第35話
「今日は呼んでくれてありがとう」
剣谷は廊下の壁に凭れながら、同じく隣で壁に凭れる俺にそう言った。俺たちは文化部の部室のある特別教室棟、そこの一階に位置する手芸部の展示を見に来ていた。展示とは言いつつ、実際には見るばかりではなく、手芸部の制作した小物類やアクセサリー類を購入することもできる。展示されている作品が女性の客層を意識したものだったので、俺と剣谷の二人はこうして教室の外で女子三人が展示を見終わるのを待っているのだった。ところで、この学校には手芸部の他に服飾部もある。二つの部の厳密な違いは知らないが、どうやらこの教室では専ら小物類を扱っているらしい。そのため、廊下の遠目からでは女子三人が長机を見ているようにしか見えないのが少しだけ可笑しかった。俺は剣谷の言葉に軽口を返す。
「なんだよ急に。キモイからやめろよ」
「はは、ひどいね。別に、ただ言っておきたかっただけだよ」
言っておきたかったか。きっとこいつは本心からそう言っているのだろうと思った。剣谷とはそういうやつだ。けれど、それならばむしろ俺の方が剣谷には礼を言わなければならない。そう思ったが、今の俺にそれを口にすることはできなかった。俺は結局、剣谷と先輩を文化祭に呼んで、何がしたかったのか。過去の清算? いや、そうではない。二人ともそんなことを望んでいるのではないことはわかっている。ではこうして他愛もない話をすることか? 違う、とは言い切れない。けれど、それだけでは足りない気がする。きっと、今の俺に足りないのは覚悟だ。中学以来、うやむやなままにしていたことをきちんと整理するだけの覚悟。二人を文化祭に招くだけではそれは達成されていないように思う。けれど、そうわかっていてなお、今の俺にその何かを口にすることはできなかった。
「そういえば、お前今日だけで何回声掛けられたんだ? 女子三人と歩いててあれなんだから、相変わらず凄いよな」
本館よりも人の少ない特別教室棟の廊下では沈黙が強調される。俺は意図せず生まれた沈黙を埋めるように剣谷にそう聞いた。
「どうだろう。みんなきっとこの祭りの雰囲気に当てられて、何となくで声を掛けてるんじゃないのかな。それに、俺は身長の分少しだけ目立つってだけだろ」
剣谷は半ば辟易したようにそう言った。
「それに、そういうことなら俺は並木の方が羨ましいよ」
「俺? あれか、有名人が静かな暮らしがしてみたいってやつか? 随分な皮肉だな」
そうして茶化してみたものの、俺にはそう言う剣谷の本意がわからなかった。剣谷はすぐに訂正する。
「ああ、いや違う違う。単に、並木は彼女がいるからってことだよ」
「彼女? ああ、まあ……。けど、それがどうしたんだよ。お前だって、それこそ付き合いたいって人ならいくらでもいるんだろ?」
「いくらでもとは言わないけど、まあ確かに好きだって言ってくれる人はいる。けど……それじゃ駄目なんだ」
俺は剣谷に「どうして」とは聞けなかった。聞いたところではぐらかされるだろうと思ったし、何より剣谷自身が話したくないことを聞く必要もないと思ったから。
「……けど、正直汐帆にもあんなに話しかけてくるやつがいるとは思ってなかったな」
俺たちに声を掛けてくる人たちの中には剣谷以外を目的としている人も何人かいた。その中でも先輩なんかは対応にも慣れているようだったが、汐帆はそうは見えなかった。きっと普段からああではないのだろうと思う。それこそ、剣谷がさっき言ったように雰囲気に当てられて、もしくはその場のテンションでということなのだろうか。
「潮見さんが声を掛けられると思ってなかったっていうのは、並木がいるのにってこと?」
「ああ、いや、そういうことじゃない。俺と汐帆の関係については誰にでも話してるものでもないし、傍から見ても恋人同士だとはわからないだろ。そうじゃなくて、悪い意味に捉えないでほしいんだが、何ていうか汐帆があんなに人から好かれるんだなって驚いたんだ」
もちろん、汐帆の外見は魅力的だと思う。けれどそれは、茅ヶ崎や先輩のようにわかりやすく人好きのするタイプの魅力ではないと思っていた。汐帆は並の男子と比較しても背が高いうえに、表情もあまり顔に出ない。これまでにも同性から声を掛けられるということはあったらしいが、俺の中での勝手な印象として、こうした文化祭などで表立って異性から声を掛けられるようなことは少ないだろうと思っていたのだ。
「そっか。……並木は知らないかもしれないけど、潮見さんは中学のころから人気はあったよ。確かに並木が言うようにそれほど大々的なものではなかったかもしれないけど、それでも当時、彼女を魅力的だと思っていた人物を俺は知ってるよ」
「なるほどな。……あ、そういえば、この高校でも汐帆に告白してきた男子を一人知ってるな」
「へえ、そうなんだ」
「ああ、さっき廊下ですれ違ったやつだよ。俺と汐帆が話してた時の、あの長髪のさ。確か、丁度去年の夏祭りの前くらいだったかな」
剣谷は一瞬だけ考えた様子だったが、すぐに合点がいったようだった。
「ああ、なるほど。だから並木はあの時潮見さんに道を変えようかって聞いてたんだね」
「あれ、私の話?」
横から急に声が掛けられる。剣谷の方を向いて話していたため、そうして汐帆に話しかけられるまで、俺は彼女が接近していることに気が付かなかった。俺は思わず飛び上がりそうになる。
「ああ、汐帆。いや、大したことじゃない」
何とか平静を取り戻し、俺はそう誤魔化す。言ってしまってから気が付いたが、本人の知らないところで恋愛事情など話すべきではなかった。配慮を欠いていたことを反省しつつ、汐帆の様子を見るに、聞こえていて敢えて尋ねているのではなさそうだった。俺はほっと息を吐く。
「それより、もう良いのか?」
俺は視線を先輩と茅ヶ崎のいる方に遣る。見ると、二人はまだ展示を見ているようだった。
「うん。私は一応買いたいものは決まったかな。でも今まで知らなかったんだけど、この学校の手芸部って凄いんだね。実は既製品ですって言われてもわからないかも」
汐帆はそれまでいた教室を見ると、やや興奮気味にそう言った。
「あ、それでね、私、腕に付けるアクセサリーって持ってないからブレスレットを買おうかなって思ってるんだけど……良かったら並木くんもお揃いで一緒に買わない? 私もデザインはシンプルな方が好きだから、多分、男の人でも付けられると思うんだけど」
「ブレスレットか。まあ、折角だしな。じゃあ俺も買おうかな……」
本人のいない場で噂話をしていたことへの後ろめたさもあっただろう。俺は汐帆の提案に乗ろうとする。
「いや、止めておいた方が良いと思うよ」
けれど、俺が教室へ入ろうと壁に凭せ掛けていた背を丁度浮かせたタイミングで、剣谷がそう言った。口調こそいつもの穏やかなものだったが、そこには確かに剣谷の意思を感じ、俺は少し驚いた。汐帆も同様だったらしく、一瞬妙な空気が流れる。それに気が付いたらしい剣谷が言葉を続ける。
「ああ、いや別に大したことじゃないよ。ただ、ブレスレットってその形状から『束縛』とか『永遠』って意味があったりして、お揃いで買うにしてはちょっと重いかなって思っただけだよ。それに並木、普段アクセサリーとか付けないだろ?」
「まあ、それもそうだけど……」
「そっか……じゃあ、私だけでも買ってこようかな。並木くんはそこにいてね」
「あ、ああ……」
汐帆はそう言うと、もう一度教室へと戻っていった。確かに、ブレスレットにそんな意味があるのなら、剣谷の言う通り、お揃いで買うとなると少し重すぎる気もする。けれどどうして剣谷はそんなことを知っているのだろうか。もしかすると、剣谷自身も誰かにブレスレットをあげようとして意味を調べたりしたのだろうか。俺は再び剣谷と二人になった廊下で、さっき剣谷が俺のことを羨ましいと言っていたことを思い出しながら、ふとそんなことを考えた。
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