第33話
教室の外から大勢の人の楽しそうに話す声が聞こえてくる。その様子が今の自分の心境とはまるっきり正反対で、それらの声が本当に存在しているのかさえ疑ってしまいそうになる。俺は今日ほどこの高校に入学してしまったことを悔やんだことはないだろう。思えば、季節が真冬にも関わらず半袖半ズボンで川べりを何キロも走らされたこともあった。同じ学年の誰かが近隣住民とトラブルになったからと二時間も学年集会が終わらなかったこともあった。しかし、そのどれもが今のこの状況と比べると、やはり些末事であったのだと思えてしまう。できることならこの場から逃げ出してしまいたかった。けれど、最早それすらも叶わない。
「あはは、並木良いよ。うん、似合ってる」
「た、太陽、真顔止めて、お、おなか痛い」
「いやあ、似合うもんだね。俺も着られなくて残念だなあ」
三人はそう言いながら、さも楽しそうにはしゃいでいた。
「ちょ、ちょっとみんな……そんなに笑っちゃかわいそうだよ」
唯一、汐帆だけがそう言って彼女らを窘めてくれる。けどな、汐帆。多分自分では気が付いてないんだろうけど、そう言うお前も相当顔がニヤついてるぞ。普段はあまり表情が顔に出ないのに、こういう時はわかりやすいんだな。
俺は着慣れない衣装を身に纏い、ほんの数分前のことを思い出す。そうだ、あの時はまだ楽しかったはずじゃないか。そうだろ、お前ら?
「な、なあ、本当に行くのか? 行ったところで別にそんなに大したことはやってないぞ。だから……」
「往生際が悪いよ。もうこうして二年のフロアには来ちゃったんだから、行かないってのも変でしょ?」
いや、特定のクラスだけ入らなかったからといって、直ちに変とはならないだろう。それよりも寧ろ、変なのは俺のクラスの出し物の方だ。俺は四人の一番後ろを、さながら鉄でできた枷でも付けられているかのように重い足取りで歩く。
「なんでそんなに嫌がってるんだよ。自分のクラスの出し物がどんなものだろうが、今から並木は客として行くんだから、何か手伝わされるってこともないんじゃないのか? シフトの入ってない日のバイト先に客として行くみたいなもんだろ」
剣谷がそんな俺を見て言った。ああ、違う……違うんだよ剣谷。俺はそのバイト先に、客として行きたくないんだ。
しかし、俺の声なき声はこの世の多くの場合がそうであるように、多数派の意思によっていとも簡単にかき消されてしまう。こんなことが許されても良いのだろうか。否、良いはずがない。速やかに制度の抜本的な改革の推進が望まれ──
「あ、着いたね。ここが並木のクラスだよ」
茅ヶ崎がいかにも無邪気そうに紹介する。その見るものによっては可愛らしい笑顔の裏に禍々しいほどの悪意が見て取れたのは、この中では恐らく俺だけだっただろう。
「えっと……『男装女装喫茶』? あ、ほんとだ太陽の言った通り、お客さんはいないみたいだね。なんでだろ」
先輩が、ドアに張り付けられた画用紙に、ポップなデザインで書かれた文字を読み上げてそう言った。
「なんだ、要するに店員が女装や男装をしてる喫茶店ってことか。それならうちの高校の文化祭でもあったから、そんなに珍しいものでもないと思うけど。ですよね、すずさん」
剣谷は先輩にそう同意を求める。
「うん。男装喫茶とか女装喫茶とか、大抵はどっちかのコンセプトだけって場合が殆どだったと思うけど、あったね。でも、そのどっちもっていうのはちょっと珍しいかも」
「あ、てことは昨日並木は女装してたってことか? それは見てみたかったなあ」
剣谷がさも惜しそうにそう言う。それを受けて茅ヶ崎がにやりと笑った。
「ふふふ。じゃ、入ってみましょうか」
ところでこの時の俺はというと、「へえ、『ふふふ』って笑う人本当にいるんだ」などと目の前の恐らく避けようのない現実から必死に逃避していたのだった。
そうして時は今に至るわけである。
「あはは、いやあ、まさか男装女装喫茶が、『客側が』男装や女装をする喫茶店だとはね。並木が来たがらなかった理由がわかったよ」
剣谷は依然楽しそうにしながらそう言った。
そう。剣谷の言う通り、俺のクラスの出し物は店員が女装や男装をする喫茶店ではない。サービスを提供されている間、客側が女装や男装をしなくてはならないのだ。そのため客として教室に入ってしまったからには、俺はこの教室に課せられたルールに則り女装せざるを得ないのだ。せめて店員側にも同じルールを課すべきではないだろうか。俺はクラスTシャツで働くクラスメイトを横目で見る。いや、それだと昨日、俺は女装しなければいけなくなっていたのか。ああ、詰んでいる。
俺はご丁寧に教室内に用意された姿見に映った自分の姿を確かめる。そこには、ディスカウントストアで買ってきたことがわかるテロテロの生地でできたセーラー服を着た自分の姿が映っていた。こうして見ると、少し悲しそうな顔をしている。母さんと父さんが今日、この場にいなくて良かったなと、心底から思った。
俺はこの出し物をすると決まった時のことを思い出す。あれは誰が言い出したのだったか。
『多数決で喫茶店するってなったはいいものの、普通のやつやってもつまんねえよな』
『あ、じゃあ女装喫茶とか男装喫茶とかは?』
『うーん、それも普通だしなあ。何より他所のクラスがやるって言ってたような気がする。被ってもつまんねえし、何ていうか俺たちにしかできねえことやりたくねえ?』
『あ、じゃあお客さん側が女装や男装をするっていうのは?』
『裏の裏は表』とはよく聞くが、『逆張りの逆張り』は『悲哀』なのだと、この時俺は初めて知った。物事というのはやはり、出来るだけシンプルなのが良いのだと、そう思った。
「ていうか、なんでお前は女装してないんだよ」
そうして俺は剣谷を睨む。見ると、茅ヶ崎と先輩の二人は確かに用意された詰襟の学ランを着ていたが、汐帆はクラスTシャツ、剣谷は白いシャツのままだった。剣谷のシャツは元々剣谷がここに来る際に着てきたものだから、用意されたものではない。あれは剣谷の自前の制服だ。汐帆は事情があるから仕方ないとして、俺は剣谷が教室に数個併設された更衣室のうちの一つに、俺と同じタイミングで入っていくのをちゃんとこの目で目撃した。それなのに出てきた時には今のように、俺だけがセーラー服を着ていたのだ。当然、これでは納得できない。
「いやあ、俺も折角だからと一応着ようとはしてみたんだけど、一番大きいサイズでも入らなくってさ。悪かった」
剣谷はそう言うと両手を合わせた。剣谷の身長の正確な値を聞いたことはなかったが、目算でも恐らく百八十五センチは下るまい。確かサイズは男女ともにSMLの三つを用意していたはずだが、男性の中でも背の高い剣谷に、それも女性服のサイズが合わないというのも、言われてみれば然もありなん。
「……いや、サイズがなかったのは完全にこっち側のミスだから、まあ……お前が謝ることじゃない」
俺は納得はしたものの、いまいち釈然としないものを覚えていた。俺と同じ境遇のはずの茅ヶ崎や先輩などは、いかにもコスプレ用ですといった衣装にも関わらず、二人ともなぜか滑稽なところはない。素材の違いなのだろうが、どうして俺だけがこんな目に……。
「……もうみんな満足しただろ。早いとこ何か注文してさっさと出よう」
俺はそう言い、剣谷と汐帆がいる窓際に近い一席に座る。テーブルは学校机をくっつけて白いクロスを上から掛けただけの簡易的なものだった。
「それもそうだね。私も満足したし」
茅ヶ崎と先輩も同じように続いた。こう思うと準備の段階で席数を少し多めにしておいて正解だったかもしれない。もっとも、そう提案したのは俺ではなく別のクラスメイトだったが。
「すいません、注文いいですか? えっと、私ミルクティーで。みんなは?」
茅ヶ崎に続きそれぞれが好きに飲み物を注文する。メニューにはパンケーキやハニートーストの他、ロシアンルーレットたこ焼きなども載っていたが、まだ時間も早い事もあり誰もそれら食べ物類は頼まなかった。俺は何となくでミックスジュースを注文した。全員分の注文が終わると俺たちはそれぞれの金券をやる気のなさそうな店員に渡す。この学校の文化祭では支払いは現金ではなく、初めに数枚が連なった金券が配られ、それを注文時にもぎって使用することになっている。俺たち生徒は昨日の校内祭の朝のHRで、先輩たち一般客の場合は校門前のテントでリーフレットと一緒に好きな枚数購入することができる。
注文が供されるのを待っている間、俺は自分も協力して飾り付けをした教室をぐるりと見回してみる。他にもテーブルはいくつか設けられていたが、そのどれもが空席であり、俺たちがいなければ閑古鳥が鳴いていると言ってしまっても良いような繁盛具合だった。やはり、この手の色物の模擬店は一度経験してしまうとそれで満足してしまい、二度目は足を運びづらいのだろう。昨日はそこそこ繁盛していただけに、そのコントラストで余計に教室内が寂しく感じられた。
やがて俺たちのテーブルに注文した飲み物が運ばれてくる。汐帆と剣谷はアイスコーヒー。先輩は茅ヶ崎と同じくミルクティーを頼んだ。店員はもちろん俺のクラスメイトなわけだから、一瞬俺を見て驚いたようだったが、一言も交わすことなく裏に引っ込んでいった。そうして俺たちが注文した品を飲んでいると、教室のドアが開けられ三人組の男子が入ってきた。クラスTシャツを着ているところを見るにこの学校の生徒らしかったが、どうやらそいつらは普通の男装女装喫茶だと思って入ってきたようで、普通の姿の店員と見るからに異様な姿の俺を見て混乱していた。そして、あまりやる気のない店員に「あちらの更衣室で着替えてきてくださーい」と同じセーラー服を渡される。俺は自分のクラスの模擬店に客が入って喜ぶべきなのか、それとも俺と同じ被害者が出てしまうことを嘆くべきなのか、わからなかった。
「いやあ、楽しかった。ね、並木」
「へえ、楽しんでいただけだようで。俺は楽しくなかったけどな」
そうは言いながらも、確かに、このクラスに来たことがきっかけとなって、それまではどこか距離のあった先輩、剣谷、茅ヶ崎と汐帆の四人はもう随分と打ち解けたようだった。
俺たちは元々着ていた服に着替え直し、ようやく教室を後にしようとしていた。そうして、ふとやはり先輩はセーラー服の方が似合っているなと思った。ところで俺たちが教室を出てしまうと、さっきから一言も交わすことなく席に座っているセーラー服姿の男子三人しか教室に残らないことになるが、こればかりはどうしようもない。
「みんな、忘れ物はない? じゃ行こっか」
先輩がそう言ったのに従い、俺たちは席を立つ。すると丁度同じタイミングでたこ焼きを持った店員が奥から出てきた。あの三人組、あの雰囲気でロシアンルーレットたこ焼きなんて頼んでいたのか。意外と俺が見えている以上には楽しんでいるのかもしれない。そう思いながら俺たちは店員の横を通り過ぎようとする。そして、店員が「あっ」と声を発した時には遅かった。紙皿の上に乗せられたたこ焼きは白のセーラー服に当たり、べちゃりと床に落ちた。
「す、す、すみません。あ、ああ何か拭くものは……」
そう言って、店員は取り出したハンカチで裾に付いたソースの汚れを取ろうとする。しかし水も付けていないハンカチで汚れが取れるはずもなく、後には乾いたソースの跡がくっきりと残ってしまう。
「ああ、いえ、私も運んでいる最中に横を通ろうとしちゃったから、こちらこそすみません」
先輩はそう言って店員をフォローする。
「あ、でも服は……。それだけ汚れちゃったんじゃそのまま周るのも……」
茅ヶ崎がそう言う。
全員が立ち尽くす横で、店員が狼狽えている。
「あ、それじゃあここの服は貸してもらえないかな? ほら、丁度涼風さんの制服と一緒のセーラー服だし」
茅ヶ崎が提案する。
「ううん、駄目だと思う。ここの衣装って見たところ全部生地が薄いから、多分中が透けちゃう。それに長袖だから、多分校内を周るのには適してないと思う」
汐帆がそう言う。そうしてまた、みんな考え込んでしまう。端の方でセーラー服の男子三人が心配そうにこちらを見ていた。確かに、彼らの来ているセーラー服は茅ヶ崎が言ったように生地が薄く、中のクラスTシャツのデザインが透けて見えてしまっていた。きっと彼らのクラスメイトの誰かがデザインしたであろう柄がはっきりと……
「……あ」
唐突に発せられた素っ頓狂な声に、みんな何事かとこちらを向く。俺は勢い込んで先輩の方を向いた。
「そうだ……ある。ありますよ先輩。先輩の着られる服が」
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