九月九日(土)

第29話

 いつもより早い時間に起きると、それだけで何となく得をしたような気分になる。それも、合わせてあった目覚ましの少し前に目が覚めた時などはひとしおだろう。何となく、『早起きは三文の徳』という文言が思い浮かんだが、三文とは現代の貨幣価値にしていくらなのかがわからなかったため、すぐにどうでもよくなった。

 勿論、今日、俺がいつもより早くに目を覚ましたのは、何もよく知りもしない昔の貨幣などのためではなかった。自室から階段を下りてリビングへと向かうと、休日だというのに両親はとうに活動を始めていた。リビングには恐らく淹れたてであろうコーヒーの匂いが漂っていた。

「あ、太陽、おはよう。ごめんね、今日行けなくて」

 母さんはそう言いながら、いかにも忙しい様子でテーブルの上に並べられた書類を一つずつ確かめては鞄の中に詰めている。見ると母さんだけでなく、父さんもスーツ姿だった。

「別に良いよ。子供じゃあるまいし」

 俺はそう言いながら、ゴソゴソと袋から取り出した食パンをトースターにセットする。その間、コーヒーを飲み終えた父さんは「いってきます」とだけ言って、そのまま会社に向かった。そのすぐ後、母さんも後を追うようにドアを出る。

 俺は一人残されたリビングで焼きあがったトーストを牛乳と一緒にもそもそと食べる。外では犬の吠える声が聞こえる。きっと散歩でもしているのだろう。起きた時にはまだ少し暗かった空も、今ではすっかり明るくなっていた。

 何気なくテレビを点けると、地方局の天気予報士が真夏のピークは過ぎ去ったと伝えていた。そんなものがあるのかはわからないが、今日の天気は絶好の文化祭日和であるように思えた。


 通学路を歩いていると、いつもよりも制服の生徒が多いように感じた。普段は私服で登校している人も、今日という日にあっては制服で楽しみたいということなのだろうか。そうして彼らの内心を想像してみても、いつも制服で登校している俺にはわからない感覚だった。

 俺の通う浜石高校は校風こそ自由だと言えるかもしれないが、文化祭には特別変わったところがあるわけでもない。文化部の数が他と比べて特別多いというわけでもないから、たとえば多種多様な展示の数々が見られるというわけでもない。他にも有名人を呼んで何かしてもらうというようなこともないため、基本的には他校のそれと大きくは変わらないだろう。ただ開催時期だけは少しだけ早い。二学期が始まったのが今月の一日だから、昨日八日の校内祭までの期間のほとんどは文化祭の準備に費やされることになった。そうして俺たち生徒がせっせと準備したこともあり、視界前方に見えてきた校舎の至るところには飾り付けが施され、そんないかにも普段とは違う様子に、弥が上にも今日という日が特別であるということを感じさせられた。

 そんな雰囲気は相変わらず教室内にも漂っていた。夏休みが明けてからのどこか浮ついた雰囲気は、今日という日に最高潮を迎えているような気さえした。しかし、そんな空気の教室を見て担任が何も言わないはずもなく、HRが始まるとまず注意から始まったのだった。

「わかってるとは思うが、今日は昨日の校内祭とは違って一般の方も来場される。今日は楽しいお祭りであると同時に、お前らの態度が一番よく見られる日でもあるってことだ。今の浮ついた雰囲気で臨んで何か問題でも起こせば、来年からは開催できないなんて事態にもなり得る」

 四十がらみの担任は面倒そうにそう言うとさらにいくつかの注意をしたあと、どこか白けた空気になった教室を見て一つ咳払いをした。

「まあ、要するに節度を守って楽しみましょうってことだよ。俺もこんな日に注意ばっかしたくねえからな。俺もいつもみたいに厳密に校則だなんだ言うつもりもねえよ。他の先生は知んねえけどな」

 担任がそう言うと、クラス中が弛緩したようだった。「先生、普段から校則守れなんて言ってないくせに」という軽口も聞こえてくる。それに担任は「うるせえ」と少し笑いながら返す。それほど話をしたことがあるわけでもなかったが、俺はこの担任のことを気に入っていた。ただ、生徒の保護者からの評判は悪いらしい。それも少しわかる気がした。

 HRを終えた担任はさっさと教室を後にしようとする。文化祭に教師陣が何をしているのかはわからないが、この担任に関しては昨日の校内祭でもそこら中で姿を見かけた。もちろん、見張りもあるのだろうが、意外とこの人も今日を楽しみにしていたのかもしれない。

 そうしてドアに手を掛けようとして、担任はふともう一度教室を向きなおした。

「あ、あと余ったクラスTシャツは誰か持って帰っとけよ」

 段ボールを指差してそう言うと、担任はそれで言うべきことは言い終えたと教室を出ていこうとする。しかし、そんな担任をクラスの女子が呼び止めた。

「あ、待って先生」

「んだよ」

 担任を呼び止めた女子は周りの人間数人と少し言葉を交わした後、

「あのさ、この学校にジンクスがあるのって知ってる? 文化祭でそれをすると恋人ができるー、みたいな。他の先生に聞いてさ、あるらしいってのはわかったんだけど、その内容自体は誰も知らなくて」

 と尋ねた。

「ジンクス?」

 担任はしばらく立ち止まって考え込み、はたと顔を上げた。そして、ようやくその時になって多くの生徒が自分に注目しているのに気が付いたようだった。

「ああ、いやジンクスかどうかは知らないが、確かにそういう話を誰かに聞いたことがあるな」

「マジっすか。それってどんな内容でした?」

 別の男子がそう聞く。自分の話が想定以上に生徒らを興奮させていることに、担任は狼狽える。俺もその担任同様に驚いていた。一体ジンクスがどうしたというのか。普段、教室がこんな風に噂話ひとつで盛り上がることなんてなかった。色恋沙汰ということが関係しているのだろうか。それとも、みんなこの祭りの雰囲気に当てられて、どこかおかしくなっているのだろうか。考えてみたが、そのどちらの理由もありそうだった。

 担任もこれは下手なことは言えないと、「少し待ってくれ」とまた考え込んでいる。

「あー、確か……恋人になりたい対象と『二人でヒノキに触れ』……、何かを『振り返る』? とかだったような気が……」

教室中が色めき立つ。

「ヒノキ? ヒノキってあの地面から生えてるやつ?」

「多分? でも校内にそんなのあったっけ」

「あったとしてわかんなくね? 誰か知ってそうな人にでも聞かねえと」

 教室中がざわめきだす。

「ちょ、ちょっと待てお前ら。こんなのどうせ眉唾だぞ。こんな何年も前に聞いた話、俺も正確なところは覚えてないし……」

 担任は見るからに困惑している。やがて、扱いきれないと思ったのか、「信じる信じないは勝手だが、俺の名前は出すんじゃねえぞ」と言い残して教室を出ていった。果たしてその言葉をどれだけの生徒が聞いていたか。俺は噂に一喜一憂する彼ら彼女らを見て、思うところがあった。俺は過去、こうして根も葉もない噂に学年、学校中が踊らされた事象を知っているではないか。とある女子生徒の身に起こった悲劇を。そう考えると、こうして浮足立ったクラスメイトらが噂を鵜呑みにすることにも不思議はないように思えた。


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