第9話「バーの夜と不思議な発見」
ネオンサインが夜の街を彩り始める頃、俺は「Nexus」の従業員用入り口からそっと店内に滑り込んだ。まるで、昼間の世界から夜の世界へと、異次元にワープしたかのような感覚だ。制服に着替え、鏡に映る自分の顔を見つめる。そこには、昼間の出来事が刻んだ疲労の跡が、まるで年輪のように刻まれていた。
「よろしく頼むぜ、ユキト」
先輩バーテンダーの声に、俺は軽く頷き返す。その仕草は、まるで首の付け根にある秘密のスイッチを入れるかのようだった。そう、今夜も俺は、この「Nexus」という名の小宇宙で、人々の喜怒哀楽を観察し、時にはそれを操作する、そんな密やかな実験を繰り広げるのだ。
俺は自分の担当エリアの準備を始めた。グラスを磨き上げる。その動作は、まるで曇った記憶を磨き上げるかのよう。ボトルを整える。まるで、散らばった思考をきれいに並べ直すかのように。氷を補充する。頭の中の熱い疑問を冷やすかのように。
そう、昼間のことが頭から離れない。マヤとの奇妙なやり取り。青く光る水晶。そして、彼女から受け取ったこの水晶。ポケットに入れたそれを、そっと手で触れる。まるで、未知の惑星のかけらを持ち歩いているかのような感覚だ。
(一体、何なんだろう、これは...この水晶は、俺の人生という名のカクテルに、どんな風味を加えるんだろうか)
カクテルを作りながら、俺は考え続けた。シェイカーを振る音が、頭の中の思考をかき混ぜる。マヤの言葉の真意。彼女の不思議な力。そして、この水晶の意味。どれも結論が出ない。まるで、アルコール度数が高すぎて、どうしても溶け合わない材料を無理やり混ぜようとしているかのようだ。
「ハイボールください」
客の声で我に返る。今は仕事に集中しなければ。そう自分に言い聞かせながら、俺は氷の入ったグラスにウイスキーを注ぐ。その音は、まるで時が流れ落ちていく音のようだ。
時間が過ぎていく。しかし、今夜は珍しく暇だった。客の姿はまばらで、カウンターには数人しか座っていない。まるで、俺の悩みを反映するかのように、店内は静寂に包まれている。ふと、マリカーの顔が頭をよぎる。あいつなら、この状況をどう解釈するだろうか。
(そうだ、マリカーを誘ってみるか。この謎めいた状況を、誰かと共有したい)
スマートフォンを取り出し、メッセージを送る。まるで、暗号を送るスパイのような気分だ。
「今日、店が暇なんだ。飲みに来ないか?少し奢るぜ。俺の頭の中も、お前のウイットで少し整理してほしいんだ」
しばらくして返信が来た。その着信音は、まるで遠い星からの信号のように聞こえた。
「悪いが、今日は予定があって行けないんだ。また今度な。その時は、お前の頭の中を徹底的に掃除してやるよ」
(そうか...今夜は一人で、この謎と向き合うしかないのか)
少し残念に思いながら、俺は再びカウンターに向かう。静かな店内で、時折聞こえるグラスの音と低い会話だけが、俺の思考の伴奏となる。その音楽は、まるで俺の心の中の混沌を表現しているかのようだ。
そして、深夜2時。ようやくラストオーダーの時間だ。最後の客を見送り、閉店作業に取り掛かる。拭き掃除をしながら、俺はまたマヤのことを考えていた。まるで、頭の中の埃と一緒に、あの不思議な出来事を拭い去ろうとしているかのように。
(あの占い...本当に何かあるのか?それとも、ただの詐欺なのか...俺の人生という名の酒に、甘美な香りをつけてくれるのか、それとも苦い後味を残すだけなのか)
頭の中で様々な可能性が交錯する。しかし、結論は出ない。むしろ、考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。まるで、底なし沼にはまり込んでいくような感覚だ。
店を出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。その風は、まるで俺の混乱した思考を整理しようとしているかのようだ。俺の足は自然と、あの場所へと向かっていた。そう、「スパイス・オラクル」だ。まるで、俺の足が意思を持っているかのように、その不思議なカレー屋へと導かれていく。
扉を開けると、いつものスパイスの香りが鼻をくすぐる。その香りは、まるで俺の記憶の扉を開けるかのようだ。
「イラッシャイ! ユキトサン、マタ 来タネ!」
オヤジの陽気な声が響く。その声は、まるでこの深夜の静寂を切り裂くナイフのようだ。俺は少し疲れた笑みを浮かべながら、カウンターに腰掛けた。まるで、長い旅の末にようやく安息の地にたどり着いたかのように。
「いつもので」
オヤジは嬉しそうに頷き、厨房へと消えていく。その後ろ姿は、まるで謎の中へと消えていくようだ。俺は店内を見回す。相変わらず、客は俺一人だ。しかし、スタッフたちは忙しなく動き回っている。その不釣り合いな光景に、俺はまた首を傾げる。まるで、目に見えない客のために料理を作っているかのようだ。
カレーが運ばれてきた。一口食べると、いつもの美味しさが口の中に広がる。その味わいに、俺は少し気持ちが和らぐのを感じた。まるで、この味が俺の悩みを溶かしていくかのように。
ふと、店内の装飾品に目をやる。そして、その時だった。
(あれ?あの像...どこかで...まるで、記憶の引き出しの奥底から、何かが飛び出してきたような...)
俺の目に、見覚えのある木彫りの像が飛び込んできた。20cmほどの大きさで、象の頭を持つ神様のような姿。そう、ガネーシャだ。まるで、俺の目の前に突如として現れた謎解きのヒントのように。
(そうだ!占いの館マヤにあったのと同じ像じゃないか!)
俺は思わず身を乗り出した。間違いない。あの占いの館で見た像と、どう見ても全く同じものだ。まるで、俺の記憶と目の前の現実が、ぴったりと重なり合ったかのように。
「オヤジ」俺は声をかけた。その声は、自分でも驚くほど緊張していた。「あのガネーシャ像、どこで手に入れたんだ?」
オヤジは少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。まるで、一瞬だけ仮面が外れて、また付け直したかのように。
「アレ? アレハ インド 故郷カラ モッテキタ 宝物。日本デ 買ッタ モノデハ ナイヨ」
その言葉に、俺の中でまた新たな疑問が芽生えた。なぜマヤがその像を持っているのか。そして、なぜそれがここにもあるのか。まるで、俺の頭の中で、新たな謎のピースが増えたかのようだ。
カレーを口に運びながら、俺は考え続けた。このスパイシーな味わいの中に、何かヒントが隠されているのだろうか。それとも、単なる偶然の一致なのか。窓越しに夜空を見上げると、満月が大きく輝いていた。その完璧な円が放つ光は、まるで俺の探求を見守っているかのようだ。
(マヤの占い、このカレー屋、ガネーシャ像...偶然とは思えないほどの符合だが、明確な関連性が見出せない)
頭の中で、様々な可能性が交錯する。しかし、どの可能性も確証はない。むしろ、確信を持てば持つほど、真実から遠ざかる気がする。
俺は水晶を握りしめた。この小さな石ころのような物が、全ての謎を解く鍵なのか、それとも単なる装飾品なのか。今の段階では、どちらとも言えない。
(もっと情報が必要だ。そして、その情報を冷静に見極めなければ)
最後の一口を飲み込むと、俺の中で決意が固まった。もう一度、マヤのところへ行く必要がある。しかし今度は、先入観を持たずに観察しなければならない。言葉の裏に隠された真意、仕草や表情の微妙な変化、そして占いの館の雰囲気そのものまで。
(些細な事実も決定的な証拠となり得る。だが、全てが無意味な偶然の可能性もある。結論を急がず、自ら検証することが肝要だ)
カレーの余韻が口の中に残る中、俺は次の一手を考えていた。まるで、複雑なカクテルのレシピを組み立てるように、慎重に、そして冷静に。
(カエデとミサキの話も、もう一度聞く必要があるかもしれない)
俺は立ち上がった。店を出る前、もう一度ガネーシャ像を見つめる。その瞬間、像の目が光ったような気がした。幻覚だろうか。それとも...。いや、こんな現象にも一喜一憂せずに、客観的に見る必要がある。
「また来るぜ、オヤジ」
俺はそう告げて店を後にした。夜の街に踏み出す足取りは、昨日までとは明らかに違っていた。これから始まる探求への覚悟が、俺の中で静かに、しかし確実に芽生えている。
(明日、もう一度全ての情報を整理しよう。そして、次の一手を決めるんだ)
街灯の下、俺の影が長く伸びる。その影は、まるで未知の世界への入り口のようだった。しかし、その世界が何を意味するのか、まだ誰にも分からない。俺にできるのは、ただ一つずつ、慎重に歩みを進めることだけだ。
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