第15話「月光の下で」

十六夜月が街を照らす金曜の夜。形はわずかに欠けているものの、その光は依然として強く、世界を銀色の輝きで包み込んでいた。バーでの仕事を終え、俺は早足で「スパイス・オラクル」に向かう。冷たい夜風が頬を撫でていくが、その感触も心地よく感じられないほど、俺の思考は先日の出来事に支配されていた。


頭の中では、先日見かけたオヤジらしき人物のことが、まるで古いフィルムのように繰り返し再生されている。あの日の出来事は、決して偶然の産物ではないという確信が、俺の中で日に日に大きくなっていた。


自宅近くで見かけた後ろ姿。独特の歩き方、肩の動き、首を少し傾げて歩くその姿勢。それらは全て、俺の記憶の中のオヤジと完璧に一致する。まるで、パズルのピースがぴったりと嵌まるように。いや、むしろ完璧すぎるほどの一致。そもそも、なぜオヤジが店から遠く離れた俺の自宅付近を歩いていたのか?カレー屋の営業時間中のはずなのに。まあ、24時間営業とは言っても、さすがに一人の人間が常にいるわけじゃないだろう。昼は誰か他のスタッフと交代で休んでいるのかもしれない。だとすれば、昼間に外を歩いていても不思議じゃない。


でも、そうだとしても、なぜ俺の家の近くを?考えれば考えるほど、違和感が増していく。まるで、完成したはずのカクテルに、見えない材料が混ぜ込まれたような感覚だ。それは、バーテンダーとしての俺の直感が、何かがおかしいと警告を発しているようなものだった。


「くそ...」


思わず呟いた声が、夜の空気に吸い込まれていく。その声は、まるで霧の中に消えていくように、跡形もなく消えてしまった。ポケットの中の水晶に触れると、その冷たさが手のひらに伝わってきた。この石も、オヤジも、マヤも、そしてカエデの占い熱も、全てが一本の糸で繋がっているような気がしてならない。でも、その繋がりが何なのか、まだ掴めない。まるで、霧の向こうに何かが見えるような、でも手を伸ばしても届かないような、そんもやもやとした感覚だ。


街灯の光が俺の影を長く引き伸ばす。その影は、まるで今夜の目的を示唆するかのように、不自然に歪んで見える。今夜は違う。ただのカレー屋の客を装いながら、オヤジの正体に迫るんだ。もし本当にあの日、俺の家の近くにいたのなら、それは決して偶然ではないはずだ。そこには、必ず何かの意図が隠されている。


「スパイス・オラクル」の前に立つと、看板の文字が月明かりを受けてぼんやりと浮かび上がっていた。ネオンは相変わらず半分しか点いていないが、その不完全な明かりが、かえって店の謎めいた雰囲気を際立たせているように見える。深呼吸をして、心を落ち着かせる。今夜は特に慎重に観察しなければならない。カウンターでの何気ない会話、スタッフの動き、そして店内の様子。全てが手がかりになるかもしれない。見逃してはいけない。たとえそれが、どれほど些細な変化であったとしても。


ポケットから水晶を取り出し、月明かりに透かして見る。その瞬間、店内からこちらを見ているような気配を感じ、慌てて水晶をしまい込んだ。まるで、自分の行動を誰かに監視されているような感覚。それは気のせいだろうか。それとも、本当に誰かが俺の動きを見張っているのだろうか。


チリンと鈴の音を立てて、ドアを開ける。親しみのある音が、今夜は妙に神経を逆なでする。


「イラッシャイ! ユキトサン、マタ 来タネ!」


オヤジの声が、いつもと変わらない陽気さで響く。その様子からは、先日の出来事を示唆するような素振りは一切感じられない。しかし、その完璧すぎる平静さこそが、かえって不自然に思える。まるで、入念に練習された演技を見ているような、そんな違和感だ。


「いつものバターチキンカレーで」俺は自然を装って注文する。心臓の鼓動が少し早くなるのを感じながら、さりげなく店内を見回す。


目に入ったのは、例のガネーシャ像。マヤの占いの館にあったものと全く同じ姿。おそらくインド本国でしか手に入らないはずのそれが、なぜ二つの場所に存在するのか。それは、この謎を解く重要な鍵になるかもしれない。像の表情は、まるで全ての真実を知っているかのように、静かに微笑んでいる。


カウンターに座りながら、俺は店内の配置を改めて観察した。スタッフの動きは、まるで事前に決められた振付けのように整然としている。しかし、その動きには明らかな無駄がある。客が俺一人なのに、なぜこれほどの人手が必要なのか。そして、なぜこんな深夜まで営業を続けているのか。全てが不自然で、全てが疑問符を帯びている。


厨房からは、カレーを調理している音が聞こえてくる。オヤジは厨房の奥に時折消えては現れる。まるで、舞台の袖に消える役者のように。その度に、店内の空気が微妙に変化するように感じる。


スパイスの香りが立ち込める中、何か普段とは違う匂いが混ざっているような気がした。それは、料理の香りというよりも、何か...書類を焼くような、そんな微かな匂い。俺は鼻を少し動かし、その正体を探ろうとする。しかし、すぐにその匂いは消えてしまった。


やがて、オヤジがカレーを運んでくる。いつもと変わらぬ香り、見た目。湯気が立ち上る様子は、まるで目の前の謎を象徴するかのようだ。


「そういえばオヤジ」俺は一口目のカレーを口に運びながら、何気なく声をかけた。「この近くに住んでる客って多いのか?」


「ソウダネ...」オヤジは棚の調味料を並べ直しながら答える。「遠クカラ ワザワザ 来テクレル オ客サマモ イル」


「へえ、遠くからか」俺はカレーをすくいながら、何気なく続けた。「でも、たまには配達とか出前とかあったりするのか?」


「イヤ、ソンナ コトハ...」オヤジは首を振る。「店デ シカ カレーハ 出サナイヨ」


「そっか。じゃあオヤジはずっとここにいるんだ」俺は意図的に視線を落としながら言った。「この店から出ることはないんだな」


その瞬間、オヤジの手が微かに止まった。ほんの一瞬、聞き逃してしまいそうなくらいの間。スパイスの瓶を持つ指に、かすかな震えが走る。


普段の陽気な調子とは少し違う響き。その微妙な変化を、俺は確かに感じ取った。バーテンダーとして培った人の表情や声色を読み取る能力が、確かな違和感を告げている。


「まあ、オヤジがいつもここで働いてるからな。外で会うわけないか」俺は次の一口をすくいながら続ける。「でも深夜営業って大変そうだな。たまには休憩で外の空気とか吸いたくならない?」


「イヤイヤ」オヤジは片手を振りながら答えた。「コノ オ店ノ 仕事ガ 楽シイ。特ニ 夜ハ ワタシノ 番ダカラネ」


「そうだよな。最近は物騒だし」スプーンでカレーを混ぜながら、さらに続ける。「この間も夜中に怪しい人影見かけて、びっくりしたよ」


「アラ、コノ 辺リハ 安全ナ 場所ナノニ」


俺は意図的に話題を変えた。「ところでこのカレー、今日はいつもより辛めか?スパイスの配合変えた?」


「エエ、チョット 変エテミタンダ」オヤジの声が、やっと普段の調子を取り戻す。「ドウ?気ニ イッタ?」


その反応の変化を、俺は見逃さなかった。話題が変わった途端、オヤジの態度があからさまに楽になったように見えた。まるで、重い荷物を降ろしたかのように。その変化こそが、何かを隠していることの証左ではないだろうか。


窓の外では、月がゆっくりと空を渡っている。その光が店内に差し込み、不思議な陰影を作り出す。ガネーシャ像の影が、壁に長く伸びている。その影は、まるで何かのメッセージを伝えようとしているかのように、不規則に揺れている。


店内の空気が、スパイスの香りと共に重く漂う。カレーを食べ終えようとする頃には、俺の中で新たな疑問が幾つも芽生えていた。オヤジの行動、店の不自然さ、そして厨房の奥の設備。全てが何かを示唆しているような気がする。特に、オヤジの反応の変化は明らかだった。自宅付近での目撃に関する話題に、確実に動揺を見せていた。その事実は、俺の直感が間違っていないことを証明している。


「ご馳走さま」俺は立ち上がり、会計を済ませる。


「マタ 来テネ」オヤジの声が、いつもと変わらぬ明るさで響く。しかし、その目は俺の動きを注意深く追っているように感じられた。まるで、俺の心の中を覗き込もうとするかのように。


店を出る時、背中に視線を感じた。振り返ると、オヤジは既に厨房の中で忙しく立ち働いている。その姿は、まるで何事もなかったかのように自然だ。しかし、その自然さこそが、最大の不自然さに思えた。完璧すぎる日常の中に、確実に何かが隠されている。


外に出ると、深夜の空気が顔を撫でる。月は相変わらず、静かに光を投げかけている。その光は、まるで俺の心の中の疑問を照らし出すかのようだ。街灯の明かりが、道路に不規則な影を作り出している。その影の中に、この謎を解く鍵が隠されているような気がしてならない。


しかし、それが何を意味するのか、まだ確信は持てない。まるで、暗闇の中で手探りをしているような感覚だ。一つの謎が解けるたびに、新たな疑問が生まれる。それは、複雑に絡み合ったカクテルの材料を、一つずつ解きほぐしていくような作業だ。


ポケットの中の水晶に触れる。マヤの言葉が、再び頭をよぎった。「真実は、時として危険を伴います」...その言葉の意味が、少しずつ分かってきたような気がする。この謎を追いかければ追いかけるほど、俺は何か大きな真実に近づいているのかもしれない。そして、その真実は、おそらく俺の想像を超えるものなのだろう。


家路につきながら、俺は決意を固めた。次は、もっと詳しく調査する必要がある。特に、厨房の奥の設備について。あそこには何かある。そして、オヤジが本当に俺の家の近くを歩いていた理由。全ての謎を解き明かすには、もっと深く潜り込まなければならない。


月明かりの下、俺の影が長く伸びる。その影は、まるで未解決の謎の大きさを示すかのように、黒々と深い闇を作り出していた。静かな夜の街で、俺は次の一手を考えながら、ゆっくりと歩を進めた。これは、まだ始まりに過ぎない。真実に近づくほど、新たな謎が姿を現す。それが、この不思議な物語の本質なのかもしれない。


家に着くと、窓からは月が優しく光を投げかけていた。その光は、まるで俺の決意を見守るかのようだった。明日からは、より慎重に、より深く、この謎に迫っていかなければならない。そう思いながら、俺は静かに玄関のドアを開けた。


深夜の静寂の中、俺の心の中では、様々な可能性が渦を巻いていた。オヤジの正体、マヤとの関係、そして、この不思議なカレー屋の真の目的。全ての謎が、やがて一つの答えに収束するはずだ。その答えが、俺の人生をどう変えることになるのか。その予感とともに、俺は深い眠りに落ちていった。外では、十六夜月が静かに夜空を進んでいった。その光は、明日への期待と不安を優しく包み込むように、街を照らし続けていた。

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注文の少ないカレー屋さん 明空 凛 @rhyn

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