八月十二日(土)

第15話

 カタンカタンと揺れる電車の中には妙な雰囲気が漂っていた。高揚感のような、浮遊感のようなそれは、極単純に熱気と言ってしまってもあながち間違いではないだろう。今この車両に乗っている全員がその雰囲気を醸成しているというわけでもないだろうが、それでも多くの人がどこか浮き足立っているように見えた。俺の横に立ち、同伴者らしい男性と話をしている浴衣姿の女性の足元を見ると、白い木板に青の鼻緒の下駄を履いていた。会場に着くまでに足が痛くなるのではないかとも思ったが、そういえば今日は駅からのバスが便を増やして運行していたことを思い出した。男性と話す女性の表情は随分と楽しそうに見えた。

車両内にはほとんど空きがないくらいに人が詰まっていたが、俺は乗る駅が早かったこともあり、運良くつり革を掴める場所を確保できた。窓の外には相変わらずの住宅街と、それを見下ろすように東西にどっしりと横たわる山並みが見えるばかりで代わり映えしない。その上方の空には少し濁った色の雲が見えた。けれど、残念ながら今のところはこの暑さを和らげるのには働いてくれていないようだった。

 やがてアナウンスが流れ、人と人の間を縫うようにして俺は電車を降りた。そうして俺が一人抜けた電車の中にはまだ浴衣姿の人が大勢残っていた。その人たちを見送り、駅構内に備え付けられた時計の針を見る。十八時までにはまだ十五分程の余裕があった。少し早く着いたが、この分だと待たせるということもないだろう。ひとまずは安心しつつ、俺は普段降りることのない駅の構造に少しだけ戸惑いつつも改札へと向かった。改札にIC定期券を翳し駅を出る。そして、遠目からでもそうとわかる姿を見つけ、驚く。俺はそちらに小走りで駆け寄った。

「悪い、待たせたか」

 俺がそう言うと、目の前の二人はそれまでの話を中断させこちらを向いた。

「ううん、大丈夫。私たちが早く来過ぎただけだから」

 彼女の少しハスキーな声が俺を安心させる。

「ほんとは並木があんまり来るの遅いから、二人で先に行こうかって話してたところだったんだけどねー」

 そう軽口を言う茅ヶ崎の姿を見た俺は軽く驚く。それまでは潮見の陰に隠れて見えていなかった。

「……茅ヶ崎だよな? どうしたんだよその髪」

 高校入学以来ハイトーンな髪色の茅ヶ崎しか見たことがなかったため、今目の前にいる黒髪の茅ヶ崎は俺にはまるで別人のように思えた。

「バイトの関係でね、ある程度暗くしないといけなくて。親戚に紹介してもらったところだから無碍にするのも悪いし。あ、でもまたすぐに元の髪色に戻す予定。私もそっちの方が似合ってたと思うし」

 そういえばあれは終業式の日だったか、潮見が茅ヶ崎のバイトについて話していたと今になって思い出す。

「でも千夏、今の髪色も似合ってて可愛いよ」

 潮見が茅ヶ崎にそう言う。今日の茅ヶ崎は少しゆったりとしたオレンジのシャツにショートパンツいったラフな格好で、確かに髪色との違和感は覚えなかった。そう言う潮見はノースリーブのシャツにスラックスで上下ともに黒で揃えた服装になっている。少なからず二人の性格が反映されているように思った。

「そう? うーん、汐帆がそう言うんなら、じゃ夏休みの間はこの髪色でいようかな。別に嫌ってわけでもないし」

 茅ヶ崎も潮見に褒められて満更でもなさそうだった。

 見ると、空はまだ焼けていない。

 結局、俺は今日の花火大会に先に約束をしていた潮見と茅ヶ崎と来ることにした。いや、俺が今日涼風先輩ではなく二人との約束を優先したのは何も先約だったからという理由だけではない。俺が肩から掛けたショルダーバッグの中には、終業式の日に購入したプレゼントが入っていたのだった。折角渡すのなら、他でもなく花火大会が良かった。

「じゃあ行くか」

 話がひと段落したところで、俺は二人にそう声を掛けて歩き出そうとする。別に急ぐ必要もなかったが、どうせなら早く着いて長く楽しめる方が良いだろう。

「あ、その前に」

 と、潮見が何かを言いかける。

「並木くん、傘って持ってきてる? 今日、もしかするとこの後雨が降るかもしれないから」

「そうなのか? 悪い。持ってきてない」

 潮見に言われて、今日は出かける前に天気予報を見るのを忘れていたことに思い当たる。思えば、電車から見えた空には薄暗い雲がかかっていた。

「実はさっき、千夏も傘持ってきてないから、会場に向かう前にレジャーシートと一緒に近くのコンビニで買って行こうって話してたの。雨が降ってからだと、多分、会場近くのコンビニは混んじゃってて買えないと思うから。並木くんも一緒に買っておく?」

「あー、それもそうか。じゃあ俺も買っとこうかな。助かったよ」

「ううん」

 そうして、俺たち三人は花火大会の会場に向かう前に近くのコンビニに寄ることにした。


「そういえば、どうして今日は集合場所が最寄り駅じゃなくて一つ手前の駅だったの?」

 例によって俺の一歩前を茅ヶ崎と歩いていた潮見が、俺と茅ヶ崎のどちらにというわけでもなくそう尋ねた。その潮見の問いには茅ヶ崎が答えた。

「あー、そっか。理由、言ってなかったね。多分、もうそろそろわかると思うよ」

 茅ヶ崎がそう言ってから五分ほど歩いただろうか。遠くの方に花火大会の会場の最寄り駅が見えてきた。いや、正確にはそうと目される場所が見えたと言った方が良いだろうか。立ち止まった俺たちの目に入ってきたのは、本来駅の出入口があるはずの場所がほとんど人垣によって埋め尽くされている光景だった。

「やっぱり一つ手前の駅で集合して正解だったな。こんな、誰がどこにいるかわからない状況で待ち合わせなんてできそうにない」

 俺がそう言うと、茅ヶ崎も「だね」と同意する。そして、潮見も合点がいったようだった。

「そっか、二人は去年も来てるんだっけ」

 一般的にも、夏祭りなどがある際に最寄り駅の混雑などを回避するため、一つ離れた駅を待ち合わせ場所にするということはよく聞く。けれど、俺と茅ヶ崎の場合はそのことを身に染みて理解していたのだった。一年の頃の今と同じ時期、クラスの誰が言い出したのかは知らないが、クラスメイト数人を集めて花火大会に行くことになった。確か一応の名目はクラス内の親睦を深めるためとかだったような気がする。しかし、目算甘く集合場所を最寄り駅に設定したせいで、今日のような混雑に巻き込まれ、そもそも全員が揃うまでに一時間近くを要することになった。そして、どこか沈んだ空気が流れるまま会場に向かい、結局盛り上がりに欠ける親睦会となってしまったのだった。その親睦とは名ばかりの会に、当時同じクラスだった俺と茅ヶ崎は参加して一緒に痛い目を見たのだった。そういう意味では、同じ苦労を乗り越えたことでの一体感のようなものはあったかもしれない。当時潮見も同じクラスではあったが、確か家の都合か何かのために参加できなかったはずだった。

「今考えると、あれに来なかった汐帆は賢かったと思うよ」

 茅ヶ崎がいかにも切実そうにそう言った。

「でも、その時私も一緒に行ってれば千夏とももっと早く仲良くなれたんじゃないかな」

 茅ヶ崎はそう言う潮見に「汐帆~」と言いながら抱き着く。そういえば二人がこうして話し始めたのは一年の二学期くらいからだったか。

「それで、この後の道順ってどうだっけ」

 茅ヶ崎が誰にともなく尋ねる。俺も日程や会場となる場所の名前については事前に調べていたが、道程については誰かが知っているだろうと調べてこなかった。そのことを首を横に振ることで知らせる。

「まあ、この人の波に付いていけばいつか着くだろ」

 辺りを見ると大勢の人の中に浴衣姿の人が何人も散見された。あの服装でまさか別の場所に行くということもあるまい。「それもそっか」と茅ヶ崎が言ったのを合図に俺たちはその波に任せて歩みを再開した。

「あ、そうだ」

 前の人たちの歩幅に合わせて歩いていた茅ヶ崎は、そう言うと少し歩調を緩めて俺の隣に来た。そして、俺にこっそりと耳打ちをする。

「今度は私のことは誘わないで、汐帆と二人きりで来なよ」

 その言葉に俺は苦い顔をして頷きを返す。茅ヶ崎はそれだけを言って、元の潮見と同じ位置へと戻っていった。

 すでに後悔したことであったが、今の俺にはその茅ヶ崎の言葉が痛いくらいによく刺さった。それはきっと、潮見と二人で来られなかったことだけが原因なのではない。先輩の誘いを断ってしまったことも深く関係しているように思った。結局、今日はこうして二人と花火大会に行くことになったわけだが、それでも先輩からの誘いをあの時すぐに断ったわけではなかった。いくら考えても、今の自分にかつてのように先輩を想う気持ちがあるのかどうかはわからなかった。それでも、中学以来疎遠になってしまった先輩と、もう一度元の友達としての関係に戻りたいという想いがあったことは確かだった。比べるようなものでもないだろうが、ともするとそれは、これからも会おうと思えば会えてしまう潮見や茅ヶ崎らと花火大会へ行きたいという気持ちよりも大きかったかもしれない。

 少なからず後悔はあった。その想いを、果たして人は恋と呼んでしまうのだろうか。いや、誰が恋だと呼んだところで、今の俺にこうして彼女がいることには変わりがないのだ。それだけは不確かな自分の中で、唯一の真実であった。

 そう考え、俺は先輩からの誘いを断ったのだった。

しかし、そうだというのに駅に着いてからこれまで、肩程まで伸ばされた黒髪の女性を見つけるたび、ふいに動揺してしまうのはなぜだろうか。いくら考えてみても、やはり俺はその答えを持ち合わせてはいなかった。

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