第2話「朝の邂逅」

真夜中の街。ネオンの光が薄れゆく中、俺の足は自然とあの店へと向かっていた。「スパイス・オラクル」。24時間営業を謳う、この怪しげなカレー屋。まるで俺の好奇心という名の蛾が、この店の怪しさという名の炎に引き寄せられているかのようだ。


ふと空を見上げると、満月が街を優しく照らしている。その光景に、俺は大学時代の記憶を思い出していた。


≪大学時代、心理学の講義室にて≫


窓から差し込む月明かりの中、教授の言葉が響く。


「人間の行動には、必ず理由がある。しかし、その理由は往々にして本人にも分からないものだ」


俺は熱心にノートを取っていた。隣では、親友のケイタ、通称「マリカー」がいつものようにうとうとしている。


「おい、マリカー。また寝てるのか?」と、俺は小声で言った。


ケイタは目をこすりながら答える。「悪い、昨日バイトが遅くてさ...」


講義が終わり、二人で学食に向かう。


「なあ、ユキト。お前いつも真面目だよな。なんでそんなに心理学に夢中なんだ?」


俺は少し考えてから答えた。「んー、人間の行動の裏側にある真実を知りたいんだ。表面上の言動だけじゃなく、その奥にある本当の気持ちとか」


ケイタは笑う。「相変わらず難しいこと考えてんなー。俺なんか、ただなんとなくこの学部選んだだけだぜ」


「お前らしいな、マリカー」と、俺も笑った。


「もう、そのあだ名やめてくれよ...」ケイタは顔を赤らめる。「あの時は本当に滑って転んだだけなのに...」


「バナナの皮で滑るのなんて、マリオカートの中だけだと思ってたぜ」俺は茶化すように言った。「お前がキャンパスの真ん中で派手に転んだ時は、マジで笑い死にそうになったよ」


「あーもう、思い出すだけで恥ずかしい」ケイタは頭を抱えた。「あれ以来、バナナ恐怖症になっちまったよ」


「まあ、そのおかげで俺たちも仲良くなれたんだしな」俺は肩をすくめた。「感謝しろよ、マリカー」


― ― ―


現実に戻る。俺は「スパイス・オラクル」の前に立っていた。店の外観は相変わらず、年季の入った雰囲気を醸し出している。看板の文字は色褪せ、ネオンは半分しか点いていない。まるでこの店自体が、俺の将来の姿を映し出す鏡のようだ。...いや、そんな未来は御免こうむりたい。


ドアを開ける。軋む音と共に、スパイスの香りが鼻をくすぐる。


「イラッシャイ! ユキトサン、マタ 来タネ!」


オヤジの声だ。相変わらず陽気だが、どこか計算された明るさを感じる。その笑顔の裏に何があるのか、俺の職業病のような観察癖が再び顔を出す。


「いつもの」と言うと、オヤジは嬉しそうに頷いた。


カウンターに座り、店内をじっくりと観察する。客は俺一人だ。しかし今夜も、オヤジに加えて3人のスタッフが忙しなく動き回っている。この光景には毎回違和感を覚える。こんな人気のない店で、なぜこれほどの人手が必要なんだ?まるで、幽霊客のためにフルスタッフで営業しているかのようだ。


厨房からは鍋を煮る音や、野菜を刻む音が聞こえてくる。まるで大勢の客のために準備をしているかのようだ。でも、現実は俺一人。この不釣り合いな状況に、俺の好奇心は更に掻き立てられる。


「オヤジ、いつもこんなに人手かけてるの?」


オヤジは笑顔で答える。「モチロン! イツデモ オキャクサマ ニ 最高ノ カレーヲ オダシスル タメ」


その返答に、俺は首を傾げずにはいられない。最高のカレーを出すのはいいが、客が来ないのでは意味がない。この店の経営方針は、俺の常識を超えている。まるで、カレーを作ることそのものが目的であるかのようだ。


しかし今夜は、壁の影がいつもより濃く、長く伸びているように見える。その不自然な影の形に、俺は首を傾げる。まるで、この店の秘密を隠すかのように。


「オヤジ、この店いつからあるんだ?」


「ソレハ...ヒ・ミ・ツ!」オヤジはウインクをしながら答えた。


その仕草に、俺は思わず眉をひそめる。単純な質問のはずなのに、なぜ秘密にする必要がある?心理学を学んだ俺の頭の中で、様々な可能性が浮かび上がる。店の歴史に何か後ろめたいことがあるのか?それとも、単に客を惹きつけるための演出なのか?まさか、タイムトラベルでもしてきたのか?...いや、そんなSFチックな展開は勘弁してくれよ。


オヤジの背中越しに、厨房を覗き込む。そこには大きな鍋がいくつも並んでいる。スパイスの香りが立ち込める中、オヤジの手さばきは素早く、まるで魔法使いのよう。その動きの中に、一瞬だけ別の何かが垣間見える。それは...武術の型のようにも見えた。俺の背筋に冷たいものが走る。まさか、カレーを作るのに武術が必要なわけないよな?


カレーが運ばれてきた。スプーンを口に運ぶ。


「うまい...」


思わず呟いてしまう。スパイスの絶妙なバランス、肉の柔らかさ。毎回感じることだが、この味は普通じゃない。


「オヤジ、このカレー、どうしてこんなに美味しいんだ?」


オヤジは微笑んで答える。「ソレハ インドノ 伝統ノ 味サ」


「へえ、伝統の味か。でも、こんな味、他で食べたことないぞ」


オヤジは首を傾げる。「ソウカナ? コレハ 普通ノ カレー ダヨ」


「いやいや、普通じゃないって。このレシピ、教えてくれないか?」


「アー、ソレハ...」オヤジは少し困ったような表情を浮かべる。「秘密ノ スパイス ガ アルンダ」


「秘密のスパイス?それって何だ?」


オヤジは人差し指を唇に当て、「シー」と言って笑った。


その態度に、俺は何か引っかかるものを感じる。オヤジは明らかに話をはぐらかしている。しかし、なぜこんな些細なことを隠そうとするのだろうか。まるで、このカレーの味に何か重大な秘密でも隠されているかのようだ。


食事を続けながら、俺はオヤジの動きを観察し続けた。その仕草の一つ一つに、何か意味があるように感じる。心理学で学んだ非言語コミュニケーションの知識が、頭の中でうごめく。


食事を終え、会計を済ませようとレジに向かう。その時、カウンターの下に何か光るものが見えた。


「オヤジ、何か落ちてる」


「ア! ソレハ...」


オヤジが慌てて手を伸ばすが、俺の方が早かった。拾い上げたのは、小さな金属製の札。表面には見覚えのない文字が刻まれている。


「これ、何だ?」


「タダノ オ守リ」オヤジは平静を装おうとしているが、その声には焦りが混じっている。


札を手に取り、じっくりと観察する。その形状や模様は、どこか見覚えがある。そう、カエデの部屋で見た占い関係の本に載っていた護符に似ている。


オヤジに札を返す。「へえ、こんな不思議なお守りがあるんだ」


オヤジは安堵したような表情を浮かべる。「ソウ、コレハ 特別ナ オ守リ。大事ニ シテイルンダ」


その言葉に、俺は何か重要な意味が隠されているような気がした。しかし、これ以上追及しても答えは得られないだろう。


店を出る時、背後でオヤジの声が聞こえた。


「気ヲツケテ 帰レ。今日ハ 月ガ 綺麗ダカラネ」


振り返ると、オヤジはいつもの笑顔で手を振っている。だが、その目は何かを訴えかけているようにも見えた。


外に出ると、満月が街を照らしている。その光を浴びながら、俺は家路につく。頭の中では、今夜見たオヤジの不可解な行動と、あの金属の札のことが渦を巻いていた。


歩きながら、俺は自分の立ち位置について考え始める。大学で心理学を学び、人間の行動の裏側にある真実を追い求めてきた。しかし、就職した金融会社では、その知識を顧客の心理を操作して商品を売り込むために使うことを求められた。それに嫌気がさして退職したものの、今の仕事にも満足していない。


そんな中で、このカレー屋の謎に惹かれている自分がいる。これは単なる好奇心なのか、それとも人生の転機を求める無意識の欲求なのか。


家に着く。玄関の電気が消えている。静かにドアを開け、靴を脱ぐ。リビングに向かうと、テーブルの上にカエデからのメモが置いてあった。


「お兄ちゃんへ。明日、友達と占いに行ってくるね。夜遅くなるかも。心配しないでね!」


メモを読んで、俺は少し心配になる。カエデの占い好きは知っているが、やはり最近少し度が過ぎているような気がする。彼女の様子を注意深く見守る必要があるかもしれない。


部屋に戻り、ベッドに横たわる。天井を見上げながら、今夜の出来事を整理する。


カレー屋の謎。オヤジの正体。あの金属の札。カエデの占い熱。そして、自分自身の将来への不安。全てが複雑に絡み合い、表面上の現実と、その奥に潜む真実の間には深い溝があるように感じる。その溝を埋めるためには、自分の内なる声に耳を傾ける必要があるのかもしれない。


目を閉じると、スパイスの香りがまだ鼻腔に残っているような気がした。その香りに誘われるように、俺の意識は徐々に朧げになっていく。​​​​​​​​​​​​​​​​

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