第27話

 次の日の放課後、帰り支度を済ませた俺はもう先輩を迎えにいく必要がないことを一番に思い出した。胸にぽっかりと穴が開いたよう、とは少し詩的がすぎるだろうか。何にせよ、先輩には塾で会えるのだから、この喪失感ほどに悲観する必要はない。そう思った。けれど、その日の塾で先輩に会うことはなかった。剣谷に聞くと学校には来ていたらしいので、何か事情でもあるのだろうと深くは考えなかった。そのまた次の日、先輩は塾には来たものの、いつもより一時間ほど遅れた。普段、遅刻など滅多にすることのない先輩のことだったので、前日休んだことと合わせて何かあったのかと聞いたら、休んだのは家の用事で、その日遅れたのは学校の居残り補習に参加していたからだと教えてくれた。俺はそれで納得し、その日もいつもと同じように塾の帰りに三人で話した。その日以降、先輩は塾を休むことはなかったが、やはり少し遅れることが多くなった。

 やがて三学期に入り、三年生にとってはいよいよ目前に迫った受験が現実味を帯び始める頃だった。涼風先輩も受験に係る種々の心労で以前より話しかけづらくなるかと思いきや、それよりはむしろ俺たちとの会話を楽しんでいるようで、向こうから気軽に話しかけてくれることが増えた。勉強で疲れた先輩が俺たちとの会話に安らぎを得ているのだと思い、俺は会話の中で意識して冗談を言う機会も多くなった。そのたびに先輩はころころと表情を変えて笑ってくれたことを憶えている。

「並木、ちょっといいかな」

 ある日の塾の帰り、いつものように公園で駄弁ったあと、剣谷が俺と二人になったところでそう言った。俺はコートの前を合わせながら、剣谷の異様な雰囲気にただ頷くしかなかった。

「並木には言っておこうと思って。……すずさんのことなんだけど」

「先輩? 先輩がどうしたんだよ」

「実は……三学期に入ってから、あの人学校に来てないんだ」

 俺は剣谷の言うことが理解できなかった。この時の俺はまだ笑っていたと思う。

「だって……だって今日もああして塾に来てたじゃないか」

「うん。塾には来てるんだ。だけど、学校には来ていない」

 そんなことがあるだろうか。仮に剣谷の話を信じるなら、先輩は学校には行っていないのに、わざわざ制服に着替えて塾に来ていることになる。そんなことがあるだろうか。いや、もし仮にそうだとして、どうして剣谷はそれを俺に伝えたのか。いずれにしても、わからないことだらけだった。塾には来ていると言うのだから体調不良というわけでもないのだろうか。体調不良以外で塾には来られて学校には行けない理由……

 俺はそう考えて、ひとつの考えに至る。

「もしかして、学校で何かあったのか?」

剣谷は沈痛な面持ちで頷いた。俺は心臓の鼓動が早まるのを感じた。

「実はあの人、二学期の後半くらいから、クラスメイトの執拗な嫌がらせの標的にされていたらしいんだ。それでも二学期の間は学校でも姿を見たんだけど、三学期からは……」

 夏でもないのに、どっと身体中から汗が噴き出るのを感じた。

「十月くらいだったかな、すずさんが一度塾を休んだ日があったこと、憶えてる? 多分、その日から嫌がらせが始まったんだと思う」

 憶えているも何も、その日は先輩に偽の恋人関係の解消を頼まれた次の日だ。俺にとっては忘れたくとも忘れられるような日ではなかった。その日から先輩が嫌がらせを? そんな雰囲気は全く……。いや……

「もしかして、それまで遅刻のなかった先輩が塾に遅れてくるようになったのって……」

「多分、関係してるだろうね」

 俺はその時のことを思い出す。俺は何をのうのうと過ごしていたのだろう。先輩が苦しんでいる間に、何を。

「で、でも、何で先輩が標的に……。だってあの人はそんな、嫌われるような人じゃないだろ」

 先輩は綺麗で優しくて、俺のつまらない冗談にもよく笑ってくれて……そんな人がどうして。

「俺も理由まではよく知らないんだ。ただ、最近になって俺の学年にも噂が聞こえてくるようになった。『三年で三学期になってから不登校になった人がいる。どうやらその人は男遊びをしていたらしい』って。他校だけど、恐らく一番仲の良い並木なら何か知ってるかと……並木?」

 全身の血がさあっと引いていくのを感じた。先輩が男遊びなんてする人でないことは俺も、そして剣谷もよく知っていた。それでも剣谷がこういう聞き方をしてきたってことは、俺と先輩の間に何かなかったかと聞いているのだ。何か、なんてものではない。この時の俺には心当たりが一つだけ、けれど確かに存在した。

 バレたんだ。あの偽の恋人関係が。いつ? どこで? けれど考えたところでこの時の俺にわかるはずもなかった。だが誰にかはわかった。先輩と俺の関係が偽の恋人関係だと知って、嫌がらせにまで発展しそうな人物。俺には先輩に告白した男くらいしか思いつかなかった。断られたのにも関わらず、その後もしつこくアプローチを続けたその男を諦めさせるために、俺と先輩はあんな歪な関係を結んだ。そしてもし、一度は先輩に恋人がいると知り鳴りを潜めたその男が、先輩が自分を振るために別の男と恋人関係を偽装したことを知ったらどうなるだろう。俺の頭はその考えでいっぱいになり、ついにはそれを目の前にいる剣谷に零していた。

「……なるほど。恐らく、その男がすずさんに対する嫌がらせの発端だと考えて良いだろうね。そこから他のクラスメイトにもすずさんに対する嫌がらせの空気が波及していった」

「ま、待てよ。その発端の男はわかるとして、なんであんな良い人に対して他のやつらが嫌がらせしようって思うんだよ。おかしいだろ」

 俺は吐くようにそう言った。しかし剣谷は言いにくそうにしながら首を横に振った。

「あの人は確かに綺麗で誰にでも優しいから男子からの人気はあったよ。でも、聞いたところでは今回の件、加害者はみんな女子だって噂なんだ。きっと容姿が良くて人から好かれるあの人のことを陰ながら疎ましく思っているやつらがいて、そんな状況にその男の存在は都合の良い着火剤だったんだ」

 俺は剣谷がそう説明している間、ただ立っていることしかできなかった。

「お、お前は……お前なら先輩のこと助けられたんじゃないのか? お前は今まで何してたんだよ」

 俺は呟くようにそう言った。顔を上げると、剣谷は見せたことのない苦々しい顔をした。

「考えてみてよ。あの人は男遊びをしてるって誤解されてるんだよ? そんな状況にあるあの人に男の俺が近づいても被害は徒に拡大するだけだろ。それに、並木とは違うけど、それでも俺もあの人を大切に思う気持ちは変わらない。何度も助けようとしたさ。でも俺一人でできることなんてなかったさ」

 そこまで言って、剣谷はヒートアップした自分に気が付き、息を整える。

「それに、すずさんが学校に来てないことだって、本当なら並木には話さないでくれって本人から言われていたんだ。それを反故にしてまで、こうして並木に話してる意味を考えてくれよ」

 剣谷はそう言うと、静かに俺から顔を逸らした。今回の件、俺は事の発端であったのにも関わらず、先輩が苦しんでいることに全く気付いていなかった。そんな俺とは違い先輩と同じ学校であった剣谷は、自分にできることがないかと常に考えていたはずだ。そして考えた末、俺にすべてを話すことにした。どう考えても今の俺に剣谷を責める資格なんてなかった。

「……悪かった。感情で話してた」

 剣谷は逸らしていた顔を俺に向け、頷いた。

「幸い、俺たちの通ってるあの塾は少人数で、俺以外にすずさんと同じ学校の生徒もいない。だから、塾内に噂が漏れる心配はないと思う。つまり、すずさんにとって塾だけはこれまでと同じ自分でいられる場所なんだ。学校には来てない一方で、塾には普通に来られてるのもそれが理由だと思う。あの人、学校の成績はずっと良かったはずだから、学校側も色々と事情は加味してくれると思う。だから、俺たちは塾ですずさんと会った時、なるべくいつも通りで接するのが一番だと思うんだ」

 俺は剣谷のその提案に黙って頷くしかなかった。

 本当に俺にはそれしかできないのだろうか。けれど、この時の俺は中学二年であり、できることにはやはり多すぎる縛りがあった。

その日、俺はベッドに潜ってみても、いつまで経っても眠ることができなかった。そもそも眠りたいとも思っていなかったような気がする。そして思考ばかりがぐるぐると巡るのだった。

先輩は自分が苦しい状況にあるというのに他人のことを考えていたのだ。きっと先輩は俺が責任を感じないように剣谷には話さないでくれと頼んだのだろう。そんな心の優しい人が本人の望まぬ形で不登校になるなんてことがあっても良いのだろうか。当然、良いはずがなかった。けれど、いくら考えたところで、やはりすべての責任が自分にあるのだという結論は変わりそうになかった。

 あの日、先輩が俺に偽の恋人関係の解消を持ち掛けた時がすべてだったのだ。俺にもしその時、その関係を本物にするだけの勇気があれば、先輩はこんな目に合わずに俺たちは変わらない関係でいられたのではないか。そんな考えばかりが頭を支配した。

 その日以降、剣谷になるべく元の通りに接するように言われていたのに、先輩と変わらずに話そうと思うと、どうしても会話が空回る。俺は結局自責の念に捕らわれ続け、そうして徐々に先輩との距離は開いていった。

 やがて、先輩は第一志望の高校に合格した。その一年後、俺と剣谷は先輩と同じ高校を受けるも、そこに合格したのは結局剣谷だけだった。

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