第38話

「そういえば、もう文化祭も半分終わっちゃったね」

 二階から一階への階段を下りていると、後ろを歩く先輩が誰にともなくそう言った。この浜石高校の文化祭は九時に開始し、十六時に終了ということになっている。「なっている」というのは、模擬店など出し物をするクラスはその時間までに後片付けまで終わらせておく必要があるため、実際に周れる時間は十五時くらいまでだろうということだ。とすると、確かに先輩の言う通り今日の半分は既に終わったことになる。そのことを理解しつつ、けれど先輩の言葉にはただの事実確認以外の意味も含まれているように思えた。俺には後ろにいる先輩の表情を窺うことができなかった。

「ということは、逆に考えればあと半分もあるってことですよ」

 横を歩く茅ヶ崎が先輩に笑いかける。何と言うべきかと悩んでいる俺には良い助け船だった。

そこへ、後ろから階段を下りてくる足音が聞こえてきた。俺たちは二手に分かれ階段の真ん中を空ける。

「早く早く、なくなっちゃう。歩くの遅いよ。そっちが誘ったのにさ」

 と、下りてきた二人組の一方の女子は何やら急いだ様子で階段を勢いよく下りていった。後から来たもう一方の男子は先に行く女子を追いながら、道を譲った俺たちに「すみません」と謝った。俺はその顔を見て驚いた。向こうは先に行く女子を追いかけるのに意識が取られてこちらに気が付いていないようだったが、あの特徴的な高い鼻に肩口まで伸ばされた髪。あれは確かに山根だった。

 二人が去ったあと、俺たちは再度中央に集まると顔を見合わせた。

「どうしたのかな、あんなに急いで」

 剣谷がそう言ったが、当然それに答えられる者もおらず、俺たちも二人の後を追うように一階へと下りる。そして一階へと下りた先に、すぐにその答えはあったのだった。特別教室棟から中庭へと開放された扉を抜けると、そこにはつい十分前に上で見た光景とは全く違うものが広がっていた。

「え……何この人の量」

 先輩か茅ヶ崎のどちらかがそう言った気がした。もしかすると汐帆だったかもしれない。何にせよ、みんなが同じことを思ったのは確からしかった。先ほど特別教室棟の二階から見た時には精々が中庭の半分くらいを埋める人の量だったのに対し、人垣で奥までは見えないにせよ、今ではそのほとんどが埋め尽くされているように見えた。文字通り俺たちより頭一つ分背の高い剣谷が背伸びをしてぐるりと見る。

「うーん、向こうまで埋まっちゃってるね。これじゃ中庭で休憩どころか、通り抜けもできそうにないね」

「そっか、じゃあ遠回りになるけど別の場所から講堂に行くしかないね。でも、どうしてこれだけの人が、それもこんなに短時間で集まったんだろう。確か、この時間も特にイベントはやってなかったよね」

 汐帆が不思議そうな顔で言った。

「そこにいる人に聞いてみようか」

 剣谷はそう言うと、俺たちから少し離れた場所で集団に加わる女子に話を聞きに行った。剣谷の方から話しかけ、何やら少し話をした後、今度は女子の方がなかなか剣谷を離さないように見えた。そしてようやく小走りで帰ってきた剣谷は俺たちに事情を説明した。

「なんでも、ジンクスに出てくる『ヒノキ』がキャンプファイヤーに井桁として使われてる材木だって信じた人が押し寄せてるらしい。数で言うとそんなに多くはないんだろうけど、元々中庭にはそこそこ人がいたから、そのせいもあるだろうね。いやあ、お手柄だね」

 剣谷は最後にはこちらを向いてそう言った。

「お前、しばらく会わないうちに皮肉が上手くなったな」

 俺は剣谷の軽口にそう返す。

「けどそれにしちゃ噂が広まるの早すぎじゃない? だって並木が推理を朝日ヶ丘さんに話したのってほんの十分前とかだよ? 記事作るのってそんなに早くできるものなの?」

「いや、あり得ない話じゃないよ。あの時、朝日ヶ丘さんは並木の話を聞きながらずっと手に持ったスマホを操作していた。何か別のことをしてるんだと思ってたけど、今思うとあれで直接記事を書いていたのか、もしくは話の内容をまとめたメモか何かを誰かに送信していたんだと思う。その誰かに記事を書いてもらいながらね。朝日ヶ丘さんもあとちょっとで学内新聞が完成するとは言ってたから、並木の話を入れ込むとすぐに出せる状態だったのかもね」

 剣谷がそう自説を述べた。思えば、朝のHRで担任が何気なく言ったことが昼にはすでに学内中に広まっていたのだ。剣谷の言ったように、朝日ヶ丘がスマホで原稿を作るかしていたのであれば、今目の前で起きていることも決しておかしいことではない。

 何にせよ、先ほど汐帆が言ったように、これでは中庭で休憩どころか通り抜けもできそうにない。こうなってしまっては仕方ないと、茅ヶ崎と剣谷の二人も一度講堂のある場所まで同行することになった。

「あ、茅ヶ崎さん。ちょうど良かった」

 そうして中庭を迂回しようと特別教室棟へと再度足を踏み入れたところで、ふいに声が掛けられた。何事かと振り返ると今度は見覚えのない女性、おそらく上級生だろう、が立っていた。首から下げたカードから文化祭実行委員だとわかった。とすると茅ヶ崎と潮見の二人には顔見知りなのだろう。

「潮見さんもいたのね。悪いんだけど、二人とも手が空いてたら中庭の整理を手伝ってくれない? 見ての通りの混雑具合でとても進行不能な状態なの。とても私一人では対処できそうになくて。はあ、あの先生も自分でやれば良いのに……」

 最後に小声でそう言うと、目の前の委員らしいその人は頭痛でもするようにこめかみの辺りを押さえた。実行委員も苦労しているらしい。

「私は構いませんけど……」

 茅ヶ崎がちらと汐帆を窺った。茅ヶ崎は元々休憩する予定だったから良いとして、汐帆は確か友達に誘われてライブを見に行くことになっていた。それに、元々今日は委員の仕事を割り当てられてはいない。顔を立てるという意味では、ここで茅ヶ崎だけが抜けることになっても責められはしないはずだ。

「ううん、大丈夫。ライブの予定はまだあるから、その時に行けば良いよ。私も手伝います」

 汐帆はその上級生らしい委員の人にそう答えた。

「ほんと? 何か予定があったのなら悪いわね」

 汐帆はそれに「大丈夫です」と返す。

「そういえば潮見さん、あなた委員証はどうしたの?」

 目の前の上級生らしい人は自分の胸元に下げられたそれを指して言った。

「あ、一応持ってます」

 汐帆はそう言うと自分のズボンのポケットから取り出そうとする。

「ああ、持っているのなら良いわ。とにかくなるべく早く終わらせましょう」

 それだけ言うとその人は中庭の混雑の中心へと向かっていった。汐帆が今度はこちらを向く。

「ごめんね、並木くん。みんなでライブに行くって言ってたのに行けなくなって。剣谷くんも涼風さんも、ごめんなさい。中庭の整理にどれくらい時間が掛かるかわからないから、私たちのことは気にしないで三人で周っててください」

 彼女が悪いわけではないのに、殊勝にもそうして謝った。

「わかった。ライブはまた後で行こう」

 俺はそんな汐帆にそう言うしかなかった。汐帆は俺の言葉を聞くと少し微笑み、頷いた。そして茅ヶ崎と一緒に先に中庭へ向かった委員の人の後を追った。

 中庭の雑踏から聞こえる声が絶えることなく耳に入ってくる。けれど、それらの音はこの時の俺にとっては作業中のテレビやラジオから流れる声のようで、耳に入ってはいても碌に聞こえてはおらず、そのためそれほどうるさいとは感じなかった。それが特別教室棟という建物の中にいるせいなのか、それともこの状況のせいなのか、判別がつかなかった。

 かくして、この場には俺と剣谷と先輩の三人だけが残されたのだった。

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