第14話「深夜の目撃」

「もう、やめて!」


夜更けの部屋で、ミサキは枕に顔を埋めた。しかし、それでも両親の怒鳴り声は壁を突き抜けて、容赦なく彼女の耳に飛び込んでくる。襖越しの影が、怒りに震える二つの人影を壁に映し出している。時折、その影が大きく揺れる度に、ミサキの心臓も大きく跳ねた。


「あなたがそんな無駄遣いばかりしてるから、こんな生活なのよ!」

「無駄遣い?仕事に必要な交際費だ。お前に何が分かる」

「ふん、交際費ね。最近、仕事の話も満足にしないくせに。そもそも先月の請求書を見たわよ。あれが本当に仕事関係なの?」

「人を疑うのはお前の悪い癖だ。いつもそうやって...」

「私が疑うのも当然でしょ!あなた、最近様子がおかしいわ。何か隠してるんじゃないの?」

「黙れ!お前の考えなんて分かりきってる。いつも被害者面して...」


両親の言葉の一つ一つが、まるで刃物のように彼女の心を切り裂いていく。枕に顔を埋めても、耳を塞いでも、その声は確実に心の奥まで届いてしまう。窓の外では、十六夜月が静かに光を投げかけている。満月からわずかに形を変えたその姿は、まるで彼女の心を映すかのようだった。部屋の中に落ちる月明かりが、影と光の境界線をくっきりと描き出している。


ガチャン!という音と共に、何かが床に落ちる音がした。母の息を呑む声。そして、重たい足音が廊下を通り過ぎ、居間へと消えていく。すぐに、テレビの音が小さく漏れ始めた。深夜の通販番組だろうか、誰かの明るすぎる声が不自然に響く。父がまた、感情を押し殺すようにテレビを見ているのだ。


携帯の画面が柔らかく光る。カエデからのメッセージだ。


『ミサキ、眠れなくても大丈夫だよ。いつでも連絡してきてね』


その優しい言葉に、ミサキは少し涙が滲むのを感じた。カエデとの出会いが、今の彼女の唯一の救いだった。そう、あの日のことを思い出す。


≪1年前、大学受験を控えた高校3年生の秋≫


図書館の片隅で、ミサキは一人、受験勉強に励んでいた。しかし、教科書の上で鉛筆が止まり、無意識のうちにノートの余白に落書きを始めている。それは両親の後ろ姿と、それを見つめる少女の姿。まるで、自分の心を無意識のうちに描いているようだった。


「すごく上手だね。気持ちが伝わってくるような...」


突然聞こえた声に、ミサキは驚いて振り返った。そこには、柔らかな笑顔を浮かべた女の子が立っていた。カエデだ。


「あ、ありがとう...」ミサキは慌ててノートを閉じようとする。「でも、こんなの...受験勉強中の気分転換というか...」


「良かったら、もう少し見せてもらえないかな?」カエデは少し照れたような笑顔を浮かべた。「私も受験で悩んでるの。一緒に勉強する?」


その日以来、二人は親友になった。カエデは、ミサキの心の深い部分まで理解してくれる、初めての友達だった。


― ― ―


現実の部屋に戻る。居間からは相変わらずテレビの音が漏れてくる。母は自室に籠もったままだ。深夜0時を過ぎても、家の中の空気は重たいまま。


108万円。マヤの言葉が頭をよぎる。その金額を考えるだけで、ミサキの心は重くなる。でも、それでも...両親の関係が修復されるのなら...。そう思う一方で、マヤの不思議な雰囲気と、あの占いの館の神秘的な空気が、現実離れした夢のようにも感じられた。


ミサキはそっと立ち上がり、窓の外を見つめる。月明かりに照らされた街並みは、まるで異世界のように見える。昼間の喧騒が嘘のように、全てが深い静寂に包まれている。蛍光灯の下に浮かぶ街路樹の影が、夜風に揺れている。


突然、部屋の中にいることが耐えられなくなった。この重苦しい空気から、少しでも逃れたい。ミサキは軽いジャケットを羽織り、こっそりと家を出た。居間からは相変わらずテレビの音。父の存在を示す唯一の証だった。


深夜の街を、ミサキはゆっくりと歩き始めた。人気のない道を、月明かりを頼りに進んでいく。街灯の光が、彼女の影を不自然なまでに長く伸ばしている。その影は、まるで彼女の不安を形にしたかのようだ。遠くで聞こえる電車の音が、深夜の静寂を更に際立たせる。


コンビニの自動ドアが開く音が、異様に大きく響く。若い店員が、眠そうな目で彼女を見る。深夜徘徊する女子大生を見て、何か思うところがあるのだろう。でも、今のミサキには、そんなことを気にする余裕はなかった。


歩き続けるうちに、見覚えのある通りに出た。ここは...。ミサキの目の前に「スパイス・オラクル」の看板が見えてきた。カレー屋...。そう、カエデから「お兄ちゃんがよく行くカレー屋」と聞いていた場所だ。


その時、彼女は息を呑んだ。


店の前に、一人の男が立っていた。シャツと黒のジャケット姿。間違いない、カエデの兄、ユキトだ。襟元が少し乱れているのが、月明かりに浮かび上がって見える。彼は店の看板を見上げ、何かを考え込んでいるようだった。その姿には、どこか寂しげで、しかし同時に鋭い探求の色が感じられた。


ミサキは思わず物陰に身を隠した。彼女の心臓が、早鐘のように打ち始める。声をかけたい気持ちはある。でも、それ以上に、この不思議な光景を壊したくないという思いの方が強かった。まるで、秘密の儀式を覗き見てしまったかのような感覚だった。


ユキトは長い間そこに佇んでいた。まるで、店の壁に秘密でもあるかのように、じっと見つめている。その姿は、月明かりの中で、どこか非現実的に見えた。時折、彼は何かを呟いているようだったが、その言葉は夜風に消されていった。


彼の手には何か光るものが握られている。それは月の光を受けて、不思議な輝きを放っているように見えた。ミサキは思わず目を凝らす。水晶...だろうか。しかし確信は持てない。


ユキトはその光るものを一瞬掲げ、すぐにポケットにしまい込んだ。そして、いつもの客を装うように、少し背筋を伸ばすと、自然な足取りで店内へと入っていった。チリンと鈴の音が鳴る。


ミサキは窓越しに、そっと中の様子を窺った。ユキトは普段通りの態度で注文をしているようだ。しかし、彼の目は時折、店内のあちこちを観察するように動いている。特に、店の奥にある何かに、何度も視線が向けられているような...。


オヤジは相変わらずの陽気な様子で接客をしているが、ユキトの様子は、どこか普段のカレー屋での客とは違う。表情は取り繕っているものの、その仕草の一つ一つに、何か意図が隠されているような気がした。


「カエデのお兄ちゃんは...一体何を...」


彼女の心の中で、疑問が渦を巻く。カエデの兄は、一体何を探しているのだろう。そして、なぜこんな時間に、このカレー屋で...。店内では、ユキトが何気ない素振りでカレーを食べている。しかし、その箸の動きは少し遅く、まるで考え事をしているかのようだ。


ミサキは物陰から、もう少し様子を見ることにした。オーナーは厨房で忙しそうに立ち働いている。時折、ユキトの方をちらりと見るが、特別な会話もない。しかし、その空気の中に、何か言葉にできない緊張が漂っているような気がした。


やがて、ユキトが立ち上がる気配を見せた。ミサキは慌てて暗がりに身を隠す。チリンと鈴の音。「イツモ アリガトウ」というオーナーの声に、ユキトが軽く会釈を返す。全てが普段通りの光景なのに、どこか違和感が残る。


明日、この出来事をカエデに話すべきだろうか。友達の兄の不可解な行動、そして、この深夜のカレー屋での奇妙な雰囲気。それを話すことで、何か変わってしまうのだろうか。あるいは、この秘密は、永遠に自分の心の中にしまっておくべきものなのだろうか。


家に帰る道すがら、ミサキは月を見上げた。その光は、どこか冷たく、そして凛としていた。彼女の心の中で、家族の問題と、この夜の不思議な出来事が、静かに混ざり合っていく。そして、マヤの言葉が蘇る。「運命の糸は、私たちが思うよりもずっと複雑に絡み合っているのです」


この出来事は、決して偶然ではないような気がした。両親の不仲、マヤの占い、そしてユキトの謎めいた行動。全てが、何かによって繋がっているような予感がする。しかし、その真相は、まだ霧の向こうに隠れているようだった。


部屋に戻ると、居間のテレビの音は消えていた。代わりに、父の書斎から漏れる明かりだけが、廊下に細い光の帯を作っている。夜が更けても、この家の重苦しい空気は変わらない。


ベッドに横たわり、ミサキは天井を見つめた。両親のこと、カエデのこと、そしてユキトの謎めいた姿のこと。全てが、まるでモザイク画のように、少しずつ形を成していくような気がした。しかし、その完成図が何なのか、彼女にはまだ見えない。


スマートフォンの画面を見ると、カエデからまた新しいメッセージが届いていた。

『ミサキ、まだ起きてる?なんだか今夜は、私も眠れないの』


返信しようとして、ミサキは少し躊躇った。友達の優しさに触れるたび、この秘密を抱え込むことへの罪悪感が込み上げてくる。でも、まだ話すべきではない。そう、全ての真相が明らかになるまでは。


もしかしたら、この夜の出来事が、何かの始まりなのかもしれない。その予感と共に、ミサキは目を閉じた。外では、十六夜月が静かに夜空を進んでいった。その光は、まるで彼女の未来を見守るかのようだった。薄闇の中で、彼女は祈るような気持ちで、カエデへの返信を打った。


『ありがとう。私も、なかなか眠れそうにないよ』


その言葉の裏には、話せない秘密と、漠然とした希望が、静かに息づいていた。書斎の明かりは、まだ消える気配を見せない。

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