第39話

「ごめん、俺ちょっとだけ見たいところあるから」

三人になった途端、剣谷がそう言い出した。そうして俺と先輩が何か言う前に、剣谷はどこかへ行ってしまったのだった。剣谷のいない今となっては、あいつに本当に行きたい場所があったのかどうかは定かではない。思えば、中学の頃にもあいつはこういう気の回し方をした。とはいえ、きっと再度合流して聞いたとしてもはぐらかされるのだろう。

「すいません、何か俺だけ食べてて」

 俺はうどんを食べる手を止めてそう言った。本当は自分だけが何か食べていることよりも、目の前に座る先輩が先ほどから頬杖をついてこちらをじっと見ているのに気恥ずかしさを感じたからという方が正しいが。先輩はそのことに気付いてかそうでないか、にこっと笑った。

「気にしないで良いよ。やっぱり食べ歩いてばっかりだと変な時間にお腹空くよね」

先輩はそう言ったが、やはり俺の方が気にしてしまう。俺は残りのうどんを勢いに任せて食べきってしまう。そうして、なるほど冷やしうどんであればこの暑さでも頼む人はいるだろうなと、俺は後に残った安物らしい透明の容器を見てそう思った。

「それにしても、太陽すごかったね」

「何がですか?」

 ようやく遮るものなく二人の環境になったところで、先輩がそう言った。俺にはすぐに思い当たるところがなく、そう返す。俺の方を見て言ったのだから、何も太陽とは陽光を指して言ったのではないだろう。

「さっきの推理の話。けんけんも言ってたけど、太陽にあんな特技があるなんて知らなかった。探偵みたいだったよ」

 先輩がそうしてにっと笑ったのを受けて、俺はようやく合点がいく。

「ああ、いえ、あれは偶々中庭の隅に置かれた材木が目に入ったからってだけで、あれに気付いていたら誰でも思いついたと思います。なんで、こんなのは別に褒められたものでもないですよ」

 俺はそう言った。照れ隠しの面も確かにあるにはあったが、だからと言って本心でないわけではない。それこそ剣谷や汐帆の二人は俺の話したいことを、途中からは俺よりも理解していたように思う。いや、もしかするとそれ以上に……。

「でも、あの場であの推理を披露できたのは誰でもない、太陽だった。あれは太陽にしかできなかったことだよ」

 先輩は当の本人である俺よりも堂々とした態度で、そう言いきった。俺は緩む口元を手で隠しながら、「そうですか」と言うことしかできなかった。

 この人は昔からこうなのだ。先輩にはっきりと言われてしまうと、あたかもそれが事実であるかのように思わされる。先輩のこれを根拠のない自信という言葉で表すのは少し違う気がする。先輩の言葉が根拠となり、自信が生まれるのだから。

 そういえば、と一つ思うところがあった。先輩とこうして腰を落ち着けて話をするのも随分久しぶりな気がする。最後はいつだっただろう。俺は少し褪せてしまった写真の山を手で探るようにして思い出そうとする。けれど本当はそうして思い出すまでもなく、俺の中にはひと際精彩を放つ写真があったのだった。

「……水族園に行ったとき以来かな、こうして二人で話すのも」

 先輩がそう口にした。一瞬だけ、辺りの喧騒が消えた気がした。

「……ついこの間、先輩を駅から家まで送ったのはカウントされてないんですか」

 俺は先輩の言葉に素直にそうですねとは返せなかった。そのため、つい軽口で返してしまう。

「あはは、あったね。うん、あった。それもちゃんと憶えてる」

 先輩は気を悪くした風もなくそう言った。先輩の綺麗な目が俺を見る。

「ねえ、太陽」

「……はい」

「楽しかったよね、あの時」

「…………はい」

 この人は「楽しかった」と、そう言ってくれるのだ。言ってみれば、俺のせいで先輩の中学時代はきっと本人にとって思い出したくない記憶になったはずなのに。それでも笑ってそう言ってくれるのだ。自然と膝に置かれた手に力が入る。

「けんけんから聞いたんだよね。私が中学三年の頃、学校に行ってなかったって。あいつめ、言わないでって言ったのになあ」

 先輩は笑いながら言った。俺はその言葉に何も口にすることができないでいた。痛いくらいに握られた俺の手は机の下でどうなっているか、自分でもわからない。

 並木太陽は今日、どうして剣谷を、そして先輩をここへ呼んだのか。何度も自問自答し、答えらしい答えは出ていない。あのまま関係を終わらせることが嫌だった。それもある。けれどその前に、あの時のことをただ先輩に謝りたかった。先輩が俺との偽の恋人関係を解消しようと言った時、俺はどうするべきだったのか。何度も何度も考えた。そして今、俺はどうするべきなのか。

 妙な間があった。俺は固く握った手を意識して開く。そして、もう一度固く、強く握った。

「あの、先輩──」

「私、太陽が好き」

 俺は先輩が好きです。そう言おうとして開いた俺の口は、その不自然な形のまま動かなかった。

「はー、言っちゃった。あはは」

 先輩は両手でパタパタと顔を仰いでいる。

「な、なんで……」

 俺は今どんな顔をしているだろう。きっと情けない、みじめな顔を目の前に座るこの人に見せていることだろう。けれど、最早そんなことは気にしていられなかった。

「……どうして、先輩がそんなこと言うんですか」

 先輩は顔を仰いでいた手を止め、その吸い込まれるような双眸でしっかりと俺を見据えた。表情こそ柔らかいが、今度こそ俺を逃がさないようにしているのだと思った。

「私さ、太陽にどう見えてるかわからないけど、結構モテるんだ。自分で言うことじゃないよね、はは」

 笑う先輩に、俺は「知ってます」と言うことすらできなかった。

「それでね、色んな人と話してると時々わかることがあるの。あ、私これからこの人に告白されるんだろうなって」

 ……ああ。俺は思わず先輩から目を逸らしたくなる。けれど先輩はそれを許さない。

「だから、私は告白した。絶対に、太陽にその先を言わせちゃ駄目だと思ったから」

 窓から吹き込んだ風が俺と先輩の間を抜ける。その風が先輩の伸ばされた黒髪をたおやかになびかせた。綺麗だと思った。

「俺は……」

 二の句が継げなかった。そんな俺を見て、先輩はふっと優しく笑う。

「あ、でも、こんな形にはなったけど気持ちは本当だからね。私は太陽が好き。だから、太陽も変な気なんて遣わなくて良いよ。たとえば、自分のせいで私がーとか、あの時何かを言っておけばー、とかね」

 ああ、敵わない。きっと、この人には何もかもが見透かされている。そう思った。気が付くと、膝の上で握った手はいつの間にか解かれていた。

「それと、あの時はごめんなさい。私が考えなしに恋人のフリをしてくれなんて頼んだばっかりに、太陽には気を遣わせちゃった」

 先輩はそう言うとぺこりと頭を下げた。

「そ、そんな、顔を上げてください。あれは俺があまりに子供だったからで……、こちらこそ、すいません」

 俺は慌ててテーブルに付かんばかりに頭を下げる。

しばらくその状態のままでいると、ふふと前方から笑いが聞こえてきた。それが合図となり、お互いに顔を上げる。先輩と目が合った。少し困ったような表情をしていたが、今度はいつもの優しい目だった。

「じゃあ、どっちもどっちってことで、この話はおしまいにしない? 私ももう気にしないことにするから」

「気にしないって、そんな……だって」

「確かに私の中学時代は思い出したいことばっかりじゃないよ。けど、それ以上に思い出したいことでいっぱいなの。けんけんや太陽とあの小さな塾や公園で話した色んなことが、私の中学時代の大事な思い出。それって、ちょっとやそっとのことで台無しになるようなことじゃない」

 そうして、きっと何でもないことだったのだと俺は思った。あの時剣谷が言ったように、塾に来ていた先輩と少しずつでも良いから、こうして話をしていれば。勝手に罪の意識を感じて、そして勝手に距離を置いた。先輩のことを考えているようで、結局のところそこに先輩はいなかった。こうして話ができていれば何でもないことだったのだ。

「さ、じゃあ聞かせてくれる?」

 先輩はひとつ大きな伸びをすると、笑ってそう言った。俺は一瞬、何のことだかわからなかった。そのことも先輩にはお見通しらしい。

「あ、酷い。さっきの告白の返事だよ。さっきので私と太陽を縛っていたものはなくなった。だから、今度は太陽は私に気なんて遣う必要ないよ」

 先輩はそう言った。俺は思わず周りを確認する。誰も俺たちの会話を聞いていたり、気にしているような様子はなかった。当然、外で聴き耳を立てているようなやつもいない。

「あのね、私、太陽が今日誘ってくれて、本当に本当に嬉しかったよ。夏祭りの時はさ、ほら、一緒に行けなかったでしょ? そのこと自体は全然気にしてないの。でもその時、ああ、あの時偶々駅で会って一緒に帰ったので終わりなんだって思った。だから太陽が私を文化祭に誘ってくれて、本当に嬉しかったの。太陽も同じこと思ってくれてたんだってわかって」

 先輩は少し恥ずかしそうにしながらも話を続ける。

「太陽に彼女がいるってわかった時はすごくショックだった。きっと私がいるんだろうと思ってた場所に、私じゃない人がいる。本当言うとね、ずっと苦しかったんだ。できることなら今からでもその場所にいたいって思った。はは、太陽に酷いなんて言っておいて、私の方が酷いよね」

 先輩は自嘲気味に笑った。

「でもね、言わずにいれなかったの。だって私は太陽が好きだから。中学のころから、ずっと。私、源氏物語だって本当はちゃんと借りてたんだ。それだけじゃない。ちゃんと全部読んだ。なのに、何の意味もなかった」

俺は昔一度読んだきりの、きっと全体から見ればほんの一部だろう源氏物語のことを思い出す。源氏物語では恋愛を扱う話はいくつかあるらしい。けれど、俺が読んだそれは、失恋を扱った話だったような気がする。

 先輩の声は最後には少し震えていた。先輩は勢いだけで俺に気持ちを伝えたのではないのだ。そんなこと、先輩の性格を思えばわかりきっていたことだ。

俺はひとつ息を吸うと、ゆっくりと口を開いた。

「……俺は中学のころ、先輩のことが好きでした。多分、初恋だったと思います」

 先輩は何も言わずに静かに頷く。

「今でも先輩のことを特別に想う気持ちはあります。恐らく、その感情を恋と呼ぶ人は世間に大勢いるでしょう」

 喉が渇くのを感じる。一度、一呼吸を置く。

「俺には今、彼女がいます。俺はその人のことが好きなんです。顔が、声が、仕草が、性格が、そのすべてがたまらなく愛おしいんです」

 先輩は少し前から顔を下に向けてしまっていて、そのため表情はわからない。長く、綺麗な黒髪が、ライトグリーンの服に良く映えていると思った。俺は話を続ける。

「けど同時に、今俺の中にある先輩への想いがそれとは全然違うものだとも思えない。先輩に告白されて、今ここで舞い上がってしまいそうな自分もいるんです。夏祭りの誘いだって、何度も何度も考えて、ついに答えが出なかった。俺はあの時、彼女がいるからって理由だけで先輩の誘いを断ったんです」

 俺は詰まらないよう、間違えないよう、ゆっくりと話す。恐らく、間違っているだろうことを。

「情けないことだと思われるかもしれませんが、正直、自分でもどうするべきかわからないんです。今だから言える。俺はずっと先輩のことが好きなんです。昔も、多分、今も。けど同時に、俺は……」

 その先が上手く言葉にならない。自分の本音を口にすることがこれほどまでに難しいことだと、俺はこの時初めて知ったのだった。

 しばらくの間、どちらも何も言えない状態が続いた。そして、先に顔を上げたのは俺ではなかった。

「……うん、わかったよ」

 先輩は指で少しだけ目を擦ると、下を向いたせいで垂れた髪の束を耳に掛ける。

「悩ませることばっかり言ってごめんね。でも……それでもね、我儘を言うなら、やっぱりいつかは太陽の口から返事が聞きたい」

 俺はただ頷くことしかできなかった。

「今、この場でじゃなくても良い。太陽の気持ちが決まったら、その時は教えてくれる? きっと、その前に太陽にもやらなきゃいけないことがあるだろうし」

 ああ、やっぱりこの人は知っているんだ。そして知ったうえで、優柔不断な俺に選択肢をくれている。

「そしてその後、それでも太陽の中に私がいるんなら……聞かせてほしい。太陽の気持ち」

 先輩は最早、泣いてなどいなかった。俺は強く頷く。

「……わかりました。きちんと全部収めた後で、先輩には絶対に返事をします。多分、文化祭が終わってから、そう日は経たないと思います」

 先輩は俺の言葉を聞くと微笑んだ。張り詰めた空気が少し弛緩する。

 そんな雰囲気を破ったのは、出し抜けに鳴ったポキポキという通知音だった。

「私のじゃないよ」

 先輩は首をふるふると振り、俺の視線に答える。ということは当然俺のものだろう。俺はポケットから自分のスマホを取り出し、おもむろに通知を確認する。思わず心臓が跳ねた。開いた画面には「汐帆」と表示されていたのだった。

「どうしたの?」

 先輩がそう聞いてくる。けれど、俺の様子を訝しんだという風ではなかった。俺はなるべく平静を装う。

「あー、えっと、そろそろ集まらないかって」

 誰から送信されたのかは言わなかった。

「そっか。もう結構時間も経ったしね。うん、それじゃ行こっか」

 先輩はそう言うと先に立ち上がった。俺もそれに続く。

「あ、すいません。その前に俺、これ返さないと」

 俺はそう言うと、目の前に置かれた空の容器を指した。先輩が「じゃあ私は入口で待ってるね」と言ったので、俺たちは一度別々の方向へ歩き出すことになった。

「あ、そうだ」

 先輩が何かを思い出したようにそう声を出した。俺は先ほどより少しだけ離れた場所にいる先輩の方を振り返る。

「私、モテるとは言ったけど、誰かに告白したのはこれが初めてだからね」

 先輩は最後にそう言うと、ずるいくらいに無邪気な笑顔を見せた。丁度その時、辺りには誰もいなかったから、俺はそうして小走りで去っていく先輩の後ろ姿から、しばらく目を逸らせないでいた。

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