第21話「氷解の時」
深夜のバーカウンター。グラスの中で氷が静かに溶けていく音が、時の流れを刻んでいた。カウンターに並ぶボトルの列が、幾度となく磨き上げられた木目の上で、琥珀色の光を投げかけている。窓の外は暗い。新月を目前に控えた夜空は、まるで記憶の底のように漆黒だ。
目の前には一人の中年サラリーマン。白髪交じりの彼の表情には、どこか見覚えがある影が漂っていた。それもそのはず、彼は最近よく来る常連客だ。いつもは仕事の愚痴を零すだけで帰るのに、今夜は何か様子が違う。グラスを見つめる目が、氷の溶ける速さを気にするでもなく、ただ虚ろに遠くを見ている。
「もう、どうしたらいいか分からなくて...」
グラスを傾けながら零した言葉に、何かが引っかかる。氷のように冷たい記憶が、ゆっくりと溶けていくような感覚。2年前、金融アドバイザーとして働いていた頃。人々の未来を、お金という物差しで測っていた頃の話だ。
この数日間の出来事を、バーボンのように口の中で転がしているうちに、様々な味が混ざり合ってくる。藤堂の試合。カレー屋の謎。マヤの暗号。そして今、目の前のこの人の悩み。不思議なものだな。人生というカクテルには、時々思いもよらない材料が紛れ込んでくる。
「実は...先週、投資セミナーに参加してしまって...」
その言葉に、俺の手が一瞬止まる。カウンターを拭く動作が、まるでスロー再生のように緩やかになる。心の奥底で、氷のような冷たい記憶が、ゆっくりと形を変え始める。
思い出すのは、ある老夫婦との出会いだった。2年前、金融会社に入って間もない頃。新人ながら心理学を学んだ経験を買われ、重要な案件を任されていた時のことだ。
「具体的には、どんな投資プログラムなんですか?」
俺は尋ねながら、新しいグラスにウイスキーを注ぐ。氷が静かにグラスの底に沈んでいく様子が、あの日の記憶と重なる。
「その、何というか...まず性格診断があって」中年サラリーマンは少し躊躇いながら続ける。「自分の隠れた才能を分析するんです。投資に向いている素質とか...それを見極めた上で、個人に合わせた投資プランを...」
心の中で、氷が大きく軋むような音がする。性格診断。才能分析。その言葉に、息苦しさを覚える。グラスの中の氷がゆっくりと溶けていくように、2年前の記憶が、その輪郭をくっきりと現し始めた。
≪ 2年前、某金融会社の会議室 ≫
「この案件は君に任せよう」
上司は笑っていた。その笑顔には、不自然なまでの親しみやすさがあった。新人の俺に、こんな大きな案件を任せる理由なんて、きっとあるはずだ。机の上には顧客情報が詰まった分厚いファイルが広げられていた。
「心配するな。顧客の気持ちを読み取る力は、君の武器になる」
心理学を学んだ経験を買われての抜擢。そう思っていた。蛍光灯の無機質な光の下、上司は次々とページをめくっていく。
「このお客様、かなり慎重な性格でね。老後の資金を投資に回すことに不安を感じている。でも、孫の教育費のことを考えると、何かしなければいけないとも思っている。そこで君の出番なんだ」
様々な心理テストの結果が、ファイルの中で不気味に踊っていた。性格診断。行動分析。家族構成。趣味嗜好。心の中のモヤモヤを数値化したような、冷たいデータの数々。
「人は誰でも、認められたいという欲求を持っている。特に、こういう慎重な性格の人は、自分の決断に自信が持てない。だからこそ、『あなたには才能がある』という言葉が効く。『孫思いのおじいちゃんは、きっと正しい決断ができる』って」
上司の説明は続く。声のトーンの使い方。表情の作り方。相手の反応に応じた間の取り方。まるで、人の心を手玉に取るための教科書のように。
そして翌日、高級感のある応接室で、実際に老夫婦と向き合うことになった。
重厚な木材を贅沢に使った応接室。柔らかな間接照明が、高価な革張りのソファを優しく照らしている。壁には、信頼性を演出するための賞状や認定証が並ぶ。こういった演出一つ一つにも、人の心を動かすための計算が働いているんだと、今なら分かる。
「お孫さんのことを、本当にお考えなんですね」
応接室の柔らかな照明の下で、俺は老夫婦に優しく微笑みかけた。おじいさんの手が、ソファの革を握りしめている。これまでの人生で必死に貯めてきた老後資金。その一部を、リスクの高い投資に回そうとしている。
「ええ、あの子たちの将来を思うと...」
おばあさんの声が震える。その瞬間、俺は気付いてしまった。彼らの弱み。孫への愛情という、誰にも否定できない感情。それを利用すれば...。
上司の言葉が頭をよぎる。「人の心の裏側が見えるはずだ。その知識を、ビジネスに活かすんだ」
「実は、あなた方のような方に最適な商品がございまして」
自分の声が、どこか他人のように聞こえた。心理学で学んだ技法を使いながら、俺は話を進めていく。相手の表情や仕草を読み取り、最適なタイミングで、最適な言葉を。まるで、人の心という楽器を、巧みに奏でるように。
窓から差し込む夕暮れの光が、応接室の高級な調度品に反射して、不思議な影を作る。その光の中で、おじいさんの表情が、どこか弱々しく見えた。
「この投資なら、お二人の判断力なら、きっと成功できます」
その言葉を口にした瞬間、おじいさんの目が希望に輝いた。でも、その光は...。
「本当に、大丈夫でしょうか...」
おばあさんが不安そうに夫の顔を見る。その表情に、俺の心の中で何かが大きく揺れた。目の前にいるのは、ただの案件じゃない。これまでの人生をかけて築いてきた資産と、孫への深い愛情を持つ、一組の老夫婦だ。
「当然、リスクもございます」
その言葉を発した時、応接室の外で待機していた上司の表情が曇るのが見えた。でも、もう止められなかった。
「最悪の場合、資金の大半を失う可能性もあります。お孫さんの為を思うお気持ちは分かります。でも、それは必ずしも投資という形を取る必要はないのかもしれません」
重厚な応接室の空気が凍りついた。上司の目が、氷のように冷たくなる。でも、老夫婦の表情が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
その日の夜遅く、会社に残っていた俺は、自分のデスクに向かってため息をついていた。窓の外は雨。滴が窓ガラスを伝う様子が、やけに寂しく見えた。
「君の判断は間違っていた」
背後から聞こえた上司の声に、俺は振り返る。
「心理学を学んだ経験は、もっと効果的に使えたはずだ」
上司の声には失望が滲んでいた。雨の音が、その言葉の重みを更に増幅させる。
「お客様の不安を取り除くどころか、逆に助長してしまった。これでは、君の才能を台無しにしているようなものだ」
才能。その言葉に、心の中で何かが捩れる音がした。本当に、これが才能なのか。人の弱みを見抜き、それを利用すること。心理学は、そんなものだったのか。
「次の案件からは...」
「辞めさせていただきます」
思わず口から零れた言葉に、自分でも驚いた。でも、その瞬間、不思議なほど心が軽くなる。まるで、長年背負っていた重荷から解放されたように。
「...君には期待していたんだがな」
上司の溜め息が、雨音に溶けていく。
それから数週間、俺は必死に次の仕事を探した。でも、どれも心に響かない。そんなある夜、傘も差さずに歩いていると、小さなバーの明かりが目に入った。
迷った末、ドアを開ける。温かな光と、ウイスキーの香りが、雨に濡れた体を包み込む。カウンターに座ると、白いタオルが差し出された。
「どうしたいんだい君、ずいぶん悩みを抱え込んでるみたいだね」
カウンターの向こうの年配のバーテンダーが、そう声をかけてきた。白髪交じりの髪、深いシワの刻まれた顔。でも、その目は不思議なほど優しく、温かい。
「人の心を理解する力は、諸刃の剣さ」
グラスを磨きながら、彼は静かに語り続けた。
「その力で人を傷つけることもできるし、救うこともできる。大切なのは、その力をどう使うかってことだよ」
彼の仕草には、無駄が一つもない。グラスを拭く動作、氷を入れる角度、客の表情を窺う視線。全てが、長年の経験に裏打ちされている。
「バーテンダーは、時には黙って人の話を聞く。時には、その人の心の氷を溶かす。でも決して、その人の人生を壊すようなことはしない」
その言葉が、心に染みた。目の前のグラスに映る自分の顔が、少しずつ輪郭を取り戻していくような気がした。
― ― ―
記憶が現在に戻る。目の前の中年サラリーマンが、まだ迷いの表情を浮かべている。時計は午前1時半を指していた。
「特別な才能があるって言われると...なんていうか、嬉しくもあり、怖くもあり」
彼の言葉に、どこか切実なものが混じる。皆、何かに縋りたいのかもしれない。特別な才能という幻想に。人を見抜く目があるという誇りに。あの老夫婦のように、何かを信じたいという気持ちに。
「考えてみれば、私...焦ってたのかもしれませんね」グラスを見つめながら、彼は続ける。「このところずっと、将来への不安で押しつぶされそうで。そんな時に、こんな話が舞い込んできて...」
氷の溶ける音だけが、静かにカウンターに響く。不思議なものだな、と俺は思う。2年前、金融会社を辞めた時は、こんな形で巡り会うことになるとは思わなかった。人の弱みにつけ込むことに嫌気が差して飛び出した会社。そして今、カウンターの向こう側で、誰かの弱みにつけ込まれそうになっている人の話を聞いている。
あの夜、雨に打たれながら偶然入ったバーで、年配のバーテンダーが教えてくれた言葉。「人の心を理解する力は、諸刃の剣さ」。その意味が、今ならもっとよく分かる。
「上手い話すぎるんですよね、きっと」彼は自嘲気味に笑う。「たった25万円のプレミアム会員になれば、その後の数百万円の投資の成功率が上がるなんて...そんな簡単なはずないのに」
その言葉を聞きながら、俺は考える。金融会社を辞めた後、色々な仕事を探した。面接に行っては落ち、希望を持っては失い。そんな日々の中で、あのバーに迷い込んだ。濡れた服のまま、カウンターに座った。するとバーテンダーは、何も聞かずにタオルを差し出し、温かいウイスキーを用意してくれた。
「お客様の心に寄り添うことと、お客様の弱みにつけ込むことは、全く違うんだよ」
彼はそう言って、グラスを磨き続けた。その姿が、今でも鮮明に思い出せる。白いタオルで丁寧にグラスを拭う手の動き。温かな琥珀色の光を放つボトルたち。そして、誰かの心の傷を優しく包み込むような、柔らかな空気。
「そうですね」俺は静かに頷く。「焦る必要はないかもしれません」
言葉を交わしながら、妙な因果を感じる。心理学を学び、それを金融の世界で悪用しそうになり、逃げ出した。そして今、人の心に寄り添う仕事に就いている。まるで、人生という名のバーテンダーが、絶妙なバランスでカクテルを作るように、この巡り合わせを用意したかのような。
俺の言葉に、彼の肩から力が抜けていくのが分かる。時には、こうして誰かの気づきを見守ることも、バーテンダーの仕事なのかもしれない。そう、かつての上司とは違う形で、人の心を理解する力を使うことも、きっと可能なはずだ。
「お時間です」俺は客に声をかける。「また来週にでも」
「ええ、ありがとうございました」
彼は会計を済ませ、深々と頭を下げて去っていく。その背中には、来る前より少し迷いが減ったように見えた。今夜は、誰かの人生の歯車が、ほんの少しだけ良い方向に回り始めた気がする。
店のスタッフが最後の客たちを見送る中、俺は午前2時からの閉店作業に入る。グラスを洗い、ボトルを整理し、床を掃きながら、今夜のことを整理していた。投資セミナー。性格診断。才能という餌。すべてが巧妙に組み立てられている。誰かに教わったような、そんな手際の良さ。
カウンターを拭きながら、あの老夫婦のことを思い出す。あの時、正しい判断ができたのは、純粋な偶然だったのかもしれない。でも、その経験が今の自分を作っている。人の心を理解する力を、誰かを救うために使うという選択を。
スマートフォンが震える。マリカーからのLINEだ。
「おい、寝れなくて竜太郎の試合動画、何回も見返してたんだが」
「人の動きを読むって、すげえよな」
「でも、その力の使い方って難しいと思わないか?」
バーカウンターを磨きながら、返信する。グラスに映る自分の顔が、かすかに笑みを浮かべている。
「ああ。相手を倒すためか、高め合うためか」
「諸刃の剣だな」
マリカーの返信は早かった。
「お前、何か気づいたのか?」
「いや...ただちょっと考えてたんだ」
「人を理解するための力が、人を騙すために使われることもある」
「今夜、そんなことを考えてた」
「お前らしいな」という返事が返ってくる。
「竜太郎が言ってたよ。相手の動きを読むのは、倒すためじゃなくて、理解するためなんだって」
その言葉に、何かが引っかかる。床を磨きながら、俺は考える。理解するため。そうか、そういうことか。かつての金融会社。今のバーテンダーという仕事。そして、この街で起きている出来事。すべては、何かを理解するための手がかりなのかもしれない。
カウンターに立つ場所を変えると、ボトルに反射する光も変わる。見る角度で、同じものが違って見える。人生も、きっとそうなんだろう。あの時、雨に打たれながら入ったバーで、年配のバーテンダーが見せてくれた景色。今、俺が客に見せている景色。そして、この街のどこかで、誰かが見せている別の景色。
最後の拭き掃除を終えながら、あのバーテンダーの言葉を思い出す。
「このカウンターは、人生の交差点なんだよ。迷った人が立ち寄って、また歩き出すための場所」
その時は、まだ理解できなかった言葉の意味が、今では染みるように分かる。先ほどの中年サラリーマンも、あの老夫婦も、そして金融会社を辞めた時の俺も。みんな、人生の岐路に立っていた。そこで誰を信じ、何を選ぶのか。その選択が、その後の人生を大きく変えていく。
外に出ると、星一つ見えない夜空が広がっていた。新月を前に、闇は最も深い。こんな夜は、普段は見えないものが見えてくることもある。
パンフレットをポケットに入れながら、その不思議な因果を考える。人の心を読む力。それは武器にも、毒にも、そして解毒剤にもなる。そして今、俺はその力を、真実を見抜くために使おうとしている。
カエデのこと、マヤの占いの館のこと、そしてカレー屋のこと。全ては何かのパターンを持っている。その確信が、今の俺の中で静かに輝いていた。まるで、暗闇に浮かぶ後光のように。
雨上がりの夜、一軒のバーに迷い込んで人生が変わった。今、また新しい変化が始まろうとしている。それが何を意味するのか、まだ分からない。でも、きっと意味があるはずだ。このバーに立ち、人の心に寄り添うことを選んだように、次の選択も、必ず正しい方向に導いてくれるはずだ。
そして、この夜を境に、事態は思いもよらない方向へと動き出すことになる。それは、誰も予想だにしなかった展開の始まりだった。
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