第31話
「そういえば、校門の看板、変わってるよな。一瞬読めなかった」
剣谷が親指だけでそちらを指差す。
俺は剣谷の言った看板のことを思い浮かべる。こちら側からだとアーチ状のプラスチックの板しか見えないが、外側からだと『文化祭 カイ マク』と書かれているのが見えるはずだ。記憶が確かなら、『文化祭』の文字が上段、『カイマク』の文字がカイとマクの間に若干の間を空けて下段に書かれていたはずだ。きっと剣谷は、開幕の文字だけがカタカナで書かれていることを言っているのだろう。確かに、初見では少し読みにくいだろうか。
「ああ、いや別に大した意味もない。ただのダジャレってだけで……」
俺は一瞬視線を落とす。
「……並木?」
不意に考え込んでしまった俺に剣谷が声を掛ける。
「……ああ、いや何でもない。あの看板のことなら、焦らなくても、まあ帰るころにはわかると思う」
俺は剣谷にそう言う。去年も同じ看板があったことを憶えているから、恐らく三年の委員のうちの誰かが設置したのだろう。だから、今年もその意趣が変わっていなければ、あの看板自体に施された仕掛けは大したものではない。だから、この時俺の頭にあったのは全く別のことだった。剣谷は「ふうん」と言うと、それ以上看板については口にしなかった。
「ところで並木、その言ってた友達って人は? 見たところ並木しかいないけど」
剣谷が高い位置からきょろきょろと辺りを見回してそう言う。
「ほんとだ。確か紹介してくれるって言ってたよね」
「ああ、えっと、あいつら今は委員会の仕事で、多分そのうち──」
「うっわ、ほんとにいんじゃん。カメラカメラ……ってあれ? 並木くん?」
朝っぱらからやけにテンションの高い声が聞こえてきた。面倒なやつに見つかってしまった。
「なんで並木くんがそこの人たちと一緒にいんの? ひょっとして知り合い?」
「こっちの台詞だ。なんでお前がここにいるんだよ」
俺は声の主を振り返る。丸い眼鏡をかけたミディアムヘアのその女子は青いクラスTシャツに制服のスカートを身に付け、首からはデジカメを下げていた。俺は正直こいつのことがあまり得意ではなかった。
「えっと並木、その人が言ってた?」
剣谷がやや困惑気味にそう聞いてくる。
「ああ、いやこいつは違う。
そうして俺は朝日ヶ丘の方を向く。
「何その聞き方。普通に元部活仲間とかで良いんじゃない? 友達ってほどでもないし」
「だそうだ。それで、元部活仲間の闖入者であるお前はどうしてこんなところにいるんだ?」
朝日ヶ丘は俺の言葉にも別に気にしたところはない様子で答える。
「闖入者とはひどい言い草だなあ。私はただ校門付近にとんでもない美男美女が出現したって聞いたんで、もしかしたら記事になるかもって思って来たの。ひょっとすると有名人がお忍びでうちの文化祭に、ってのもあると思ってさ」
俺はそう話す朝日ヶ丘の勢いに若干引きつつも、同時に素直に感心してしまう。剣谷と先輩がこの学校にやってきたのは、精々十分前かその程度だろう。そんな短時間で裏取りも含め、まともな情報を集められるとは思えない。きっとこいつはそんな不確定な情報を頼りにここまで出張ってきたのだろう。俺が新聞部に入部した一年当初の頃からこいつはこうだった。少しでも記事になりそうなことがあったらすぐにカメラを持って出向き、記事になるとわかればすぐに制作に取り掛かる。彼女いわく、「世の中のニュースっていうのは足が早くて腐りやすいの。昨日獲れたばかりのものでも今日見てみると腐ってるなんてことはざらにある。だから噂になってから出向いてたんじゃジャーナリストとは言えない」らしい。最初はそれほど意欲的ではなかった新聞部の他のメンバーもそんな彼女に感化されて、今ではすっかり熱血部員になってしまったのだ。そのため、俺のようなそこそこの活動を求めていたやつは皆半年と経たずに辞めてしまった。
「来てみたは良いけど、見た感じ二人とも有名人ってわけじゃないんだよね? うーん、確かに見た目は悪くないけど……うちはミスコンとかもやってないしなあ。これは記事にするにはちょっと弱いかなあ。うん、うん……よし。じゃ並木くんも内なるジャーナリズムが騒いだ時にはいつでも呼んでね。私、すぐ駆け付けるから」
朝日ヶ丘は俺の返事も聞かずにそれだけを一方的に言った後、すぐにどこかへ駆けて行ってしまった。
「……なんか、嵐みたいな人だったね」
後に残った俺含め三人はすっかり朝日ヶ丘のテンションに圧倒されてしまっていた。
「今のもしかして朝日ヶ丘さん? 何の話?」
そんな俺たちの後ろからそう声が掛けられる。今度こそは何度も聞いたことのある声だった。
「ごめんね、委員会の会議が長引いちゃって。あ、並木くん、その人たちが?」
俺は近づいてきた二つの足音の方を向く。
茅ヶ崎の髪色は夏休み前のハイトーンに戻っており、やはりこちらの方が俺の中での茅ヶ崎の印象と合っているように思えた。二人ともお揃いのクラスTシャツに身を包んでおり、髪には同様にお揃いの編み込みが入っていた。昨日はいつもと同じ髪型だったから、きっと今日が一般祭ということでどちらかが言い出してその髪型にしたのだろう。けれど、茅ヶ崎のふわっとした癖のある髪と汐帆のまっすぐな髪との違いだろう、ニュアンスは若干異なっているように感じた。けれど、どちらも似合っていた。
俺は二人が十分こちらに近づいてから話始める。
「こっちの背の高い方が剣谷犬汰、俺たちと同じ高校二年。で、こっちが涼風すず先輩。俺たちの一個上で三年生」
「あれ、剣谷くん?」
と、そこまで言って汐帆がそう言った。汐帆は一歩、剣谷の方へ歩み出る。
「もしかして、あの剣谷くん? 憶えてるかな、私中学二年の時に同じクラスだった……」
汐帆は驚いた様子でそう言う。けれど、驚いていたのは汐帆だけではなかった。
「……潮見、潮見汐帆さん?……もちろん、憶えてるけど、でも……」
剣谷も目を見開いていた。
「あれ、二人とも知り合い?」
茅ヶ崎が顔見知りらしい二人のどちらにともなくそう尋ねる。
「あ、うん。えっと剣谷くんとは中学二年の時に同じクラスで、席が隣同士の時とかはよく話したりしてたの。ね?」
「あ、ああ……うん。話してた。けど、まさか並木の友達だったなんて」
「私も驚いた。だって剣谷くん、すごく背が伸びてるから。並木くんに紹介されるまで、剣谷くんだって気が付かなかったよ」
「あれ、ということは潮見さんだっけ、は私とも同じ中学ってことになるね。もしかするとこの三人で会ってたなんてこともあったのかな」
先輩がそう言う。当然、先輩も二人と同じ中学に通っていたのだから、そういうこともあったのかもしれない。思えば汐帆に中学の話を聞いたことなどなかった。今回に関しては知っていればどうこうというようなものでもないが、何というか、もしかすると世界は俺が思っているよりも狭いのかもしれない。
「あれ? てことはこの中じゃ私だけ二人のどちらとも関係ないことになりますね。えっと、改めて自己紹介すると、私、茅ヶ崎千夏って言います。汐帆と並木とは一年からの付き合いになりますね」
茅ヶ崎がそう言う。確かに、俺はここにいる全員の共通の知り合いということになるから当然として、潮見が剣谷、先輩と同じ中学なのだとすると、茅ヶ崎だけがこの二人とは何も接点がないことになる。作為はないが、少し申し訳なく思ってしまう。けれど、これまでの経験で言うと、茅ヶ崎は初対面の相手に臆するようなタイプでもない。きっと心配するほどではないはずだ。
「えっと、潮見汐帆です。私も二人とは一年生のころからの知り合いで……」
「知り合いって言うか彼女だよね、並木の」
ふいにドクンと心臓が跳ねた。思わず先輩の顔を見てしまう。茅ヶ崎の言葉は間違っていない。それに、別に先輩に隠そうと思っていたわけでもない。それも込みで今日、文化祭に呼んだのだから、当然いつかは言うことになるだろうと思っていたことだった。けれどそうは言っても、こうして唐突に打ち明けることになるとは思っていなかったのだ。
「……そうなんだ」
先輩は初め、少し驚いた様子だったが、すぐに元の柔和な表情を作った。そのため俺は先輩がそれを聞いてどう感じたか、窺い知ることはできなかった。けれど、俺の思い違いでなければ、少なくとも悪感情のようなものは読み取れなかったように思う。いや、これは俺の願望だろうか。
「そういえば、二人は付き合い始めてもう一年以上経つんだっ──」
「ち、千夏、もう大丈夫、そんなに言わなくても……」
汐帆が焦って茅ヶ崎のことを止めに入る。もう少し汐帆が遅ければきっと俺が止めていただろう。たとえ先輩相手でなかったとしても、恋愛事情など誰彼構わずつまびらかにするものでもない。そういったところ、茅ヶ崎の判定は俺とは違って少し緩いため、普段からひやひやすることが多い。
俺はそういえば剣谷はと思いそちらの反応も窺う。
思えば剣谷には俺に彼女がいるということを随分前に言っていた。そのため、剣谷の方はそう驚いてはいないだろうと思っていた。涼風先輩の横にいた剣谷はしかし、俺の予想に反して、棒立ちのまま呆けた様子で俺たちを眺めていたのだった。
「……剣谷? どうした大丈夫か」
「え、ああいや、何でもない。ただ、ちょっと驚いただけで……」
驚く? 剣谷には俺に彼女がいることは話していたのに? けれど、すぐにそういえばと合点がいく。さっきも言っていたじゃないか。剣谷と汐帆は顔見知りなのだ。考えてもみれば、その顔見知りの人物が自分の友達と恋人関係にあると知れば驚くのも当然だろう。剣谷は俺が話しかけるとすぐに元の様子に戻ったようだった。
そうして自己紹介が一通り終わったタイミングで、俺は自分にすべきことがあるのを思い出した。俺は他校から来た二人の方を向く。
「すみません。急になるんですけど、今日の文化祭、汐帆と茅ヶ崎も一緒に周っても良いですか」
俺は前日、先輩と剣谷を文化祭に誘った際、三人で周るつもりでいた。もちろん、汐帆と茅ヶ崎を蔑ろにしたわけではない。元々、二人とは昨日行われた校内祭で一緒に周ることになっていた。つまり、今こうして一緒に周れないかと頼んでいるということは、昨日は二人とは周れなかったということだ。理由は単純で、汐帆と茅ヶ崎の二人は文化祭実行委員会に所属しているため、昨日は二人ともそちらの仕事に当初予想していた以上に駆り出されてしまい、加えて俺も自分のクラスの模擬店にヘルプで入る場面が多かった。その結果、俺と二人は十分に校内を周る時間が取れなかったのだった。今日の一般祭でも終わった後に委員としての仕事自体はあるものの、前日のハードワークの代わりとして、それ以前の時間は基本的に自由に校内を周って良いことになっていた。
俺はその辺りの事情をかいつまんで二人に話した。
「うん。私は良いよ。太陽の普段の学校でのやり取りが見られるんなら嬉しいしね」
先輩はそう言って快く承諾してくれた。
「いや、そんなとこ見ないでくださいよ。恥ずかしい」
俺はそんな先輩に少し照れながら返す。
「剣谷はどうだ? もしあれなら……」
「いや、俺も一緒に周りたい。久しぶりに潮見さんや、それに茅ヶ崎さんとも折角だから仲良くなりたいしね」
剣谷はそう言うと二人に向かって笑いかけた。
こ、こいつ、まさかとんでもないことを考えてるんじゃないだろうな。そうして、俺は剣谷犬汰という人間のことを思い出す。こいつは中学のころからたまにこういうわかりにくい冗談を言っていたのだった。
……冗談だよな、剣谷? 剣谷さん? 一応あまり近づかないでおいてもらっても良いですか?
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