第18話

 俺は潮見の言うことがいまいち理解できないでいた。

「ここで止まってると邪魔になるね」

そう言うと、潮見は俺と茅ヶ崎の間を抜けて歩き出した。俺たちも彼女の後を追う。見ると、横の茅ヶ崎も潮見の言葉の意味を図りかねているようだった。

「ちょっと待ってよ汐帆。今のってどういうこと? だってさ、あの店の暖簾にはちゃんと胡桃を使ってるって書いてあったよ。そりゃもちろん人目につく歩道側に『クレープ』としか書かれてないのはちょっと不親切だなとは思うけど。だからって、それだけで店側も悪いとは言えなくない?」

 茅ヶ崎が俺が抱いた疑問を口にしてくれる。

「うん、もちろんそれだけでお店の人にも悪いところがあったって言ってるわけじゃないよ。そう思う理由は別にある。私が思うに、多分、あのお父さんが言うように胡桃と書かれていなかったっていうのは本当なんじゃないかな」

 その言葉を受けて俺は、ひょっとすると潮見はあの屋台の暖簾を見逃したのかと思った。俺はそのことを伝えようと口を開きかけるが、先に潮見が二の句を継いだ。

「最初は私もあのお父さんが胡桃の表示を見逃したんだと思った。屋台の横の暖簾にはちゃんと胡桃って書いてあったから。けど自分の子供のためにあんなに必死になって怒るような人が、その子供が口に入れる食べ物にアレルギー物質が使われているかどうかを確認しないっていうのは少し考えにくかった」

「でも、それだとあの父親は胡桃が入っていることを確認したうえでクレープを買ったことにならないか?」

「ううん。ここで言う確認っていうのは『胡桃が入っていると確認』したことを指すんじゃなくて、『胡桃が入っていないと確認』したことを指すの。つまり私は、あのお父さんはクレープに胡桃が入っていないことを確認した後に、そのクレープを購入したんだと思う」

「確認ってどうやって? 店主に聞いたとか?」

 茅ヶ崎が訊く。

「ううん。それだと『胡桃が入ってると確認した』ことになっちゃう。だって店主に聞けば、当然胡桃は入っていると答えたはずだから。そうじゃなくて、あのお父さんは屋台の暖簾を見て、『ああ、ここのクレープには胡桃が入っていないんだ』って確認したんだと思うの」

「ちょっと待って、汐帆。どういうこと? だって暖簾にはちゃんと苺と胡桃のクレープだって書いてあるよ」

「そう、私たちの側から見える暖簾には、確かに苺と胡桃を使ったクレープを売っていることがわかる、『苺&クルミ』の表示がされてる。……胡桃の字はカタカナでね」

「……そうか」

 俺はこの時になってようやく潮見の言わんとするところに合点がいった。しかし、茅ヶ崎はまだ潮見が何を言おうとしているのかがわかっていないようだった。潮見の顔を見ては俺の顔を見てを繰り返している。

「倒語になってるんだ」

 潮見はそう言った俺の顔を見て静かに微笑んだ。

「私も、多分、そうなんだと思った」

「倒語? 何それ」

 茅ヶ崎が首を傾げる。

「小学生の時とかに遊ばなかったか? 俺も厳密な定義は憶えてないけど、確かある言葉を逆さまから読むと全く別の意味になる現象のことだったと思う。たとえばそうだな、『薬』を逆さまにすると『リスク』になるだろ。他にも『庭』を逆さまにすると『ワニ』になる、みたいな」

 そして、そこまで気が付いた俺には潮見の考えが理解できた。

「縁日の屋台で特徴的なのはその暖簾の表示の仕方だ。『カステラ』なら『ラテスカ』、『ポテト』なら『トテポ』みたいに、一方の暖簾には普通に読めるように書かれ、もう一方の暖簾には逆さまで書かれていることがよくある。あのクレープ屋の暖簾でも、まさに同じ現象が起こっていたんだ」

 俺は目の前の屋台の暖簾に目をやる。『めあたわ』と書かれたそれは、当然『わたあめ』のことを指すのだろう。

「そう、あのクレープ屋さんの場合、今私たちのいる方向から見える暖簾には確かに『苺&クルミ』って表示されてるけど、私たちが歩いてきた方向、つまり一般的な入口からの順路からは多分、『ミルク&苺』って表示されてるんだと思う。つまり、並木くんがさっき言ったように倒語が起こってるんだと思うの。確かあの時、あのお父さんはクレープ屋の前を通り過ぎた私たちの前方からこちら側に向かって走って来てたよね。だから多分、あの人は『ミルク』と表示された方向からあのクレープ屋さんの暖簾を見たんだと思う。クリームを使ってるクレープをミルク味って表現してもそれほどおかしいことじゃない。だから、あの人は違和感に気付けなかったんだと思う」

 潮見が俺たちの後方のクレープ屋を見ながらそう言った。

 アレルギー反応を引き起こす食品としてナッツ類、特に胡桃は広く知られている。飲食店などでは胡桃が含まれる場合、必ず表示しなければならないようになったことも、最近ニュースで耳にしたことがある。息子がアレルギーを持っている父親にとって、表示がされていないということは、つまりその食品には胡桃が含まれていないということと同じ意味を持ったはずだ。ましてやクレープという、具材が比較的シンプルな食品において、もし胡桃が入っているのなら意図的にその表示を省くとは考えにくい。つまり、あの父親にとって『ミルク&苺』と書かれた暖簾は、潮見いわく、『胡桃が入っていないと確認』するために十分なものだったことになる。

 俺はもう一度、先ほどのクレープ屋を振り返る。店先で喧嘩していたはずの二人は今はもう人垣に隠れてしまって見えなくなっていた。

「それでも、実際にクレープを買おうとする時、どこかにメニュー表みたいなものはあったと思うから、そこに書かれていたであろう胡桃の文字を見逃してしまったのは、やっぱりあのお父さんの落ち度だったと思う。だから今回の件では誤認を招く表示をしたお店と、メニュー表の表示を見落としたあのお父さん、双方に落ち度があったんじゃないかな」

 潮見がそう言ったのを受けて、俺はぐるりと辺りを見回す。縁日の会場としてはなかなかに広い総合公園には点々と屋台が立ち並んでいた。恐らくこれが神社や何かのもっと狭い敷地で行われていた場合、屋台と屋台の間隔はなくなり、きっと屋台の横の暖簾は歩道を歩く客側には見えなかった。そうなると、あの父親も店頭に表示されたメニュー表を見ることになり、当然、胡桃の入ったクレープは避けていただろう。つまり、今回の一件は偶然に偶然が重なったことで起きてしまったことになる。

 見ると、茅ヶ崎はすっかり潮見の推理に感服したようで、しきりに「あれがあーで、これがこうなって」と唱えている。いや、俺も似たようなものだった。潮見と知り合ってから早一年が経つが、彼女にこんな特技があるとは知らなかった。俺は頭の中、脳みそが随分と熱くなっているのを感じた。きっと、夏の暑さのせいだけではないだろう。

 その時、そんな俺を見かねたのか、ポツリと水滴が鼻の頭に当たった。俺は薄目で空を見上げると、少し前までは山の方にあったはずの灰色の雲が今では頭上を覆っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る