第13話

 髪型や雰囲気こそ若干変わっていたものの、それでも俺にはすぐにそれが彼女だとわかった。丁度彼女のことが頭にあったというのもあるだろうが、そうでなくともわかったような気がする。

「太陽の家って南の方だったりする?」

 自転車に跨った彼女が唐突にそう聞いてくる。見ると前かごの中には何かの紙袋が入っていた。俺はその問いの意味がわからなかったが、素直に答える。

「いや、山手の方ですけど……」

「良かった。じゃあ、ちょっと歩かない?」

「歩くってどこまで」

「私んちの前まで? わかんない適当」

 先輩はそう言って笑った。

「何ですかそれ」

 やはり、わかっただろうと思う。俺も彼女につられて笑う。

「良いですけど、先輩の家どこら辺なんですか? 俺、今疲れてるからあんまり遠いと」

「ゆーてすぐだよ」

 そう言うと、先輩は乗っていた自転車から降りる。その拍子に彼女の着ていたセーラー服のスカートの端が微かに翻る。肩の少し下辺りまで伸ばされた綺麗な黒髪もそれに合わせるようになびいた。そして、今になって先輩の制服姿が俺の知っている彼女の姿のどれとも違っていることに気が付いた。そのことが、やはり少しだけ寂しかった。

 先輩は自転車の前かごに手をやり、紙袋の他に入れてあったレジ袋をごそごそと探り、何かを取り出す。

「アイス?」

 俺は取り出されたそれがミカン味の棒状アイスだとわかると、思わずそう口にした。彼女は鼻歌交じりにアイスの包装をぺりぺりと開けている。

「元々書店に参考書見に行くだけのつもりだったんだけど、あんまり暑かったからコンビニでアイスも買ったんだよね。歩くってなったら溶けないように食べちゃおうかなって思って。あ、ごめん太陽の分はないんだけど」

「いや、良いですよ。俺は家帰ったら多分あるし」

「そう?」

 先輩はそう言うと、さして申し訳なさそうにもせず、手に持ったアイスを齧る。

 先輩の言葉に俺は得心がいく。俺の一つ上なら先輩は当然三年生だ。俺たち二年とは違い、三年の夏といえば受験を考えている人にとっては確かに重要な時期だろう。

「それもかごの中に入れちゃう?」

 そう言い、先輩は俺の持っている百円ショップの袋を指差す。

「ああ、いや、これは大丈夫です」

 俺はそう言って、先輩の提案を断る。そして、中身が見えないように袋を持ち直した。


 家の大まかな方向は同じでも、俺は先輩の家までの道程を知らないため、自然と先輩が進み始めてから俺が一歩遅れる形で進み始める。

 カラカラと自転車の車輪がゆっくり回る音とともに、赤くなった西日が俺と先輩を照らしている。そうして伸びた影は後ろを付いて歩く方が少しだけ長かった。

「先輩の家、この辺なんですね。知りませんでした」

「うち高校入ってから引っ越したんだよね。だから、私も太陽があの駅から出てきて驚いた」

 それを聞いて、多分あの瞬間は俺の方が驚いていただろうなと思った。

「それで、太陽は学校帰り?」

 俺はどうやって答えようか少しだけ迷った。

「学校帰りっちゃ学校帰りですね。終業式で学校自体は午前中しかなかったですけど」

「へー、太陽んとこも今日終業式だったんだ。うちもそうだよ」

「ああ、らしいですね」

 俺は何気なくそう口にする。

「ん? 知ってた?」

 俺の言葉を受けて先輩がきょとんとした顔をした。しまった。知っているということまでをわざわざ言う必要はなかった。反射的に誤魔化そうかとも思ったが、別に隠すようなことでもないなと思い直した。

「あー、いや、今日偶々剣谷と街で会ったんですよ。それで、その後一緒にご飯を食べたので、その時に色々教えてもらったっていうか」

「え、けんけんと会ったの? 良いなあ、私も呼んでくれたら全然行ったのに」

 もう夕方だというのに辺りを取り巻く湿気交じりの暑さはなかなか衰えてくれない。顔の横を汗がたらりと滑る感触がした。

 剣谷を呼ぶ時はあだ名で、俺を呼ぶ時は名前のままなのは変わらないんですね。中学生の俺なら、きっと今の先輩の発言にもそんなことを思っては、終わりのない思考に取りつかれていただろう。けれど、今の俺は当然ながら中学生ではない。あの頃の名残がもしあったとしても、それはいずれ無くなるものだ。俺は先輩があだ名で呼ぶ相手に特に法則のようなものがないことを知っている。だから、もし中学の頃の俺が不安や嫉妬を感じたとしても、今の俺がそれを理性で否定できる。

 俺は顔を伝う汗を手の甲でぐいと拭った。

「そういえば、剣谷のやつ、中学の頃と変わりすぎてて最初誰かわからなかったんですよね」

 俺がそう言うと、先輩は声に出して笑った。

「まーそうだよね。けんけん、高校入ってからめっちゃ背伸びたし。なんか結構ファンもいるみたいでさ、上級生下級生問わず、わざわざ教室まで見に行く子までいるんだって。中学の頃を知ってる身としてはちょっと面白いよ」

「……それは凄いですね」

 話に聞いていたこともあり、剣谷がモテるだろうことはわかっていたが、違う学年の生徒までもが見物に来るという状況は想像できず、俺は素直に驚いてしまう。

「そうなの。たまにけんけんと一緒に帰ったりもするんだけど、そしたら全然知らない子から『お二人は付き合ってるんですか?』とか聞かれたりしてさ。何回も訂正しなきゃいけなくてめんどくさいんだよね。時々男子からも聞かれたりするし」

「……二人して大変なんですね」

 二人が一緒に校舎から出てきて下校している姿は簡単に想像できた。きっと見た目にも映える二人のことだから、なるほど付き合っているという誰かの憶測は余程の真実味を帯びていたことだろう。

 俺は横を歩く先輩の方をちらと見た。やはり、記憶の中の先輩の姿とは少しだけ違って見えた。それは何も服装だけではない。元々、見た目だけで言えばすっきりと整った顔立ちで、どちらかと言うと大人びた印象のあった中学時代と比べて、メイクの有無もあるだろうが、今の彼女はその大人びた印象に年齢が追いつき、年相応の親しみやすさが増しているように感じた。それでいて、誰ともすぐに打ち解ける彼女の天真爛漫な性格を思えば……

「まあ、そりゃモテますよね」

 俺はぽつりと呟いた。

「え?」

 先輩が足を止め、こちらを向く。小さい声で言ったと思ったが、考えてみれば今俺たちが歩いているのは住宅街の一角であり、それほど車も通っていない。それに先輩との距離を考えれば、声が届いてしまってもおかしくなかった。俺の足もその場で止まってしまう。

 その時、丁度雲間から西日が覗いたせいで、俺には今の先輩がどういう表情をしているのかがわからなかった。

「あ、いや……」

 俺は上手く二の句が継げずにいた。

「珍しいね。太陽がけんけんのこと褒めるの」

 先輩はそう言うと、元のように歩き始めた。どうやら俺の言葉が自分に向けられたものだとは思っていないようだった。

 俺も先輩に合わせて歩き始めると、これ幸いと先輩のその勘違いに乗っかることにした。

「俺はこれでも昔から剣谷の評価は高いですよ」

「そうなの? うーん、そうかもしれないけど……。何ていうか、中学の頃までは思っててもそれを口に出したりはしなかったでしょ? だから、なんか変わったなって思って」

 そう言われて、思い当たることがないわけではなかった。今の俺は先輩の話に乗って剣谷を褒めたが、俺のあいつへの評価が高いのは本当のことだ。しかし、果たして中学時代に俺があいつを口に出して褒めるなんてことがあっただろうか。覚えはない。

 もし先輩の言うように俺が変わったように見えるのなら、それはきっと汐帆や茅ヶ崎の影響だろうなと思った。高校に入って二人と知り合い、汐帆と付き合い始めたり、他にも色々なことがあった。汐帆にはもちろん友達としても、彼女としても随分多くのことを教えてもらったし、それは茅ヶ崎にしても同様だ。いつだったか、感謝の気持ちや愛情は本当に口にしないと伝わらないと言われたこともあった。そんなことの積み重ねがきっと、今の俺という人間を作っている。今の俺が中学の頃と違って見えるというのなら、その大半はやはり彼女たちの影響と言ってしまって差し支えないだろう。建物の陰に入り、ようやく先輩の顔が見えるようになった。

「うん、今の方が良いよ」

 先輩は俺の顔をまっすぐに見た後、そう言って笑った。先輩は笑うと目が細くなる。その表情は中学のころと少しも変わっていなかった。

 俺はそんな先輩に、上手く返事をすることができなかった。


 先輩の押す自転車の車輪の音が止まる。その拍子にかごの中のレジ袋が微かに音を立てた。アイスはもう随分前に食べ終わっていた。

「ここ、私ん家」

 そう言われ、俺は彼女の指差した方を見る。家々が建ち並ぶ一角に、赤茶色の屋根に綺麗なクリーム色の外壁の真新しい一軒家があった。表札には確かに『涼風』と書かれていた。

 どのくらい歩いたかはわからないが、体感では長かったようにも短かったようにも思える。そうして歩いていて気が付いたが、駅からの大まかな方向は一緒でも、俺の家と先輩の家とでは東西にそこそこの距離があった。今日みたいに駅で会いでもしない限りは、偶然会うこともなさそうだ。

「今日はわざわざ付き合ってくれてありがとね。久しぶりに話せて楽しかった」

 自転車を家の脇に置いたあと、先輩は門扉まで戻ってきてそう言った。

「俺もです」

 俺は偽ることのない本心を口にした。

 これでまた先輩とはしばらく会えなくなるのだろうか。いや、もしかするとこれで一生……

 正直、今の俺に剣谷の言ったような、中学の頃と変わらない恋情があるのかどうかはわからない。けれど、変わらないものとして、やはり友達としての先輩を特別に思っていることは事実だった。

「そういえばさ、連絡先交換してないよね私たち。しとかない?」

 だから、先輩がそう言ってくれて、そう思っているのが俺だけではないと知り、密かに嬉しかった。いや、もしかすると表情にも出ていたかもしれない。

「ああ、そうですね」

 そうして、俺たちはスマホを取り出して互いの連絡先を登録し合う。俺のスマホの画面に「すず」という名前が映し出される。きっと似たような画面が先輩のスマホにも映し出されているのだろう。

 先輩は自分のスマホの画面を見て少し微笑んだ。

「じゃね、また連絡する」

「はい」

 俺は先輩の言葉にそう返し、ひらひらと手を振りながらドアの向こうに消えていく彼女を見送る。

 そうして、この静かな住宅街で自分が一人になったことを確認してから、ようやく俺もゆったりとした歩みで自らの帰途に就いた。

 今日はいくつも懐かしい顔と再会した。当然、疲れてもいた。相変わらずの纏わりつくような暑さだったが、今は不思議とそれほど気にならなかった。

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