香りが口に広がる。一口飲んだだけでわかるしっかりとした苦みに、それでいてどこか果物を思わせるような甘味と酸味。ブレンドを頼んだから豆の種類はわからないけど、これは香りだけではわからない美味しさがあると思った。
「美味しいでしょ」
私はソーサーにカップを戻すと、剣谷くんの問いに静かに頷く。剣谷くんはそれを受けるとまた少し微笑み、自分もコーヒーを一口飲んだ。そして呟くように言った。
「ここのコーヒー、ホットも良いけどアイスも中々いけるんだ。前に飲んだのは確か……並木と来た時だったっけ」
剣谷くんが手に持ったカップを置く。その言葉で私は自分が何のためにここに来たのかを思い出す。
……そうだ。私は聞かなくてはいけない。そのために剣谷くんにはわざわざ無理を言って、今日という日にこの場を設けてもらったのだ。けれど、きっと剣谷くんもどこかでそのことは予想していたのではないかと思う。だってあのタイミングであんなメッセージを私に送ってきたのだから。名残惜しいけど、コーヒーの美味しさについて語り合うのは今じゃなくて良い。
剣谷くんはテーブルに視線を落としている。私が話し始めるのを待っているのだと思った。なら、と私はひとつ息を吸い込む。そしてポケットからスマホを取り出した。そして前置きもなしに言う。
「剣谷くん、教えてくれる? どうして私にこんなものを送ってきたのか。そして書いてあることが本当なら、何をどこまで知っていたのかを」
私は自分のスマホをテーブルの上、丁度私と剣谷くんとの間に画面を上向きにして置いた。開かれたメッセージアプリの画面には「剣谷犬汰」と表示されたトーク履歴が映し出されていた。
『並木について知ってることがある』
剣谷くんは表示されたそれを少しだけ見ると、やがて徐に顔を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます