第20話「プロの戦い」
真夜中のバーでの勤務を終え、普段なら深い眠りの中にいるはずの時間帯だ。しかし今日は違う。スマートフォンの画面から放たれるブルーライトに目を細めながら、俺は届いたメッセージを読み返していた。時計は午後2時を指している。窓の外では、秋の陽光が街並みを優しく包み込んでいるというのに、俺の身体は未だ夜の感覚のままだ。
マリカーから送られてきたグループLINEのメッセージ。そこには既に30人近い見覚えのある名前、そして見知らぬ名前が並んでいる。まるで、知っている世界と知らない世界の境界線のように。
「NaSCA IMPACT、通称ナスカのチケット、みんなで取ろうぜ!RS席、8000円だけど、プロデビュー戦観れるなら安いもんだよな!」
そのメッセージには、NaSCA IMPACT(Nagoya Sport Combat Association)の大会ポスターの画像が添付されていた。格闘技。その言葉は俺の中で、どこか遠い異世界の出来事のように感じられる。バーのカウンターの向こうで、カクテルを作りながら音楽を聴く。それが俺の日常だ。リングの上で闘うなんて、まるで別の惑星の出来事のようなものだ。
「これ見てみろよ。すげえから」
マリカーが送ってきたYouTubeのリンク。チャンネル登録者数はわずか50人ほど。アマチュアが作ったとしか思えない素人っぽい編集。画面の中で、一見すると新卒のサラリーマンにしか見えない男性が、真摯な表情で試合の分析をしていた。
「ここでの相手の動きには、明確なパターンが見られます。それを読み切ることができれば...」
その声は落ち着いていて、分析は驚くほど論理的だった。まるで、チェスの名手が次の一手を読むように、格闘の駆け引きを解説している。デスメタルのプレイリストを流しながら見ていたはずが、いつの間にか音楽を止めて、その声に聞き入っていた自分に気づく。
「やれやれ」俺は溜息をつきながら、「RS席、確保頼むよ」とグループLINEに返信を送った。するとすぐに、ピザニキからのリプライが届く。
「僕もお願いします! キモオタ代表として応援させていただきます! でも8000円...来月のフィギュア代が...(泣)」
画面越しに、あの巨漢の姿が目に浮かぶ。相変わらずの自虐ネタに、思わず口元が緩む。よく見ると、マリカーの知人たちが次々とチケットを予約したいとメッセージを送っている。知らない名前の中にも、確かな連帯感のようなものを感じた。
「仕事前の時間に、ちょっと詳しく聞かせてくれないか」
そうメッセージを送ると、マリカーから「じゃあ、いつものとこで」と返信が来た。いつもの店。出勤までまだ時間はある。眠気を振り払うように顔を洗い、俺は待ち合わせの場所へと向かった。
馴染みの喫茶店で、マリカーは既に来ていた。コーヒーを前に、スマートフォンを眺めている。
「藤堂選手とはどんな関係なんだ?」と俺が尋ねると、マリカーは懐かしそうに笑った。
「ああ、竜太郎な。小学生の頃からの付き合いなんだ。同じ空手道場でな。後輩だけど、当時から型がきれいで頭の切れる奴だった。俺が高校で空手やめた後も、あいつは続けてて...」マリカーは少し言葉を区切り、「いや、当日は藤堂選手って呼ばないとな」と笑う。「最近総合格闘技に転向したって聞いた時は驚いたよ。でも、あいつなら絶対面白い戦いを見せてくれると思ってさ。放っておけなくなったんだ」
「なるほど、それで応援したくてみんなに呼び掛けたわけか」とユキトが返す。
しばし沈黙した後にマリカーが口を開き、「ユキト、例の暗号の件で思い詰めてんじゃねえか?」
突然の言葉に、俺は思わず目を見開いた。
「まあ...な」
「だから、あいつの試合を見てほしいんだ」マリカーはカップを置きながら続けた。「藤堂のことは、俺が知る限り、お前に一番似てるタイプなんだよ。物事の考え方とか、分析の仕方とか」
「格闘家が、俺に似てる?」思わず苦笑が漏れる。「全然イメージできないんだが…」
「いや、マジでそうなんだ」マリカーは真剣な表情で言った。「直感じゃなくて、いつも論理的に考えて、それでいて心に熱いものを持ってる。なんていうか...純粋に真実を追い求めるっていうか。お前が今、暗号に執着してる、その姿勢にも通じるものがあんだよ」
俺は黙ってコーヒーを飲んだ。格闘家に似ている、か。何だか妙な気分だ。
そんなやり取りから数日後。名古屋のとあるホールの前に立っていた。
時折、頭の中で例の暗号文が反復される。まだ半分しか解読できていない文字列。満月の日の正午という日時は、何を示唆しているのだろうか。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。会場の空気が、俺の意識を現実に引き戻す。
「ほら、ここが俺たちの席」マリカーがRS席へと案内する。「一番前のSRS席はちょっと高えしな。でもここなら試合の様子はバッチリ見えるぜ」
会場内は既に熱気に包まれていた。マリカーが集めた30人の応援団は、RS席の一角を占領している。見ず知らずの観客たちが、時折興味深そうな視線を向けてくる。これほどの人数で一般の試合を応援に来るのは、珍しいのだろうか。
「金網?」俺は思わず声を上げてしまった。
「ああ、この大会はケージの中で戦うんだ」マリカーが説明を始める。「八角形の金網で囲まれた場所でな。リングロープがないから、壁際での攻防も重要になってくる。まさに終わるまで逃げ場のない戦いって感じだ」
「ねえねえ、ユキトさん」後ろから聞こえてきた声に振り返ると、そこにはピザニキの巨体があった。相変わらずの「I LOVE ERROR」Tシャツは、彼の体型のせいで文字が歪んでいる。デバッグが大好きなプログラマーらしい服装だ。
「実は格闘技の試合って生で見るの初めてなんです」ピザニキが心配そうに言う。「暴力とか苦手なのに...でも、彼のYouTubeチャンネル見てたら、なんか応援したくなっちゃって。あと格闘技って、プログラミングと似てるんですよ。パターンを読んで、最適解を導き出すところとか。まるでアルゴリズムを組み立てるみたいじゃないですか?」
その言葉に、俺は思わず立ち止まった。確かに、あの動画での試合分析は、データベースの中から最適な解を導き出すような、そんな緻密さがあった。格闘技という、一見すると最も原始的なスポーツが、実は高度な頭脳戦だというのか。
試合開始を待つ間、場内アナウンスが響く。「それではオープニングマッチ第1試合。赤コーナー、高校3年生...」
俺の目が広がった。高校生?しかし、ケージの中に入ってきた二人の肉体は、とても高校生とは思えないほどに鍛え上げられていた。
「この二人、それぞれ別のアマチュア団体でトーナメント優勝した強者同士なんだ」マリカーが解説する。「今日の試合、本戦の前哨戦として注目されてるんだよ」
ゴングが鳴る。その瞬間から、ケージ内で繰り広げられる激しい攻防に、俺は言葉を失った。パンチとキックが空気を切り裂く。フェイントと実打の緻密な駆け引き。これが高校生の試合なのか。格闘技への認識が、一瞬にして覆された。
「うう...」ピザニキが体を縮こまらせる。「あんな強烈なローキックを食らったら、僕なんてHPゼロ即デスですよ!最終ボスの即死攻撃みたいじゃないですか!脂肪ニキならぬ死亡ニキですよ」ピザニキは両手で自身の巨大な腹を抱えながら、「シボウ(脂肪)」と「シボウ(死亡)」の違いを、まるでゲームの実況解説でもするかのように大げさなジェスチャーで表現してみせる。その姿に、周囲から笑いが起きた。
「お前、そもそも足が見えてないだろ」とマリカーが突っ込むと、その的確なツッコミに席が揺れるほどの爆笑が巻き起こった。
「酷い! でも僕、こんな体型だからスタミナだけはあるんですよ!」ピザニキが得意げに胸を張る。「48時間ぶっ続けでゲームやってた時も...」
「それ自慢にならねえから」
マリカーの言葉に、俺も思わず吹き出してしまった。しかし、そんな和やかな空気も、次の激しい打ち合いの音で一気に緊張に変わる。まだ高校生とは思えない、ハイレベルな戦いが繰り広げられていた。
若手選手たちの前哨戦が続く中、時間が過ぎていく。その度に会場は歓声に包まれ、格闘技の持つ独特の緊張感と興奮を、俺は徐々に理解し始めていた。これは単なる暴力的なスポーツではない。そこには確かな技術と知性が必要とされているのだ。
拳と拳が交錯する音。マットに落ちる汗。呼吸が混ざり合う瞬間。観客の息を呑む静寂と、爆発する歓声。今まで無縁だと思っていた世界が、こんなにも鮮やかに、こんなにも生々しく、俺の目の前で息づいている。
「次の試合は...」場内アナウンスが流れ、ついに藤堂の試合の時が来た。照明が落とされ、突如として重厚なギターリフが会場に響き渡る。
「まさか...これって」
俺の言葉に、マリカーが楽しそうに頷いた。
「ああ、デスメタルだ。お前が応援するにはピッタリだろ」
まさか自分が、格闘技の試合でこんなにも胸を躍らせる日が来るとは。しかも藤堂選手の入場曲がデスメタルとは。いつもライブで感じる以上の高揚感が、この異質な空間で不思議なほど自然に響いてくる。
金網のドアが開かれ、藤堂がケージの中へと入っていく。彼の姿は、動画で見たサラリーマンの印象とは明らかに違っていた。しかし、その眼差しは同じだった。冷静に状況を読み、相手の動きを分析し、そして的確に対応する準備が整っているのが分かる。対戦相手がケージに入り、レフェリーから選手への規定の説明が始まる。
その時、マリカーが静かに言った。「あいつ、本当によく考えて戦うんだ。見てろよ」
ケージの中で、二人のファイターが向かい合う。その緊張感は、まるで複雑なカクテルの材料を混ぜ合わせる瞬間のようだ。一つでも配分を間違えれば、全てが台無しになってしまう。金網に囲まれた空間で、そんな繊細な均衡が、今、目の前で保たれていた。
会場の窓からは、まだ明るい秋の陽光が差し込んでいる。数時間後には細い月が昇ってくるはずだが、今はその時を待つように、白い蛍光灯だけがケージを照らしていた。
ついにゴングが鳴り響く。第1ラウンドの開始だ。
両者が距離を測り合う。まるで、見えない糸で互いを探り合うかのような緊張感。対戦相手が徐々に間合いを詰めていく。相手の方が若干体格で上回っているように見える。しかし、藤堂の表情は変わらない。
相手の最初の攻撃は、鋭い右ストレート。しかし、藤堂はそれを予測していたかのように、わずかにずらして避け、すかさずカウンターの左を入れる。会場から歓声が上がる。
「見た?」マリカーの声に、自然と頷いていた。「あいつ、相手の癖を動画で研究してたんだ。最初の攻撃がストレートになるって」
なるほど。YouTubeでの分析は、決して見せかけだけのものではなかったのだ。
第1ラウンドは、そのまま藤堂のペースで終了。しかし第2ラウンド、状況は一変する。
対戦相手が猛然と攻め込んでくる。パンチとキックの連打。そして、ついに組みつかれ、テイクダウンを奪われた。会場がどよめく。マリカーの応援団からも、思わず悲鳴に似た声が上がる。
「まずい...」ピザニキが震える声で呟く。「これは...」
しかし、藤堂の表情は微動だにしない。むしろ、この展開を予測していたかのような冷静さだ。地上での攻防が続く中、彼は徐々に体勢を整えていく。相手の腕を巧みにコントロールしながら、少しずつだが確実に。そして...。
「返した!」マリカーの声が響く。見事な受け身からの脱出。立ち技の応酬に戻った時、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
その瞬間、俺は理解した。なぜ彼がプロの世界を目指したのか。なぜマリカーがこれほどの人数を集めたのか。目の前で起きているのは、単なる格闘技の試合ではない。これは、一人の男の人生を賭けた物語なのだ。
第3ラウンド。両者ともに疲労の色が見える。しかし、藤堂の目は以前にも増して冴えわたっているように見えた。
汗が宙を舞い、ライトに照らされて輝く。息遣いが会場に響く。誰もが息を呑む瞬間だ。
相手が最後の力を振り絞って仕掛けてくる。パンチの連打、キック、そしてテイクダウンの狙い。しかし、藤堂はそのすべてを読み切っていた。まるでチェスのエンドゲームのように、次の一手、その先の一手まで。
「あいつ...」マリカーの声が聞こえる。「最後まで冷静に読み続けてる...」
そうだ。これこそが彼の戦い方なのだ。感情に流されず、論理的に、冷静に。それでいて、その奥底には熱い想いを秘めている。矛盾しているようで、しかし、それこそが真の強さなのかもしれない。
残り30秒。会場全体が立ち上がっている。マリカーの集めた応援団も、もはや座っているものは誰もいない。ピザニキは涙を流しながら声を張り上げ、普段は冷静なはずの俺も、気づけば大声で叫んでいた。
「行けーっ!」
最後の交錯。互いの技が空を切る。しかし藤堂は崩れない。完璧な距離感で相手をコントロールし、確実にポイントを重ねていく。
そしてついに、最後のゴング。
会場が静まり返る。ジャッジの採点を待つ緊張の時間。長い沈黙の後、アナウンスが響き渡る。
「判定3-0で...」
勝利の瞬間、会場は轟然たる歓声に包まれた。ピザニキは号泣し、マリカーは拳を突き上げている。そして俺は...気づけば目頭が熱くなっていた。
藤堂の戦いぶりは、俺がカクテルを作る時の工程に似ていた。材料の選択、配分、タイミング。全てが計算され尽くされていながら、どこか芸術的な美しさがある。ただし、俺の場合は失敗しても作り直せるが、ケージの中では一瞬の判断ミスが全てを台無しにしてしまう。その違いに、改めて身の引き締まる思いがした。
ケージ中央で、藤堂の腕が上げられる。インタビューマイクを向けられた彼は、汗を拭いながらもハッキリとした口調で語り始めた。
「このチャンスを掴むまで、長い道のりでした」
その声は、少し震えているようにも聞こえた。
「でも、一人では絶対ここまで来れなかった。ジムの仲間たち、スパーリングパートナーの皆、トレーナーの方々...この競技は決して個人戦ではないんです。練習でぶつかり合い、時には厳しい言葉を交わし、でも最後は必ず励まし合う。その信頼関係があったからこそ、今日の勝利がある。諦めなければ必ず道は開ける。それを証明できたのは、皆のおかげです」
会場は大きな拍手に包まれ、最前列にいたジムの仲間たちは目に涙を浮かべていた。その言葉に、技術だけでなく、人としての深さを感じずにはいられなかった。
隣でピザニキが号泣している。「感動した〜! 格闘技ってこんなに素晴らしいんですね!」
顔中涙だらけで叫ぶその姿に、普段なら何かツッコミを入れたくなるところだ。でも今は、その気持ちが痛いほど分かる。
試合後、近くの居酒屋「太平門」に場所を移した。40人もの人数を収容できる大広間は、既に熱気と歓声で満ちていた。5、6つのテーブルに分かれて座る中、ピザニキと同じテーブルについた俺たちの元に、藤堂が挨拶に来た。
「ケイタ先輩、今日は本当にありがとうございます」藤堂が深々と頭を下げる。マリカーは照れくさそうに「竜太郎...いや、藤堂選手、プロになったんだから、今日くらいは格好つけとかないとな」と言って、周囲から笑いが起こった。
藤堂は苦笑して「いいじゃないですか。ケイタ先輩はケイタ先輩ですよ。それに、今日はプロとして勝てたのも、子供の頃から教えてもらった基礎があったからです」
「素晴らしい試合でした」と俺は率直な感想を伝えた。「あそこまで冷静に戦えるのは見事でしたよ」
「ありがとうございます」藤堂は照れくさそうに笑った。
「そういえば、入場曲のデスメタル...」と俺が切り出すと、藤堂の目が輝いた。
「ケイタ先輩から聞いてました、デスメタル好きな方がいらっしゃると。あなたがユキトさんですね。実は僕、空手の練習中もよく聴いてたんです。あの重厚なリフが、技の強さと正確さを高めてくれるような...」
会話が進むうちに、彼が心理学にも造詣が深いことが分かってきた。「実は、打撃の選択における意思決定プロセスについて、認知心理学的なアプローチで研究してるんです」
その言葉に俺は思わず身を乗り出した。「心理学...ですか?」
「はい。相手の行動パターンを読む時、人間の意思決定にはある種のバイアスが働くんです。それを理解することで、より効果的な戦略を立てることができる。実は空手から総合格闘技に転向したのも、そういった心理学的アプローチをより実践的に試してみたかったからで...」
その瞬間、俺は彼の眼差しの奥に、ただの格闘家ではない、もっと深い何かを見た気がした。
「終電の時間なので」と席を立つ時、俺の頭の中では既に決心が固まっていた。スマートフォンを取り出し、例の動画を開く。「登録」のボタンに指が触れると、その数値は126となった。
「格闘技に興味を持つとは」俺は自嘲気味に笑った。「人生って、本当に予想できないものだな」
窓の外では、夜の街が静かに息づいていた。細い月が、まるでかすかな希望の光のように、暗い空に浮かんでいる。頭の片隅で、まだ解読できていない暗号文の残りの部分が気になっている。しかし今は、目の前で見た確かな強さと、それを生み出した冷静な判断力のことで胸が一杯だった。
あの暗号が示す謎も、きっと解き明かせる。焦る必要はない。大切なのは、正しいタイミングを見極めることなのだから。
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