第37話

 最初に反応したのは茅ヶ崎だった。

「ジンクスってさっき話してた? 本当に?」

 俺は茅ヶ崎の方を向き、頷く。

「ああ、そのジンクスだ。朝日ヶ丘は知ってるよな。今学内で流行ってるらしいジンクスについて」

「いや、知ってるも何も、その話、学校中に広まったきっかけは私の記事だもん。『恋人になりたい対象と二人でヒノキに触れ、振り返る』ってやつでしょ」

「そうだったのか。てことは、俺のクラスの担任がその噂の元だってことも書いたのか? あの人、確か自分の名前は出さないでくれって言ってたけど」

「ううん。そう聞いたから、私、誰が噂の元かって名前は出してないよ。1組で噂になってるって書いただけ。まあ、同時に噂の元は生徒ではないとも書いたけどね」

「それ、ほとんど担任だって言ってるようなもんだろ」

そう言いつつ、俺は朝日ヶ丘の発言に内心で驚く。朝日ヶ丘の書いた記事なら一年の頃に流し読み程度に読んだことがあったが、今では学校中に噂を流布するくらいの影響力があるのか。けれど、それならば俺にとっては願ってもないことだ。

「何にせよ、それなら話が早い。朝日ヶ丘、そのジンクスに出てくる檜が学内に存在しないことは知ってるよな」

「もちろん。それどころか長く勤めてる教師や用務員に聞いても、かつて檜が植わってた事実もない、でしょ。ちゃんとそこまで調べて記事にしたからね。まあ、今ああして中庭に集まってる人はきっと又聞きだろうから、碌に私の記事なんて読んでないんだろうけど」

「いや、流石だ。よくそこまで調べてるな」

「そんなおべっかは良いよ。それで、本題は? 檜はあるの? ないの?」

 俺の言葉に朝日ヶ丘は照れた風もなくそう言った。彼女にとって情報が足が早く腐りやすいものだという考えは変わっていないらしい。俺はそこに一種の信頼のようなもの抱いていた。

 俺はもう一度、今度は先ほどよりも短く息を吸い込んだ。

「『ない』し、『ある』。これがジンクスの真相だ」

「……あのさ、並木くん。うちの新聞、なぞなぞの欄はないんだけど」

 朝日ヶ丘が呆れたようにそう言った。見るからにテンションが下がったのがわかる。

「まあ朝日ヶ丘さん、だっけ。もう少し並木の話を聞いてみようよ。きっとちゃんと説明してくれるよ。ね、並木」

 剣谷がそう言い、場を落ち着かせてくれる。

「ああ、もちろんだ。結論から言ってしまうと、檜、つまり常緑針葉樹としての檜はこの学校にはない。長年勤めている人の誰に聞いてもその存在を知らないうえ、朝日ヶ丘の情報網でも存在が確認できないんなら、そう考えて間違いないはずだ。さっき俺が言った『ない』っていうのはこれのことを指す」

「え、でも並木が言うように檜そのものがないんなら、そもそもジンクス自体が成り立たなくない? それか、やっぱり他の木だったってこと?」

 茅ヶ崎がいまいち呑み込めないといった様子でそう言った。こういう時に剣谷や汐帆のようにスムーズにいかないのがもどかしい。俺はなんと説明すれば良いか少し考え、顔を上げる。

「……いや茅ヶ崎、それが成り立つんだ。それも、ジンクスの対象はあくまでも『ヒノキ』のままで」

 そこまで言うと、流石に剣谷と汐帆の二人には俺が何を言おうとしているかわかったようだった。

「並木くん、それってつまり針葉樹としての檜以外に『ヒノキ』があるってことだよね」

 俺は汐帆に頷く。

「そう、どうやら檜はこの学校にありそうにない。ではジンクスに出てくる『ヒノキ』とは何を指すのか。これを考えるにあたり、手掛かりとなったのは、先輩、剣谷、汐帆の通っていた中学に伝わっていたジンクスだった。朝日ヶ丘は知らないだろうから簡単に説明すると、三人の通っていた中学にはこの高校と同じようにジンクスが存在した。けれど三人がそれぞれ話すジンクスは、『図書館で特定の本を借りる』という部分以外、何の本を借りれば良いかやどんな効果があるのかについて、全くと言って良いほど異なっていた。そして剣谷が聞いた話では、もっと下の代になると、図書室に一歩足を踏み入れるだけで願いが叶うというものになっていたらしい。ジンクスに限らず、噂などの人から人へと伝わる類の話は、伝聞の過程でどうしても元の形とは異なってしまう。三人の中学に伝わっていたジンクスも、そうして少しずつ変容していったんだろう。だから三人が三人とも違う内容のジンクスになってしまったんだ」

「それで並木はこの高校のジンクスも人から人へと伝わる際に変容してしまい、本来は違うものが『ヒノキ』の形になったと思ったのか」

 剣谷が相槌を入れる。

「うん、過程はわかった。それで、さっき並木くんは『ヒノキ』は『ある』とも言ったよね。じゃあ、それは何でどこにあるの?」

 朝日ヶ丘がそう尋ねる。時折、俺の話を聞きながら手に持っているスマホを弄っていたが、先ほどのように呆れているようには見えない。少しは俺の話を聞いても良いと思ってくれたのだろうか。いや、そうでなくては困るのだ。俺はみんなの表情をもう一度窺う。朝日ヶ丘だけではない、みんなが俺の話を聞いている。ここまではそう悪くない、と思う。俺は舌で唇を湿らせ、本題に入る。

「『ヒノキ』がある場所、それは中庭だ」

 俺の言葉にみんなが一斉に窓の外を見る。そこには先ほど見た時と同じく、何組かの男女、そしてキャンプファイヤーの準備に勤しむ実行委員がいた。いや、先ほどよりも少し男女の数が減っているような気もする。俺は少しだけ結論を急ぐ。

「そして『ヒノキ』の正体は、キャンプファイヤーに使う材木のことなんだ」

みんなの視線が中庭全体から、それらを運ぶ文化祭実行委員の二人に注がれる。そうして初めに口を開いたのは朝日ヶ丘だった。

「もしかして、あの井桁に使われる材木が檜ってオチ? 並木くん、それなら悪いけど間違ってるよ。私もそう思って委員の人に確認したけど、あれは全部杉の木。檜じゃなかった。それに過去の例も遡って調べてみたけど、例年材木は同じ業者に発注してるらしいから、今年だけ杉ってわけでもないよ」

 俺は朝日ヶ丘がそこまで調べていることに驚く。寧ろ、俺としてはあの材木が檜でなくて助かった。でなくては、結論までの筋道が変わってしまう。

「ああ、もちろんそうじゃない。あの材木は『ヒノキ』であって、檜ではない。朝日ヶ丘、キャンプファイヤーでは何を使う?」

「何って……井桁用の薪でしょ? 今、あの委員の人たちが運んでる。あとは、マッチに新聞紙、軍手とか?」

「いや、もっと根本的なものだ。それがないとキャンプファイヤーとは言えないようなもの」

「火……だろ?」

 俺の言葉に、今度は剣谷が口を開いた。流石に剣谷には俺の言いたいことがわかったようだった。朝日ヶ丘が「あ、そっか」と呟く。俺は剣谷に頷いた。

「そう、火だ。これがないとキャンプファイヤーとは言えない。つまり、キャンプファイヤー=火であると仮定することができる。では、それに井桁として使われる材木は何か」

「あっ」

 初めに彼女が声を出してくれて助かった。俺は声のした方を向く。

「『木』だよね。つまり、キャンプファイヤーに使われてる材木は『火の木』……、『ヒノキ』になる。並木、そういうことだよね」

 茅ヶ崎が合点がいったという顔でそう言った。

「いやあ、考えたね。檜は『ない』けど、火の木は『ある』、か。それじゃあジンクスにあった、それに二人で触れて『振り返る』っていうのは?」

「みんなもさっき見ただろ。あの材木は一人で運ぼうとするには無理がある。だからああして二人の委員が割り当てられてるんだ。『振り返る』っていうのは、あの材木を二人がかりで運んでいる姿、つまり半身の姿勢で運んでいる姿のことを指す。つまり、元々は『キャンプファイヤーの井桁に使う材木を二人で運ぶ』というジンクスが、人から人へと伝わるにつれ少しずつ形を変え、今の『恋人になりたい対象と二人でヒノキに触れ、振り返る』というものに変わってしまったんだ。こっからは本当に推測だけど、このジンクスは多分、かつてキャンプファイヤーの準備に当たっていた男女が文化祭をきっかけに付き合い始めたとか、そういうのが原型になってるんじゃないか」

 俺はそこまで言い終えると、後はみんなの反応を待った。それまでずっと喋っていたせいか、やけに沈黙がうるさく感じる。剣谷は納得しただろうか。汐帆はどうだろう。他のみんなは。

 そして、ようやくそんな沈黙を破ったのは、いつもならうざったいとさえ感じる声、そして誰よりも待ち望んでいた声だった。

「うんうん、なるほど。『火の木』で『ヒノキ』か。悪くはない、かな? それに何より突飛だね。それで並木くん、この話を私にしてくれたってことは、記事にしても良いんだよね?」

「ああ。その辺りは好きにしてくれ。あ、でも俺の名前は出さないでくれると助かる。今度はちゃんと俺だって特定されないようにな」

「わかったわかった」

 そう言うと、朝日ヶ丘は「匿名希望……と」と呟きながらスマホを操作した。そしてそれをポケットに仕舞うと、朝日ヶ丘はにっこりと笑った。彼女もこんな表情をするんだなと思った。

「オッケー、ありがとね並木くん。それじゃ、学内新聞楽しみにしといてね。すぐ出来上がると思うから。じゃ」

 朝日ヶ丘は片手を上げそう言うと、すぐに廊下を走りだした。新聞部の部室はこの特別教室棟にある。きっと、彼女は言葉通りにすぐさま記事制作に取り掛かるのだろう。彼女にとって、情報とは足が早いものなのだ。そう思って階段へと向かう朝日ヶ丘の後ろ姿を見ていると、ふいにその足が止まった。

「あ、そうだ並木くん。新聞部に戻りたくなったらいつでも言ってね。きっと歓迎するよ」

 それだけを言うと、彼女はまた走り出し、すぐに見えなくなってしまった。朝日ヶ丘あさひ、彼女もまた足が速い。


「……聞きたい情報だけ聞いて、相変わらず嵐みたいな人だったね」

剣谷が苦笑交じりにそう言った。きっとここにいる誰しもが思ったことだろう。

「それにしても、並木にこんな才能があったなんて驚いたよ」

 剣谷は階段から視線をこちらに向ける。

「本当、探偵みたいだったよ、並木」

 茅ヶ崎がやや興奮気味にそう言う。……探偵か。みんなの目にそう映っていたなら良いが。

「でも並木くん、どうして急にジンクスの推理なんて話してくれる気になったの? 意外だったな」

 俺は当然聞かれるであろう汐帆のその問いへの答えをどうするか、少しだけ迷った。そして迷った末、誤魔化すことにした。変に波風を立てる必要もない。

「別に、大した理由があったわけじゃない。何となくだよ。自分の中で、もしかするとこうなんじゃないかっていう考えがあって、そこに偶々朝日ヶ丘が来たから、何となくそれを言ってみただけだ」

後半は本当のことだった。俺はちらと剣谷の方を窺う。いつもと同じく人の好さそうな表情からは、何を考えているのかわからなかった。

「そっか。でも本当に驚いたよ、並木くん」

汐帆はそれだけ言って微笑むと、それ以上理由を聞いてくることはなかった。

「じゃあ、そろそろ下降りよっか。そうこうしてるうちに時間も経っちゃったしね」

 茅ヶ崎がそう俺たちを促す。

 軽音部のライブ会場である講堂は中庭を抜けた先、学食から見て斜向かいの場所に位置する。普段から頻繁に使われる場所というよりは、外部の人間を呼んで講演が行われる際や臨時の学年集会が行われる際、教科書販売の際くらいにしか使われず、そのため我々生徒にとっては決して馴染みのある場所とは言えない。その利用頻度の低さのためだろうか、講堂には多少不便な面があった。

「あー、悪い。先にトイレ行ってきても良いか? 講堂って、確かなかったよな」

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