第8話「疑惑の渦」

「お兄ちゃん...」カエデが小声で言う。「私、マヤさんにお兄ちゃんの名前は一度も...」


カエデの声には驚きと戸惑いが混ざっていた。彼女の目は大きく見開かれ、マヤとユキトの間を行ったり来たりしている。心の中では、マヤの能力への畏敬の念と、兄の反応を心配する気持ちが混在していた。


その言葉が、まるで重たい鉛の玉のように俺の胃に落ちていく。頭の中で、様々な可能性が火花を散らしながらぶつかり合う。


「へえ、俺の名前をご存知なんですね。占い師としての腕前を見せてくれたってわけですか?」


俺の皮肉な物言いとは裏腹に、内心では激しい動揺を感じていた。どうして俺の名前を知っているんだ?カエデが言ったように、妹は俺の名前を一度も口にしていない。それなのに...。理性的に考えれば、何かトリックがあるはずだ。事前に調べていたとか、カエデの持ち物から情報を得たとか。でも、そんな可能性を考えれば考えるほど、不自然さが際立つ。


ユキトの皮肉な物言いに、カエデは思わず身を縮めた。兄の懐疑心が、この神秘的な空間の雰囲気を壊してしまうのではないかと心配になる。しかし同時に、兄の冷静な分析力が頼もしくも感じられた。


マヤは穏やかに微笑んだ。だが、その目には何か計算するような光が宿っている。


「占いの力は、時として予想外の情報をもたらすものです」


なんとも曖昧な答えだ。俺は、この老婆の言葉の裏に隠された意味を探ろうとする。占いの力?そんなものがあるわけない。そう思いたい。そう信じたい。でも、この状況を合理的に説明できる理由が見つからない。俺の中で、長年培ってきた懐疑心と、目の前で起きた不可解な出来事への驚きが激しくぶつかり合う。


「そうですか」俺は軽く頷いた。表情を平静に保とうと必死だ。「では、その力で僕の相談内容も分かりますか?」


この質問には、半分挑戦の意味も込められていた。どこまで当てられるか、試してやろう。そう思う一方で、心の奥底では恐れも感じていた。もし本当に言い当てられたら...俺の世界観は根底から覆されてしまうかもしれない。


マヤは穏やかな表情を崩さず、ゆっくりと答えた。「ええ、もちろん。あなたは...真実を求めていますね」


俺は眉をひそめた。なんとでも取れる曖昧な答えだ。しかし、どこか的を射ているようにも感じる。この老婆、何か隠している。そう感じずにはいられなかった。


「実は、妹がお世話になっているようで」慎重に言葉を選びながら続ける。「僕も一度、この目で確かめたくて」


マヤの表情が一瞬、何かを悟ったかのように変化した。「そうですか。では、ユキトさんの占いから始めましょうか」


俺は内心で苦笑した。まるで、俺の心を読んだかのような提案だな。だが、それこそが占い師の常套手段。相手の反応を見て、最適な提案をする。心理学でいうコールドリーディングってやつだ。


「ええ、お願いします」俺は微笑んで答えた。


マヤがユキトの占いを始めると、カエデは息を呑んで見守った。兄の人生の秘密が明かされていくのを、期待と不安が入り混じった複雑な気持ちで見つめている。時折、ユキトの表情の変化を観察しては、その反応の意味を理解しようと必死だった。


マヤはゆっくりと目を閉じ、深呼吸をした。部屋の空気が、急に重くなったような気がする。


「あなたは...」マヤが口を開いた。「何かを探していますね」


俺は眉をひそめた。何を探している?俺が?


「それは...真実、でしょうか」マヤは続けた。「あなたの周りで起こっている不可解な出来事の真相を」


俺は思わず身を乗り出した。この老婆、一体何を...


「そして、その真実は...」マヤが言葉を切った瞬間、部屋の電気が突然消えた。


カエデは少し身を縮めたが、大きな反応はなかった。きっと前にも経験しているのだろう。しかし、内心では兄の反応を心配していた。


突然の暗転に、カエデは小さく息を呑んだ。以前の経験から、これが占いの重要な瞬間だと理解している。暗闇の中、兄の存在を感じ取りながら、彼の反応を想像していた。


闇の中で、マヤの声だけが響く。「その真実は、あなたの想像を超えるものかもしれません」


俺は、暗闇の中で状況を分析しようとした。これは明らかに演出だ。しかし、その巧妙さと、そこから感じる凄みに、思わず背筋が凍る。単なるトリックとは思えない何かがある。


突如、青い光が闇を切り裂いた。テーブルの上の水晶が、まるで内側から命を吹き込まれたかのように、幻想的な青い光を放ち始めたのだ。


俺は冷静に観察した。この光、どういう仕組みなんだ?バッテリーか何かが仕込まれているのか?それとも、何か化学反応を利用しているのか?


青い光は、マヤの顔を不気味に照らし出していた。その表情は、先ほどまでの穏やかなものとは打って変わり、鋭い眼差しになっていた。しかし、その変化は明らかに意図的なものだ。演技とはいえ、その迫力に思わず息を呑む。


マヤの声が、再び闇を切り裂く。「あなたの探求心は正しいかもしれません。しかし、真実を知れば、あなたの世界は大きく変わることでしょう」


俺は、暗闇の中で冷や汗を感じていた。この老婆、俺の考えていることを本当に読み取っているのか?それとも...単なる当て推量か?


そして、マヤは続けた。「あなたの周りには、見えない糸が張り巡らされています。その糸は、あなたが想像もしなかった場所とつながっているのです」


俺の頭の中で、様々な可能性が交錯する。見えない糸?つながっている場所?一体何のことだ?


突然、部屋の明かりが戻った。俺は目を瞬かせながら、マヤを見つめた。老婆の表情は、再び穏やかな微笑みに戻っていた。その変化の自然さに、俺は思わず感心してしまう。


「ユキトさん」マヤは真剣な眼差しで言った。「あなたは、ただの好奇心で真実を追い求めているのではありませんね?」


俺は黙ってうなずいた。この老婆、何か知っているのかもしれない。そんな気がしてきた。


「では、私からあなたに忠告を」マヤは静かに、しかし力強く言った。「真実は、時として危険を伴います。あなたは、その覚悟はありますか?」


その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。危険?どんな危険が待ち受けているというんだ?しかし、すぐに決意を固めた表情で答えた。


「はい、あります」


マヤはしばらく俺を見つめ、そしてゆっくりと頷いた。「分かりました。では、これをお持ちください」


マヤは引き出しから小さな水晶を取り出し、俺に手渡した。


「これは?」


「あなたを導く、光となるでしょう」マヤは微笑んだ。「さあ、お帰りなさい。そして、気をつけて」


俺は水晶を受け取り、カエデと共に立ち上がった。


「お兄ちゃん、その水晶...」カエデが不安そうに呟く。その声には、これからの展開への期待と恐れが混ざっていた。水晶が兄の人生にどのような影響を与えるのか、想像すると胸が締め付けられる思いだった。


「あの、お代は...」俺が言いかけると、マヤは手を振って制した。


「今日のところは結構です。これは...お試しということで」彼女の目が不思議な光を放った。


二人が部屋を出ようとしたとき、マヤの声が背中に届いた。


「ユキトさん、忘れないでください。全ては理由があって起こるのです」


その言葉が、俺の心に深く刻まれた。


外に出ると、急に現実世界に戻ってきたような感覚に襲われる。日差しが眩しく感じられ、俺は思わず目を細めた。マヤの館での不思議な体験が、まるで夢だったかのように感じられる。


カエデは深く息を吐いた。頭の中では、占いの内容と兄の反応が入り混じって渦を巻いている。兄に何か言葉をかけたいが、どう表現すればいいのか分からない。結局、黙って隣を歩くことしかできなかった。


俺は、マヤから受け取った水晶を手に取り、じっくりと観察した。特に変わったところは見当たらない。普通の水晶にしか見えない。


「大丈夫、カエデ。これから一つずつ謎を解いていこう」


二人は歩き始めた。その足取りは、まるで新たな冒険に向かうかのように慎重だった。俺は水晶を握りしめ、これから起こるであろう出来事に思いを巡らせた。この水晶が本当に何かを引き起こすのか、それとも全ては偶然の連鎖なのか。その答えは、まだ見えない。


しかし、一つだけ確かなことがある。俺たちの日常が、今までとは違うものになるということだ。その予感とともに、俺たちは家路についた。


家に着くと、カエデは自分の部屋に向かった。ドアを閉めて深いため息をつく。今日の出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。マヤの神秘的な力、兄の懐疑心、そして自分自身のアイドルになりたいという夢。全てが複雑に絡み合い、どう整理すればいいのか分からない。


しかし、一つだけ確かなことがあった。これからの日々が、今までとは全く違ったものになるという予感。その思いを胸に、カエデはベッドに身を投げ出した。明日からの展開に、期待と不安が入り混じる中、彼女は目を閉じた。


一方、俺は急いで自分の部屋に向かった。時計を見ると、仕事に出るまでまだ2時間ほどある。この時間を有効に使わなければ。


「ただいま」と声をかけると、リビングにいた母が顔を上げた。


「お帰り、ユキト。早かったのね」


「ああ、ちょっとね」俺は曖昧に答えた。両親に心配をかけたくない。少なくとも、真相が分かるまでは。


部屋に入ると、俺はすぐに机に向かい、マヤから受け取った水晶を置いた。それを見つめながら、今日の出来事を整理しようとする。マヤの言葉、青く光る水晶、そして不可解な予言。全てが謎に包まれている。


「一体、どこから手をつければいいんだ...」


俺は深く息を吐き出し、再び水晶を見つめた。その透明な表面が、まるで俺を挑発するかのように見える。


まだ何も確実なことは言えない。証拠が足りない。もっと情報を​​​​​​​​​​​​​​​​集める必要がある。でも、どこから手をつければいいんだ?


この水晶、本当に何か特別な力があるのだろうか。それとも、単なる心理効果を狙ったものなのか。俺には、まだ何も確信が持てない。


ただ一つ言えるのは、この謎を追いかけることで、何かが変わるかもしれないということだ。それが良い方向なのか悪い方向なのか、まだ分からない。でも、このまま立ち止まっているわけにはいかない。


時計を見ると、出勤の時間が近づいていた。俺は立ち上がり、仕事の準備を始める。水晶を見つめながら、今夜のバーでの仕事中も、この謎について考え続けるだろうと思う。


「行ってきます」と声をかけながら家を出る俺の頭の中では、マヤの言葉が再び響く。


「全ては理由があって起こるのです」


もしそうなら、俺がこの謎に巻き込まれたことにも、何か理由があるはずだ。その理由が何なのか、俺にはまだ分からない。でも、それを知るために、一歩ずつ前に進むしかない。


そんなことを考えながら、俺は仕事場へと急ぐ。今夜のバーでの仕事中も、この謎について考え続けるだろう。新たな冒険が始まる。その期待と不安を胸に、俺は足早に歩を進めた。

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