七月二十日(木)

第1話

 どこか遠くでサイレンが鳴っている。この音は……救急車だろう、多分。普段それと意識して聴くようなこともないため、本当にそうであるか自分でも意外なほどに自信がない。

 夏は嫌いだ。俺は歩きながら視線を窓の外に移す。自分こそが青だとでも言わんばかりの空と、同様に自分こそが光であり熱だとでも言わんばかりの太陽とが合わさって、見事なまでに暑苦しい夏模様を演出していた。全身の汗腺からじんわりと染みだした汗が直ちに蒸発してはまた染み出してを繰り返しているような気がして、酷く気持ちが悪い。廊下を向こう側からこちら側に向かってくる生徒らはしかし、そんな不快感などは覚えていないように見えた。いや、きっとそんなものに構っている暇などないのだろう。多すぎる荷物の重さに喘ぐ男子や、まるで現実味のない休みの予定を声高に話す女子。対照的に休みがないと嘆く小麦色の肌をした男子もいる。すれ違う彼ら彼女らの顔にはそれでも皆一様にどこか解放的な色が見て取れた。だけど考えてみると、普段は耳に入っても聞いていないサイレンの音や、目に入っていても見てなどいない風景を気にしてしまっている今の自分も、もしかすると彼らと同じく浮かれているのではないだろうか。俺はぐいと首筋の汗を制服の襟元で拭い、窓に向いていた目を意識して廊下へと戻す。すると、ちょうど前方からこちらへ向かってくる生徒らの中に目的の人物の姿があることに気が付いた。どうやら俺が教室へ迎えに行く前に彼女らの教室でも今しがたHRが終わったようだった。しかし、向こうは話に夢中な様子で俺には気付いていないらしい。

「──私も千夏ちなつみたいに染めてみようかな」

「えー、もったいないよ。せっかく綺麗な髪なのに」

 俺から見て右側を歩いているのは黒髪を背中の真ん中くらいまで伸ばした、少し大人びた女子。そしてその左側を歩くのは少しだけ癖のあるミディアムヘアをミルクティーのように明るく染めた、見るからに快活そうな女子。こうして遠くから見るとわかりやすいが、黒髪の女子は廊下を歩く他の男子生徒と比べてもだいたい半分くらいの生徒よりもなお背が高く、ミディアムヘアの女子は他の女子生徒と比べてもだいたい半分くらいの生徒よりもなお背が低い。そのため、二人が並ぶと身長と髪色のコントラストのためにかなり目立つ。そんな彼女らが俺に気が付くよりも先に、俺が彼女らの姿に気が付く方が早いというのは当然でもあった。そんなことを考えていると、二人も俺の姿を認めたようで、片方がパタパタとリノリウムの廊下に上履きの音を響かせ近づいてくる。

並木なみきはどう思う?」

 明るい髪が跳ねる。

「……何が?」

 本当は話の内容は耳に入っていたが、つい聞こえていなかったふりをしてしまう。そのことに気付いた風もなく、彼女は先ほどの話を繰り返す。

「いや明日から夏休みなわけじゃん? だから汐帆しほが髪染めようかなって言ってるんだけど、彼氏としてはどう思うのかなって。私的には綺麗な黒髪だから染めるのもったいないって思うんだけど」

 この学校の校則はこの辺りの地域の他の高校のものと比較しても緩い方らしい。一応、入学に際し指定の制服一式は買わされるものの、入学式や今日みたいに終業式なんかがある特別な日以外は基本的に自由だし、染髪に関しても目の前の女子生徒の髪色を見てわかる通り、かなり明るく染めても構わないことになっている。だから、今俺たちのところに来た彼女がその長い黒髪を明日から金髪にしようがビビッドピンクにしようが校則的にはなんら問題はないわけだ。まあ、急にそんな髪色になれば先生たちから事情を聞かれるということはあるかもしれないが。

 俺は彼女、潮見しおみ汐帆の方に目をやり、その長い黒髪が様々に色を変えていく様子を思い浮かべてみる。想像してみた姿はどれも今まで彼女から受けた印象とは異なるものだったが、それでもどの髪色も彼女に似合わないというものではなかった。ただ、今まさにそうであるように、彼女は上背があることに加え表情が少し顔に出にくい。そのことを考えると、極度に明るい色にしてしまうことで彼女の意図しないところで威圧感を与えることになるかもしれないとも思う。いや、何ならそれはそれで見てみたい気もする。要するに、彼女の好きな髪色にすれば、それは新たな彼女らしさとして俺の中で自然に受け入れられそうに思えた。

 俺は頭の中で考えたことをそのまま伝える。

「まあ、好きなようにすればいいんじゃないか」

 俺がそういうと、目の前の女子、茅ヶ崎ちがさき千夏の表情からは先ほどまでの快活とした表情はすっと消え、そしてついにはため息まで吐いた。

「な、なんだよ」

 どうしてそんな態度を取られるのかがわからず、俺は抗議の言葉を口にする。俺に問いかけた本人は「こんなやつだよね、並木って」と、理由を説明してくれそうにない。件の潮見の方に目をやっても少し困ったような表情で微笑むだけで、その心境を細かく窺い知ることはできなかった。

 未だ状況を捉えきれない俺の様子を見て、茅ヶ崎はそれまでの大げさな渋面を崩し、すぐに元の気安い表情へと戻る。

「まあいいや。せっかく今日午前中までなんだし、早く帰ろうよ。やっぱちょっとでも夏休みは多い方が良いしね」

 すぐに帰ると夏休みが長くなるとは初めて知った。しかしなるほど、気分的にはそんな気もするかもしれない。それに、個人的にも茅ヶ崎の提案には賛成だった。今日は少し寄りたい所があった。

 俺も潮見も首肯で彼女の提案に応えると、三人の足は俺の来た方向、階段の方へと向かい始める。俺はいつも三人で歩く時にするように、最初だけ歩調を緩めて前方に女子二人、後方に俺一人という立ち位置を作る。お互いに話す頻度が高い女子二人は横並びになって、たまに俺にも話かける。俺はその女子二人と歩いていても横目で見られることのない位置を歩く。ただでさえ人目を引く二人との一年以上の付き合いの中で、誰が言い出すともなく自然と出来上がった構図だった。

 俺たちが完璧な陣形を取って階段を降りていると、すれ違った何人かの男子から横目をいただいたような気がした。

 念のため、前を歩く彼女らとの距離をもう階段一段分多く空けることにした。

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