第8話

 恐る恐る入ったというのに、中は一般的なという形容が正しいような、有り体に言ってしまえばごくごく普通の喫茶店で、肩透かしを喰らったような気分になった。席数は少なく、カウンターと四人掛けのテーブルが二つだけ。メニューを見てもジンジャーエールが少し珍しいくらいで、後はコーヒーやミックスジュース、オムライスにハンバーグなどこれまた一般的なものばかり。

「どうだった?」

 同じテーブルにかけた剣谷が聞いてくる。俺はすっかり平らげたカツカレーの皿を見てから慎重に言葉を選ぶ。

「なんというか、料理は美味しいし店内も快適なんだけど……」

「損してるって思った?」

 俺が言えないでいることをズバリ剣谷が口にする。俺はカウンターの様子を窺ってマスターがこちらを見ていないことを確認してから小さく頷いた。

「あはは、別に気にしなくて良いよ。実はここ、俺の叔父さんが経営してる店なんだ。並木の言う通り料理は上手だし内装も華美過ぎず地味過ぎずで丁度良いんだけど、一回だけ試しに生やしてみた蔦が想像以上に繁殖したらしくてね。除去するのにも費用がかかるっていうんでそのままにしてると御覧のあり様」

 俺はなるほどと事情に納得する。そして剣谷が俺とは違うところに行ってしまったわけではないことにも少しだけ安心した。

「そういえば、叔父さんも並木と同じ高校の出身だったんじゃないかな。聞いてみる?」

「いやいいよ。俺、そんな小さい共通点だけで話する自信ないって」

 俺の空いた皿を下げるために奥から出てきた四十がらみのマスターを、俺はそれとなく窺ってみる。今はマスターの他に従業員はいないようだった。もしかするとこの人が一人で切り盛りしているのかもしれない。見ると、口元と顎の部分に髭が生えているが、綺麗に整えられており清潔感があった。無口そうな人ではあったが不愛想な感じはしない。やはり話をするにはハードルが高かったが、どこか目の前にいる人物と似た親しみやすさのようなものを感じたことも確かだった。俺はせめてと皿を下げてもらうついでにメニューを見て気になっていたジンジャーエールを頼むことにした。

 そうして注文してからようやく気が付く。

「しまった。これ良くないよな」

 そう口にすると俺はテーブルの上に不作法にも置かれた、先ほど百円ショップで購入したサイダーのペットボトルを手に取った。そしてそのまま自分のリュックサックの口を開け、中に入れる。リュックサックのサイドにあるポケットに入れようかとも思ったが、やはり見えないようにする方が無難だろう。その拍子に床に落ちてしまわないよう、椅子の上に置いていた百円ショップの袋はテーブルの上に一度上げておいた。

「別に気にしないと思うよ、あの人。そんなタイプでもないし」

「いや、でもやっぱり良くない。仕舞っとくよ」

 俺はもう一度リュックサックと袋を一緒に横の椅子に置く。

 やがて、俺の頼んだジンジャーエールがテーブルに供される。ついでにマスターの顔色も窺ってみたが剣谷の言うように特段気にした様子もないように見えた。俺はほっと息を吐く。

「それにしても、こんなところでお前に会うとは思ってなかったよ」

 俺はジンジャーエールを付属の柄の長いスプーンでぐるぐると混ぜながらそう言った。どうやら自家製らしく、俺の手の動きに合わせて底の沈殿物も一緒になって回った。

「俺もだよ。受験の時以来だから一年と少しかな」

 そう言うと剣谷は目の前に置かれたアイスコーヒーを口にした。思えば剣谷がこうしてブラックコーヒーを好んで飲むようになったのも中学の頃だったはずだ。

「どう? 並木は高校生活楽しんでる?」

「随分と広範な質問だな。まあまあ、それなりに楽しんでるとは思うよ」

 俺は剣谷にそう答える。

「そっか。良かった」

「なんていうか、久しぶりに会った時の俺のばあちゃんみたいな質問するんだな」

「なんだよそれ」

 剣谷はそう言って笑った。思えば当時も二人でこんな何でもない会話をしては笑っていたような気がする。

「俺よりもお前はどうなんだよ。その感じじゃ随分中学のころとは周りの扱いも違ってるんじゃないのか? モテるだろ」

 俺の言葉に、剣谷は照れる様子もなかった。きっと言われ慣れているのだろう。

「正直に言うと、まあ、そこそこね。ただ、みんなから良く言ってもらえるのは嬉しいけど、その分中学の頃みたいに気軽に話しかけられることも減った気がする。この前なんて全然話したこともない女子から告白されて、断ったらその子の友達グループから悪者扱いされたこともあったよ」

「はー、わっかんない世界だわ。すごいな」

 俺は素直に感嘆する。けれどその辺りの、人によっては自慢にも聞こえるような事情を隠すこともなく話すのは、やはり俺相手だからということだろう。羨ましいと思う一方で、少し嬉しいような気もした。

「てことは恋人もいるのか?」

 俺は剣谷にそう尋ねる。

「そっちこそ、俺の母親みたいなこと聞くんだね。……いや、いないよ。それに、今はそういうのはいいかなって」

 剣谷の言い方にはどこか自嘲的な雰囲気が含まれていたような気がした。そう感じはしても、けれどもやはり、俺には一年ぶりに再会した友人の心境を正確に量ることはできそうになかった。そのため、俺はそれ以上踏み込んで聞くことはしなかった。

「そういう並木はどうなんだよ。彼女はできたのか?」

「あー、うん。まあ一応」

 そう言って俺は剣谷の反応を窺う。素直に祝ってくれるか、まあ、茶化すかしてくれるだろう。そう思って顔を上げたが、剣谷の反応はそのどちらでもなかった。

「……並木、本当に彼女できたのか?」

 剣谷はそう言い、どこか訝しげな目を俺に向ける。その目には、俺に彼女なんてできるはずがないという侮蔑的な色はない。それよりも、俺に彼女がいるということが単に信じられないという様子に見えた。

「ど、どういう意味だよ。俺が嘘言ってるって言いたいのか?」

 俺は剣谷の反応に少し動揺してしまう。

「ああ、いやそうじゃなくて。ごめん。別に気を悪くさせるつもりはなかったんだ」

剣谷は自分の反応が場の空気を変えてしまったことを感じ取ったようで、申し訳なさそうにする。そんな剣谷の態度に俺も毒気を抜かれてしまう。

「で、どっちから?」

「え?」

 俺は投げられた問いの意味を図りかね、間の抜けた声を出す。見ると、剣谷はさっきまでとは違い、ニヤニヤとした表情を隠そうともせずに顔に浮かべていた。先ほどの剣谷の雰囲気は何だったのだろうか。しかし、何と言っても……

「どっちから告白して付き合い始めたんだよ」

 こいつ……茶化す気満々だ。

 ただ、俺は知っている。こういう時に変に照れてしまうと、さらに良くない状況を招きかねない。ここは堂々と答えるべきだ。

「一応、向こうから……」

「へえ、やるじゃん。青春って感じだ」

 何なんだその反応は。

「も、もういいだろ。やめようぜ」

「あー、そうだな、じゃあ最後にその彼女の特徴だけ教えてよ。どんな人とか」

「どんなって……」

 俺は少し考える。

「……別に普通だよ。なんていうか……うまく言えないけど、普段はどちらかと言うと友達みたいな感覚なんだけど、ふとした時に『ああ、やっぱり俺はこの人のことが好きなんだ』って思える瞬間があるというか。何考えてるのかわからない時もあるけど、そうと思えば感情がしっかり出る時もあって。そういうところに惹かれ……」

 そこまで言って、俺は尻すぼみに話すのを止めた。もしかすると、俺は相当恥ずかしいことを口にしているのではないだろうか。

 俺は気恥ずかしさから剣谷の方を見ることができず、勢いでテーブルの上に置かれてそのままだったジンジャーエールに口をつけた。すりおろされた香り豊かな生姜と、他にもこれは唐辛子だろうか、程良い辛味が夏のこの時期に気持ちの良い清涼感をもたらしてくれた。俺はこれまでジンジャーエールの実力を些か過小評価していたのかもしれない。そうして、思いがけない美味しさのせいで思わず顔を上げてしまった。そして俺が見た剣谷の表情はきっと想像に難くないだろう。

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