第44話

 こうして少し駅から離れた場所を歩いているだけで、通い慣れたと思っていたこの街もまるで見知らぬ地のように感じる。この辺りが主に住宅地なこともあり、学校に通う以外の理由であの駅で降りること自体が少ないのだから、俺がそう感じるのも当然と言えば当然だった。けれど、こうして歩いてみると、どこの道も綺麗に舗装がなされており、街路樹なども綺麗に整えられている。この辺りの地形のせいで坂や階段が多いのは仕方ないとして、それでも随分と歩きやすい印象を受けた。今日、この場を選んだのに深い理由はなかったが、自分でも意外なほどに気に入った。

「もうこの時間だとすっかり夕焼け模様だね」

 汐帆が朱色に染まった空を見て言った。

「俺もついこの間、同じことを思ったよ。……もう秋なんだな」

「うん……何だか今年の夏は早かったな。多分、みんなと色んなところに行ったからそう感じるんだと思うけど」

 確かに汐帆の言う通り、この夏は色々なことがあった。終業式の日、プレゼントを買いに行っただけなのに、もう会うこともないだろうと思っていた剣谷や先輩と再会した。汐帆や茅ヶ崎とは夏祭りに行った。水族園には結局二回も行った。他にも二人とは出掛けることもあった。二学期が始まると、その全員で文化祭を周った。そして、その場で先輩に想いを告白され、俺自身も想いを告白した。

 あれ以来、俺は未だ先輩に返事ができていないでいた。気持ちが決まっていないのではない。日曜日と代休の二日を丸々、それに今日の日中も授業に身が入らないくらいに考え、そうして既に自分の気持ちはわかっていた。ただ、返事をするより先に俺にはやらなくてはならないことがあると思ったのだ。

「でも、この間の文化祭は楽しかったね」

 汐帆が懐かしみでもするようにそう言った。

「……そうだな。汐帆はどこが一番楽しかったとかあるか?」

「ええ、難しいかも。模擬店はどこも個性的だったし、軽音部のライブもすごく良かった。あ、でもそれで言うと並木くんのクラスの喫茶店も楽しかったよ」

「汐帆まで茅ヶ崎や剣谷みたいなこと言うなよ」

 俺がそう返すと汐帆はふふと笑った。

「……でも私、みんなで次はどこ行こうかって話しながら歩いてる時も楽しかったな。何だか心に残ってるというか……、なんて、質問の答えになってないかな」

「いや、良いよ。それに、ちょっとわかる気がする」

 俺はそう返す。文化祭では色々と周ったが、汐帆の言う通り、ただみんなで歩いただけのことも確かに頭に残っていた。小学生の頃の記憶を思い出そうとして、授業の内容や先生の話などは碌に思い出せもしないのに、学校から家までの道をただ小石を蹴りながら帰ったことなどは、その道程やその時の天気なども含めて仔細に憶えていたりする。思い出とは意外にそんなものの積み重ねでできているのかもしれない。

「またあのメンバーで集まりたいね。剣谷くんや涼風さんとももっと話したいし」

「……そうだな」

 やろうと思えば、それもできるのだろうか。文化祭の最後に全員の連絡先は交換してある。きっと苦労することもなく連絡は取れるだろう。

 けれど、いくらそうして連絡手段があったところで、あまり意味はないだろうなと俺は思った。

 焼けた空とは反対側の空が次第に暗くなってきていた。

車道を挟んだ右手に手近な公園があるのが目に入った。

「ちょっとだけ寄っても良いか?」

 俺は公園を指して汐帆にそう尋ねた。


時間が少し遅いこともあるのだろう、公園には俺たちの他に人は見当たらなかった。

「私、公園って久しぶりに来たな」

 東屋のベンチに腰掛けた汐帆がそう言う。思えば俺もこうして公園に来るのなどいつぶりだろう。夏祭りの会場が一応総合公園だったが、そうした大型の公園を除けば、恐らく中学以来なのではないだろうか。遊具の数こそやや少ないが、住宅街に設けられている公園の敷地にしては十分に快適な広さと言えそうだった。

 俺は公園の中央に据えられたやけに体の細い時計を見る。あまり遅くなると良くない。

「……汐帆」

 俺は隣に座る彼女の名前を呼ぶ。

「どうしたの?」

 汐帆は俺の言葉に、公園全体を向いていた視線をこちらに移す。綺麗な三白眼の目がこちらを見る。

 俺はふいにどうしようもないほどの、理由もない焦燥感に駆られた。俺は今から彼女に何と伝えれば良いのだろう。今日この瞬間のためにと何度も考えた文言が頭を離れそうになる。俺はぐっと手に力を込める。そうではないはずだ。予め決めた言葉をなぞることに意味などない。そんな言葉を口にするくらいなら、わざわざこうして誰もいなくなった公園を選ぶ必要もなかった。

 汐帆と付き合い始めてから今日まで、一年以上の月日が経っていた。この期間が果たして長いのかどうか、俺にはわからない。俺にとって汐帆は初めての彼女だったから。

 思えば汐帆とは何度も二人で出掛けた。お互いにまだ高校生ということもあり、そのため場所の候補は限られていた。時には今日のように放課後にただ二人でぶらぶらと歩くだけの日もあった。けれど、それでも良かった。俺自身もその時間が楽しかったし、何より汐帆が笑ってくれたから。

 まだ小学校にも入学していないだろう男の子が自転車を押す母親と一緒に歩道を歩いているのが見えた。きっと家へと帰る途中なのだろう。彼らは一体何を話して笑っているのだろうか。ふいに母親の方と目が合い、俺は何でもない風に視線を逸らした。

 先輩のことはずっと頭にあった。想いを伝えられたのはつい先日だったが、それ以前、終業式の日に改札前で会ってからもずっと考えていた。いや、本当はそれよりも前からかもしれない。

 我ながら随分と分不相応な、贅沢な悩みだと思った。けれど身の丈に合っていないからと、それは決して考えなくても良い理由にはならない。俺はひたすらに考え抜いて、一つの答えを出さなくてはならなかった。

先輩と彼女のどちらを選ぶべきなのか。それはとりもなおさず、どちらか一方を選ばないということに他ならなかった。いや、もしかすると友達という形で側にいてくれるということはあるかもしれない。けれど、それは最早それまでの関係とは全く別種のものだ。俺なら、と考える。もし中学の頃に先輩と剣谷の二人が付き合い始めたとして、それでも俺はそんな先輩に、友達として変わらず接することができただろうか。少なくとも俺にはできそうにない。

俺の選択次第でどちらかとの関係は失われてしまうかもしれない。そうした傲慢で欲深い考えの果てに、決まって俺の頭に浮かぶ顔があった。水族園で俺の隣で笑う彼女。花火大会で俺の渡したプレゼントを嬉しそうに身に付けてくれた彼女。コンクリートの階段に座り、上目遣いにこちらを見る彼女。

先ほど汐帆としたやり取りを思い出す。汐帆に文化祭のことを聞いた時、彼女はみんなで校内を歩いただけのことが心に残っていると言った。きっと、そんなことで良かったのだ。授業でどれだけ役に立つ知識を教えられようが、教師がどれだけためになる話をしようが、俺の小学生時代にはきっと小石を蹴っただけの思い出が必要だったのだ。

結局、何度考えても答えは同じだった。思えば、夏祭りで彼女からの告白を受けた時から決まっていた。どうしようもないほどに、俺は彼女を愛している。先輩に謝る前にそのことを本人に伝える必要があると思った。これまでの一切を話したうえで、俺の気持ちを伝えなければいけないと思った。これからも俺の彼女として変わらず側にいてほしい、と。

 汐帆は先ほどから俺が話し始めるのをじっと待ってくれている。俺は先輩の言葉を思い出す。先輩は言った。並木太陽にはやらなければならないことがあるだろうと。確かに、その通りだった。

俺は握った手を解く。自分の素直な気持ちを伝えるだけのことに、余計な力は要らないと思った。そうして、ようやく俺は口を開いた。

「悪い汐帆。俺と別れてくれ」

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