第16話「昼の狂想曲」
バー「Nexus」の最後の客を送り出し、俺は静かに閉店作業に取り掛かる。
「コノ オ店ノ 仕事ガ 楽シイ。特ニ 夜ハ ワタシノ 番ダカラネ」
オヤジの言葉が、不自然な余韻を残して耳の中で響く。その声には、どこか計算された響きがあった。まるで、事前に用意された台詞を読み上げているかのような。グラスを磨きながら、俺は眉をひそめる。カウンターの下に置かれた氷を、スコップですくい上げる音が、この深夜の静寂を破る。その音が、昨夜のオヤジの態度の不自然さを、より際立たせているように感じる。
特に、家の近くでの目撃について触れた時の反応。あの一瞬の戸惑い。それは、完璧に練り上げられたカクテルに、予期せぬ材料が混入したときのような、そんな違和感だった。
ふと、ポケットの中の暗号文のことを思い出す。仕事中もずっと、その存在が気になっていた。「HLJD FOZP UYQ GOZP」...その文字列が、まるで暗い海の底で光る深海魚のように、意識の中でちらちらと明滅する。ピザニキに解読を依頼したものの、彼の母親の具合が悪くなり、中断を余儀なくされた。一体この暗号は何を意味しているのか。そして、それはオヤジの不可解な行動と、どう繋がっているのだろうか。
カウンターを丁寧に拭きながら、不意に気づく。俺は「スパイス・オラクル」に通い始めてから、一度も昼間には行ったことがない。いつも深夜の来店ばかりだ。夜の店の姿は知っている。スパイスの香りに包まれた薄暗い店内、無駄に多い従業員たち、そしてオヤジの謎めいた態度。でも、昼間はどうなんだろう。太陽の光が差し込む店内は、どんな表情を見せるのだろうか。
バーの制服を畳みながら、決意が固まる。最後まで残っていた常連客も帰り、店内には俺一人の気配だけが残される。静寂の中、蛍光灯がかすかにうなりを上げている。今夜は帰ったらすぐに寝て、昼間のうちに起きよう。「スパイス・オラクル」の昼の顔を見てみたい。そこには、きっと何かヒントがあるはずだ。深夜に客が少ないのに大勢のスタッフがいるという不自然さ。その謎を解く手がかりが、昼の営業にあるかもしれない。
店の外に出ると、深夜の冷たい空気が頬を撫でる。車の通り過ぎる音が、遠くから断続的に聞こえてくる。玄関の鍵を閉めながら、ふと空を見上げる。月が、まだかすかに夜空に残っている。その姿は、十六夜の名残を留めつつも、確実に欠けていっている。時が過ぎていくように、謎も少しずつ形を変えていく。しかし、その本質は変わらないはずだ。
自宅のドアを開きながら、俺は暗号文の断片を思い返していた。「YPVGW VRGCYI」...部屋に入り、服を脱ぎながら、その文字列を何度も頭の中で反芻する。すっかり覚えてしまったので、どうしても暗号文が浮かんでしまう。
翌日、目覚ましの音で目を覚ます。時計は正午を回ったところだ。カーテンの隙間から差し込む陽光が、普段とは違う生活リズムを実感させる。まるで、いつもと逆さまの世界に足を踏み入れるような感覚だ。シャワーを浴び、歯を磨き、軽く身支度を整え足早に外出する。普段なら深い眠りの中にいる時間に、こうして活動するのは不思議な感覚だ。
そんな日常の光景の中で、「スパイス・オラクル」の看板が、どこか場違いな存在感を放っている。夜の神秘的な雰囲気は消え、代わりに古びた外観がより際立って見える。まるで、華やかなナイトクラブの朝の姿のように、少し寂しげだ。店の前には段ボール箱が積まれ、その上には食材の納品書らしき紙が留められている。近づいてみると、香辛料の強い匂いが鼻をくすぐる。
壁のひび割れや、色褪せた塗装が、昼の光の下でより鮮明に見える。夜の闇が優しく包み隠してくれていた店の老朽化が、容赦なく露わになっている。看板の文字も、よく見ると一部が剥げかけている。時計の針の形をした装飾は、いつの間にか片方が欠けていた。それでも、店の前を通り過ぎる人々は、特に気にする様子もなく足早に通り過ぎていく。
入口の前で深く息を吸い、ドアに手をかける。チリンという見慣れた鈴の音。しかし、その響きも昼間では少し違って聞こえる。まるで、別の楽器で演奏されているかのような。蛍光灯の明るい光の下、店内の様子が一望できる。数名の客が席に着いていた。スーツ姿のビジネスマンが手際よくカレーを口に運び、OLらしき女性がスマートフォンを見ながらナンを千切っている。二人組の大学生らしき若者は、辛さの度合いについて談笑している。カウンター席では、作業着姿の中年男性が、黙々とカレーを食べている。
普通のインド料理店の、普通の昼下がりの光景。しかし、その普通さこそが、夜の「スパイス・オラクル」を知る俺には、どこか違和感として響く。まるで、同じ舞台で全く違う演目が上演されているかのような。窓から差し込む陽光が、テーブルの上のスプーンを照らし、小さな光の輪を作る。その光が、俺の目の前で踊るように揺れている。
「イラッシャイマセ」
見慣れないインド人らしきおばちゃんが、俺を席に案内する。その仕草には、オヤジのような怪しさはない。むしろ、どこにでもいるような普通のインド料理店の店員という印象だ。サリーは鮮やかな黄色で、首からは金色のネックレスが光っている。額には小さな赤いビンディが貼られ、伝統的なインド女性の佇まいを醸し出している。その立ち振る舞いには、オヤジの仕草にあるような計算された動きは見られない。自然な笑顔と、少しぎこちない日本語。それらが、かえって本物らしさを感じさせる。
俺は窓際の席に案内される。テーブルの上には、既にウォーターピッチャーと水のグラスが置かれている。氷が溶けかけ、グラスの外側には小さな水滴が伝っている。隣のテーブルでは、先程の大学生らしき若者たちが、スパイスの効いた料理に悪戦苦闘している様子だ。「やっぱり辛いって!でも、なんかやみつきになるよな」という会話の断片が聞こえてくる。
「バターチキンカレーを...」
「アラ」おばちゃんが言葉を遮る。「オ昼ハ ランチメニュー アリマス。オススメ デスヨ」
彼女の日本語は不慣れだが、それがかえって自然に感じられる。オヤジの日本語が、どこか作り込まれた感じがするのと対照的だ。メニューを示す仕草も、ぎこちないながらも温かみがある。
俺の即座のバターチキンカレー注文に、おばちゃんは少し目を細める。その表情には、何か閃くものがあった。まるで、パズルのピースが嵌まったような瞬間だ。
「モシカシテ...夜ノ オ客サマ デスカ?ユキトサン?」
「ええ、そうです」
「ソウデスカ!マスター イツモ 話シテマス。マメナ オ客サマ ダト」
おばちゃんは屈託のない笑顔で言うと、キッチンへと消えていった。その後ろ姿には、オヤジのような計算された動きは感じられない。ただのインド料理店の従業員としての自然な仕草だ。しかし、オヤジが俺のことを話していたという事実が、何か引っかかる。どんな話をしていたのだろう。そして、なぜ俺のことを話題に出す必要があったのか。
俺は席に着きながら、さりげなく店内を観察する。5人ほどの客が、思い思いにカレーを楽しんでいる。窓際の席では、若いカップルがナンを分け合いながら談笑している。女性が「ここのカレー、本格的だよね」と言うと、男性は「うん、スパイスの香りが全然違う」と応える。カウンター席では、一人の中年男性が新聞を読みながらチャイを啜っている。その仕草からは常連らしさが窺える。昼の日差しが、テーブルの上のスパイス入れを通して、小さな虹を作り出している。
天井の扇風機がゆっくりと回り、その風が時折スパイスの香りを運んでくる。キッチンからは鍋を煮る音と、ナンを焼く音が聞こえる。それらの音が、まるでインドの市場のような活気を作り出している。壁には所々色褪せたインドの風景写真が飾られ、その横には小さなガネーシャの像が置かれている。像の表情は、夜に見るものと同じ神秘的な微笑みを湛えている。
キッチンには、先程のおばちゃんともう一人、同じくインド人らしき女性が働いている。後者は年配で、白髪が目立つが、手際よく調理をこなしている。よく見回しても、店員は2人だけのようだ。深夜に比べると、あまりにも少ない人数だ。厨房内は整然としており、深夜のような謎めいた雰囲気は微塵も感じられない。
これは奇妙だ。深夜は客が少ないのに4人もの店員がいて、逆に客の多い昼間は2人だけ。この不釣り合いは、明らかに不自然だ。まるで、カクテルの材料の配分が完全に逆転しているような違和感。それとも、目に見えない場所で、誰かが働いているのだろうか。
視線を店内の隅々まで這わせる。厨房の奥には、半透明の引き戸があるのが見える。その向こうは暗く、何も見えない。深夜に4人もの店員が必要な理由は、あの扉の向こうにあるのだろうか。
お茶を飲みながら、昼間の客たちの様子を観察する。彼らの会話、仕草、表情。全てが普通のインド料理店の光景そのものだ。しかし、その普通さの中にも、何か引っかかるものがある。例えば、厨房から聞こえてくる会話。インド語らしき言葉の合間に、時折日本語が混ざる。その日本語が、妙に流暢に聞こえる瞬間がある。
ランチセットが運ばれてくる。いつものバターチキンカレーとナンに加え、サラダとドリンクが付いている。サラダは新鮮な野菜が使われ、ドレッシングにもスパイスが効いている。レタスの上に散りばめられたパプリカが、宝石のように輝いている。ドリンクはマンゴーラッシー。その色合いは、夕暮れ時の空を思わせるような美しいオレンジ色だ。グラスの内側に付いた黄色い痕が、まるで暗号文の文字のように見えてしまう。
一口食べると、味は深夜と変わらない。というよりも、まったく同じと言っていいほどの味わいだ。オヤジがいなくても、この味は完璧に保たれている。スパイスの配合、肉の柔らかさ、ソースの濃度。全てが、深夜に食べるものと寸分違わない。カレーの表面に浮かぶ油の模様さえ、いつもと同じような波紋を描いている。
しかし、その事実がかえって不思議に思える。これだけの味を出せる料理人が昼も夜もいるということ自体、小さな店としては贅沢すぎるのではないか。まるで、同じレシピで作られたクローンのような完璧さ。その裏には、何か特別な仕組みがあるのだろうか。厨房の奥の引き戸の向こうに、その答えが隠されているような気がしてならない。
天井の扇風機が、ゆっくりと回っている。その動きに合わせて、スパイスの香りが店内を漂う。夜とは違う香り。より軽やかで、より日常的な。まるで、昼と夜で別々の顔を持つ店のように。その香りの中に、時折見慣れない匂いが混じる。紙を焼くような、どこか化学的な臭い。しかし、すぐに消えてしまうため、確信が持てない。
そして、やはり気になるのは店員の数の少なさ。これだけの客数がいるのに、たった2人で切り盛りしているのは明らかにおかしい。普通なら、少なくとも3人は必要なはずだ。注文を取り、料理を運び、会計をし、片付けをする。その全てを2人でこなすのは、物理的に困難なはずだ。しかし、その不自然さ以外に、特に不審な点は見当たらない。むしろ、その普通さが不自然に感じられる。まるで、完璧に演出された舞台のように。
昼下がりの陽光が差し込む窓際で、俺はゆっくりとカレーを口に運ぶ。隣のテーブルでは、先ほどの若いカップルが席を立とうとしている。彼らの後ろ姿を見送りながら、ふと気づく。深夜の店内では決して見ることのない光景だ。客の入れ替わり、会話の断片、日常的な喧騒。それらが、この店の昼の顔を作り出している。
しかし、その日常的な風景の中にも、どこか違和感が潜んでいる。例えば、厨房から時折聞こえてくる物音。鍋を扱う音や、包丁でスパイスを刻む音。それらの合間に、何か別の作業音が混ざっているような気がする。金属がこすれる音か、それとも紙をめくる音か。はっきりとは分からないが、カレー作りとは関係のない音のような気がしてならない。
カレーを最後まで平らげ、ナンの最後の一片を手に取る。その時、厨房の奥の引き戸が少し開く。その隙間から、一瞬だけ何かの影が見えた気がした。しかし、すぐに扉は閉じられ、影も消えてしまう。錯覚だったのかもしれない。だが、その一瞬の光景が、俺の中で何かを揺さぶる。
会計の際、俺は軽く話を振ってみた。
「昼は店員さんの数が少ないんですね」
おばちゃんの表情が、一瞬だけ強張る。まるで、電流が走ったかのように。その反応は、オヤジの時と似ている。しかし、すぐに取り繕った笑顔を浮かべる。
「夜中ニ タクサン 仕込ミガ アルカラ、人ガ タクサン イルンデス」
その説明は、不慣れな日本語で語られた。しかし、その言葉の選び方や間の取り方には、どこか計算された印象を受ける。まるで、事前に用意された説明を、できるだけ自然に聞こえるように努めているかのような。俺は財布から代金を取り出しながら、その説明の不自然さを噛み締める。
店を出ると、陽光が強く目に差し込む。眩しさに目を細めながら、おばちゃんの説明を反芻する。深夜に仕事が多いから人手が必要だという説明。それは確かに、一理ある説明だ。深夜の仕込みのために人員を多く配置する。理屈としては筋が通っている。
でも、その説明の仕方。一瞬の戸惑いと、その後の取り繕い方。まるで、予期せぬ質問に対して、急いで用意された答えのような印象を受けた。そこには、確実に何か裏があることを示唆している。昼と夜で、まるで別の店のような印象。しかし、その違いこそが、この店の本質を物語っているのかもしれない。
陽光の下、俺の影は短く濃く地面に落ちていた。その影は、まるでこの謎の深さを表すかのように、くっきりとした輪郭を見せている。次は、深夜の仕込みの真相に迫らなければならない。そう思いながら、俺は重い足取りで歩を進めた。頭の中では、暗号文の文字列が、まるで解読を待ちわびるように、静かに輝きを放っていた。
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