第4話

「あんなに言わなくてもいいのに……」

 不幸にも面倒な教師に捕まってしまった友達のことが気になるようで、潮見の口からは学校を離れてからずっとこんな風な繰り言が続いている。

「髪色も派手すぎるわけじゃないし、スカートももっと短い人なんて何人も見たことある。それなのに千夏ばっかり……」

「まああの先生、前から茅ヶ崎には何かにつけて文句言ってるし、多分、ああいう要領良いタイプの生徒が好きじゃないんだろうな」

 彼女の言うとおり、俺たちの学校は染髪も服装も基本的には当人の裁量に任せられており、良識の範囲内において自由ということになっている。もちろん、毎日の気温や時流や何かに合わせて服装を変えるのが面倒な生徒は制服で登校しても良い。そのため、俺などはほとんど毎日制服で登校している。理由は朝起きて着る服を探しているとよく遅刻しそうになったから。けれど、自由だからといって推奨されているわけでもない。そういう意味では實島の言葉も理解できる部分はあるように思う。何でも明文化すれば良いというわけではないことも、高校生にもなれば少しはわかってくる。俺はあの教師が嫌いではなかった。

「それにしても、こうやってまだ日の高いうちに帰ってるとやっぱり背徳感っていうか、特別感みたいなものがあるよな」

 俺は潮見の隣を歩きながら意識して話頭を転じる。潮見も何も本気で腹を立てているというわけでもなかったらしく、一緒に空を仰ぎ見る。

「うん、確かにそうかも」

 普段も体育の授業やらで日中に外に出る機会自体は多くある。それにこの住宅に囲まれた通学路だって高校入学以来何回も通っており、今更新鮮みなどはない。それでも今、普段と違っているように感じるのは、きっと太陽の位置がいつもの下校時間とは違うためだろう。こんなちょっとしたことで特別感を感じられるのだから、俺はきっと安上がりなのだ。ただひとつ問題は、頭上真上からの遮られることのない陽の光は俺たちに特別感だけでなく、灼熱をも与えているということだろう。校舎から出てまだものの数分しか経っていないというのに、俺の首からは滝にでも打たれたかのように汗が滴っていた。日光浴という言葉があるくらいだから、滝のように降り注ぐ陽の光という意味ではあながち間違ってもいないだろうか。俺はポケットに入れておいたハンカチを取り出し、それを首筋に押し当てて汗を拭う。同じ道の上には俺たちと同じく下校している生徒の姿も多く、同様に暑さに喘いでいる者も何人かいた。ちらと潮見の方を窺うと、ちょうど彼女の首からもつうと汗が伝っていった。顔にこそ出てはいないものの、暑さは感じているのだろう。恋人同士だからとわざわざこんな日に手を繋ぐ必要もないだろう。それともやはり繋いだ方が良いだろうか。そう思い潮見の方を見てみる。ふと彼女の見ている方向が気になった。その視線は俺の右側にある生垣を超えてフェンスの向こうにある校舎の方を向いている。彼女の視線の先を追ってみるが、俺の位置からはやはり生垣に遮られて彼女が何を見ているのかわからなかった。諦めて潮見の方に顔の向きを戻すと、彼女と目が合った。

「ああ、校舎の時計を見てたの。こんな時間に帰れるのも珍しいから午後から何しようかなって」

 よっぽど物問いたげな顔でもしていたのか、彼女は俺が尋ねる前に教えてくれた。

 潮見は俺よりも数センチ背が高い。俺の背が人より特別低いわけでもないから、当然、彼女の背の方が人よりも高いことになる。

「それで、何することにしたんだ?」

「うーん、まだこれといったものは思いつかないかなあ。並木くんは? 今日どうするの?」

 横を歩く潮見は俺の方に顔を向けてそう問いかける。

 彼女の問いかけで思い出したというわけでもないが、俺には今日、予定があった。

「あー、いやまあ、あるにはあるけど……」

 しかし、そのことをこの場で潮見に言うのは躊躇われ、生返事のようになってしまう。そのことを自覚してしまった俺はどうにか話題を変えようとする。

「それより、潮見は夏休みの間はどこか……あ」

 そうして、俺は自分が失敗してしまったことに気が付く。

「悪い。汐帆」

 幸い、彼女に気を悪くした様子は見られなかった。

「ううん。呼びなれないなら並木くんの好きなように呼んでくれれば良いのに。私は苗字で呼ばれても気にしないよ」

 潮見は本当に気にしていないようにそう言った。

「いや、でも……やっぱりいつまでも苗字でっていうのもな。茅ヶ崎もああ言ってたし」

 少し前、茅ヶ崎に彼氏彼女なのにいつまでも苗字呼びだと距離があるように聞こえると注意されたこともあり、俺は二人の時はせめて名前呼びの「汐帆」にしようと試みたものの、それまでずっと苗字呼びだったこともあって、なかなか慣れないでいた。

「それより、どうしたの? 何か聞きたいこと?」

 彼女がそう聞き返してくれる。俺はなんとなくひとつ咳払いをした。

「あー、うん。汐帆は夏休みの予定は決まってるのかなって思って。どっか行くとかさ」

 彼女は少しだけ考える仕草を見せる。

「うーん、一応、予備校の夏期講習に行こうとは思ってるけど、遊びの予定とかはまだ全然」

「……予備校ねえ」

 高校二年の夏休みというこの時期は、早い人間でなくとも準備を始めていておかしくない。茅ヶ崎に聞いた話によると、ついこの間行われた期末試験でも汐帆は相当に高い順位だったらしい。受験を意識してというよりは、真面目な性格の彼女が、俺たち学生に期待されるだけの勉強を順当にこなしたことの結果と言うべきだろうが。対照的に、俺は未だに本腰を入れられずにいた。まだ、焦りは感じていない。

「そういえば、千夏は親戚の伝手で夏休みの間少しだけバイトするんだって。何でもちょっと厳しいところらしくて、そのせいで髪色暗くしないとって言ってた」

「あー、なるほど。それでさっき学校で髪色の話してたのか」

 俺は廊下で向こうからやってくる彼女らが髪色の話をしていたのを思い出す。

「あ、でも、私も夏休みの間中ずっと勉強ってわけでもなくて。千夏みたいにバイトはできないかもしれないけど、やっぱりどこか遊びに行きたいし、それに……」

 そう言うと、汐帆は顔を少し下に向ける。

「並木くんとも、会いたい」

「……そうだな」

 汐帆は俺が頷いたのを見て続けて口にする。

「それでね、八月に入ってからなんだけど、浜の方でやる花火大会、去年は私一緒に行けなかったから……今年は一緒に行けないかなって」

「ああ、そういえば、もうそんな時期だっけか」

 正直に言うと、俺も花火大会があることは知っていたし、今年は汐帆と一緒に行きたいとも考えていた。だから、汐帆が誘っていなければ俺の方から誘っていたとは思うが、何となく恥ずかしさからそのことまでを言ってしまうのは躊躇われた。

「俺は多分大丈夫。茅ヶ崎は……」

 ついさっき、汐帆の口から茅ヶ崎の話を聞いていたため、俺は自然とそう口にしてしまった。そして口にしてから、俺の言葉がどれだけ野暮なものであったかということに思い至る。

「ああ、いや……」

「そうだね、千夏にも聞いとく」

 汐帆はそう言って微かに笑った。

 今日の俺はどうだろう。省みるまでもなく彼氏としての振る舞いができていないはずだった。きっと汐帆も茅ヶ崎と行きたくないなんてわけではないだろうが、彼女としてはだからこそきっと複雑な心境に違いない。けれど、汐帆はその気持ちを表に出すようなこともしない。シャワシャワと煩く鳴く蝉の声が俺を嗤っているような気がした。

 汐帆の顔をちらと窺ってみたが、特に気にした風もなく、そのため、やはり俺が想定したような感情を読み取ることはできなかった。歩きながら視線を前にやると、小さく駅が見えてきていた。やはり今年の夏はどうにも例年より暑いような気がする。ふと、遠くの景色が少し揺らめいているのが見えた。その様子がどこか蠱惑的にも、ひどく陳腐なようにも感じた。

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