第6話「秘密の重み」
ユキトが家に帰り着いたのは、夜の10時を回っていた。玄関のドアを開けると、静寂が彼を迎え入れる。まるで、この家自体が秘密を抱えているかのような、そんな妙な空気感だ。カエデの靴はまだない。彼は深いため息をつきながら、まるで重力が突然2倍になったかのような足取りでリビングに向かった。
ソファに身を沈めると、先ほど目にしたカエデとミサキの姿が、まるで古い8ミリフィルムのように、頭の中でカタカタと音を立てながら繰り返し再生される。あの真剣な表情。広げられた紙。そして、何よりも彼の知らない秘密を共有しているような二人の雰囲気。まるで、自分だけが知らない暗号解読ゲームが行われているかのようだ。
ユキトは立ち上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫を開け、中を覗き込む。しかし、目当てのものは見つからない。「そうか、ビールがなかったんだったな」と呟きながら冷蔵庫を閉める。代わりに水を一杯注ぎ、一気に飲み干した。冷たい水が喉を通り抜けていく感覚に、わずかな安堵を覚える。
「一体、何があったんだ?」
ユキトは天井を見上げながら呟いた。その言葉は、静寂の海に投げ込まれた小石のように、部屋の空気に小さな波紋を広げる。カエデの最近の様子、占いへの傾倒、そして今日目にした光景。全てが複雑に絡み合い、彼の頭の中でぐるぐると渦を巻いている。まるで、意味不明な材料を全部ブレンダーに入れて回したような、そんなグチャグチャな状態だ。
ふと、大学時代の心理学の授業を思い出す。教授の言葉が、まるで昨日聞いたかのように鮮明に蘇ってくる。
「人間の行動には、必ず理由がある。しかし、その理由は往々にして本人にも分からないものだ」
「俺は...カエデのことを本当に理解できているのか?」
その問いが、彼の心を重く圧迫する。まるで、巨大な象が胸の上に座っているかのような重圧感だ。幼い頃から、ユキトはカエデの良き理解者であり、守り手だった。カエデが転んで泣いたときも、初めて恋をして悩んだときも、いつも側にいて支えてきた。しかし今、その絆が少しずつ緩んでいるような不安を感じずにはいられない。まるで、大切に編んだセーターの端がほつれ始めているような、そんな感覚だ。
ユキトは立ち上がり、窓際に歩み寄った。外は既に闇に包まれ、街灯だけが孤独に光を放っている。その光景が、今の自分の心情と重なって見える。周りは暗闇に包まれ、自分だけが孤独に光を放っているような、そんな感覚だ。
時計の針が11時を指す頃、玄関のドアが開く音がした。その音は、静寂を破る雷鳴のように、ユキトの耳に響いた。彼は思わず体を強張らせる。まるで、長い間待ち構えていた獲物がようやく罠にかかったかのような緊張感だ。
「ただいま...」
カエデの小さな声が聞こえる。まるで、自分の存在を消したいかのような、そんな声だ。ユキトは深呼吸をして、できるだけ平静を装おうと努めた。まるで、荒波の中で小舟を操るように、必死に感情のバランスを取ろうとする。
「おかえり、カエデ」
リビングに入ってきたカエデは、少し驚いたような表情でユキトを見た。まるで、真夜中に冷蔵庫を物色していたところを親に見つかった子供のような、そんな表情だ。
「お兄ちゃん、まだ起きてたの?」
「ああ、ちょっと心配だったからな」ユキトは軽く答えた。しかし、その声には微かな緊張が滲んでいる。まるで、張り詰めた弦がビリビリと震えているような、そんな声だ。
カエデは少し躊躇するような素振りを見せた後、ゆっくりとソファに腰を下ろした。その動作は、まるで薄氷を踏むかのようにゆっくりとしていた。ユキトも、カエデの対面のソファに座る。二人の間には、コーヒーテーブルが置かれている。その小さなテーブルが、今は二人の間の大きな溝のように感じられた。
「あの...お兄ちゃん。少し、話があるの」
ユキトは身を乗り出した。まるで、重要な暗号を解読しようとする探偵のように。「ああ、なんだ?」
カエデは深呼吸をして、言葉を選ぶように慎重に話し始めた。その様子は、まるで爆弾の導火線を切ろうとしている爆発物処理班のようだ。
「今日ね、ミサキと一緒に占いに行ってきたの」
「ああ、メモで見たよ」ユキトは頷いた。「それで、どうだった?」
カエデは一瞬、言葉を詰まらせた。まるで、喉に小さな魚の骨でも刺さったかのように。「うん...その...すごく当たってて驚いたの」
ユキトは眉をひそめた。カエデの様子が、明らかに何かを隠しているように見える。まるで、背中に巨大な像を隠そうとしているかのような、そんな不自然さだ。
「カエデ、本当に大丈夫か?何か...心配なことでもあるのか?」
カエデは一瞬、兄の目をまっすぐ見つめた。その瞳には、何かを訴えかけようとする思いが溢れている。まるで、無言の SOS を発信しているかのようだ。しかし、すぐに視線を逸らし、小さく首を振った。
「ううん、大丈夫...」
しかし、その声には力がなかった。まるで、嵐の中でかすかに聞こえる鈴の音のように。ユキトは、妹が何か重要なことを言い出せずにいるのを感じ取った。彼は優しく、しかし真剣な表情でカエデを見つめ返した。
「カエデ、俺たち兄妹だろ?何があっても、俺はお前の味方だ。だから...何かあったら、遠慮なく言ってくれ」
カエデの瞳に、一瞬、涙が光った。まるで、夜空に輝く星のように。しかし、彼女はそれを必死に押し殺すように瞬きをした。
「うん...ありがとう、お兄ちゃん」カエデは小さく微笑んだ。その笑顔は、曇り空から覗く一筋の陽光のようだった。「でも、今は...大丈夫。本当に」
ユキトは、もう少し踏み込むべきか迷った。その迷いは、まるで迷路の中をさまようかのようだ。頭の中では、様々な可能性が次々と浮かんでは消えていく。カエデの様子、最近の出来事、そして今日目にしたファミレスでの光景。全てのピースを組み合わせようとするが、どうしてもうまくはまらない。
しかし、カエデの表情に決意のようなものを感じ、それ以上の追及は控えることにした。時には、相手の決意を尊重することも大切だ。そう、大学時代の心理学の授業で学んだことを思い出す。
「分かった。でも、何かあったらいつでも相談してくれ。いいな?」
カエデは小さく頷いた。「うん...」
二人の間に、重い沈黙が降りた。その静寂は、まるで厚い雪のように、二人を包み込む。リビングの時計の秒針の音だけが、その静寂を刻むように響いている。その静寂の中で、互いの心の内を探り合うように、兄妹は無言で見つめ合った。
ユキトは、カエデの表情を細かく観察した。目の下のわずかなクマ、唇の端のかすかな震え、そして時折見せる不安げな目つき。全てが、何かが起きていることを物語っている。心理学を学んだ彼には、それらの微細な変化が手に取るように分かる。
しかし、その沈黙は長くは続かなかった。カエデが、まるで重い鎧を脱ぐかのように、深いため息をついた。
「実は...お兄ちゃん」カエデの声は震えていた。「お金の話なんだけど...」
ユキトは身を乗り出した。「お金?どうしたんだ?」
カエデは言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。ミサキの家庭の問題、マヤという占い師の存在、そして108万円という法外な金額について。話すにつれて、カエデの声は次第に強くなっていった。まるで、長い間抱えていた重荷を下ろすかのように。
「ミサキの両親が最近、すごく仲が悪くて...」カエデは目を伏せながら話を続けた。「毎日のように喧嘩をしているみたいで、ミサキはすごく苦しんでいるの」
ユキトは黙って聞いていた。その表情は、まるでポーカーフェイスの達人のように読めない。しかし、内心では様々な感情が渦巻いていた。妹の友人を思う気持ち、占いに頼ろうとする行動への疑問、そして法外な金額への驚き。
「そして、その占い師...マヤさんが、アカシャ・ジェムっていう特別な宝石を使った儀式を提案してくれて...」カエデは少し躊躇した後、続けた。「それで、家族の絆が修復されるかもしれないって」
ユキトは眉をひそめた。「アカシャ・ジェム?そんなもの、聞いたことがないぞ」
「うん...私も初めて聞いたの」カエデは小さく頷いた。「でも、マヤさんは本当に凄い人みたいで...」
「で、その儀式に108万円もかかるというわけか」ユキトは冷静に言った。
カエデは小さく頷いた。「うん...高額すぎるって分かってる。でも、ミサキのためなら...」
話し終えたカエデは、おそるおそる兄の反応を窺った。ユキトの表情は依然として読めない。彼の心の中では、様々な思いが激しくぶつかり合っていた。
妹を思う気持ち、友人を助けたいという彼女の純粋な願い、そして明らかに怪しい占い師の存在。全てが複雑に絡み合い、一つの答えに辿り着くことを妨げている。
ユキトは長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。「分かった。お金のことなら、俺が何とかする」
カエデの目が驚きで大きく見開いた。「え?本当に?」
「ああ」ユキトは頷いた。「だが、条件がある」
「条件?」カエデの声には、期待と不安が入り混じっていた。
「ああ」ユキトの目に、決意の色が宿った。「俺も一緒にその占い師...マヤのところへ行く」
カエデは一瞬、言葉を失った。「え?でも...」
「俺の目で確かめる必要がある」ユキトの声は強かった。「この金額を払う価値があるのかどうか、俺自身で判断したい」
カエデは迷いながらも、最終的に頷いた。「分かった...一緒に行こう」
その言葉を聞いて、ユキトの表情が少し和らいだ。しかし、その目には依然として鋭い光が宿っていた。
「カエデ、正直に答えてくれ」ユキトは真剣な眼差しで妹を見つめた。「本当に、この占い...信じているのか?」
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