注文の少ないカレー屋さん

明空 凛

第1話「深夜のカレー屋」

深夜2時過ぎ。バーのラストオーダーを告げ、最後の客を送り出した俺は、カウンターを拭きながら今夜も無事に仕事を終えたことにほっと胸を撫で下ろす。バーテンダーという仕事は、人々の喜怒哀楽を間近で見られる。それが面白い反面、たまに疲れることもある。まあ、俺の人生そのものが疲れているんだけどな。人生という名のカクテルに、疲労という名の氷がじゃぶじゃぶ入ってる感じ。


バーの照明が落とされ、普段は賑やかな店内が静寂に包まれる。俺は一人、閉店作業に取り掛かる。グラスを洗い、ボトルを整理し、床を掃く。この日課のような動作の中で、今夜も様々な客の顔が脳裏をよぎる。


悲しみに暮れた中年のサラリーマン、デートに浮かれる若いカップル、一人で静かに酒を嗜む老紳士。彼らの人生の一瞬を、俺は今日も垣間見てきた。その断片的な物語を紡ぎ合わせると、この街の息吹が感じられる気がする。


制服を脱ぎ、バーを出る。冷たい夜風が頬を撫でる。自宅に帰るのは少し気が重い。両親は俺の仕事を快く思っていない。大卒でバーテンダーなんて、と。確かに、一度は親の期待通り一般企業に就職したんだ。でも、わずか半年で辞めてしまった。その理由?...いやいや、そんな恥ずかしい話、聞かないでくれよ。今そんな話をしたら、この物語が始まる前に終わっちまうぜ。...まあ、俺の人生もそんな感じだったけどな。ともかく、そんな経歴を持つ俺を、両親が快く思わないのも無理はない。そんな視線を感じながら暮らす日々に、少しばかり息苦しさを覚える。


街灯の光が濡れた路面に反射し、幻想的な風景を作り出している。深夜の街は、昼間とは違う顔を見せる。昼間は隠れていた影が、夜になると姿を現す。人々の本性も同じかもしれない。酔った勢いで本音をぶちまける客を見ていると、そんなことを考えてしまう。


ふと立ち止まり、夜空を見上げる。都会の空は、星一つ見えない。光害のせいだ。でも、たまにはこんな空も悪くない。街の明かりが作り出す、人工の星座。それもまた、この街の物語の一部なんだろう。


歩きながら、ポケットから携帯を取り出す。妹のカエデからのメッセージが届いている。


「お兄ちゃん、今日も遅いの? お帰りの時は気をつけてね。」


俺は小さく笑みを浮かべる。カエデは、いつも俺のことを気にかけてくれる。両親とは違って、俺の仕事を理解してくれようとしている。そんな妹の存在が、俺にとってはオアシスのようなものだ。


返信を打つ。「ありがとう、カエデ。もうすぐ帰るよ。」


メッセージを送り、再び歩き出す。そんな気分を紛らわすように、俺は「スパイス・オラクル」に向かっていた。


名古屋の歓楽街から少し外れたところにある、怪しげなカレー屋だ。24時間営業を謳っているが、客なんてほとんど見たことがない。それでも潰れもせずに営業を続けている。不思議だ。謎だ。そして、その謎に惹かれる自分がいる。まるで、俺の人生という謎に惹かれているかのように。


店の前に立つ。看板の文字は色褪せ、ネオンは半分しか点いていない。壁には無数のひび割れが走り、その隙間からは過去の塗装の色が覗いている。まるで時間という重荷に耐えかねているかのようだ。ドアノブは、幾千もの手が触れたことで光沢を失い、独特の艶を放っている。この店、一体何年ここにあるんだろう。俺の前世からあったんじゃないかってくらいに古びている。


ドアを開ける。軋む音。そして、スパイスの香り。


「イラッシャイ! 何 ニスル?」


陽気な声で出迎えてくれたのは、いつものオヤジ。黒く縮れた髪をオイルで固めたような頭。年齢不詳。目は何かを企んでいるようで、かと思えば底抜けに明るい。その不自然さが、逆に自然に感じられる。そんな不思議なオヤジだ。


「今日もバターチキンカレーで」


「ハイ、ハイ! 直グ 出来ル。マツ!」


カウンター越しに厨房を覗く。オヤジと他のスタッフが手際よく調理を始める。深夜とは思えない活気だ。バーテンダーとして夜型の生活に慣れている俺でさえ、この時間の彼らの元気さに驚く。いったい何を摂取してるんだ?デスメタルでも聴いてるのか?...いやいや、それは俺じゃないか。


店内を見回すと、今夜もオヤジに加えて3人のスタッフが働いている。彼らの素性は謎に包まれたままだ。みな、どこか時間を超越したような雰囲気を纏っており、その佇まいは俺の好奇心を刺激する。客が俺一人なのに、なぜこんなに人手が必要なんだ?まるで、インド版「あまちゃん」の撮影現場みたいだな。それとも、この店で密かにボリウッド映画の撮影でもしているのか?...冗談はさておき、彼らの動きは無駄がなく、長年の経験を感じさせる。でも、その経験って一体何の経験なんだ?カレー作り?それとも...ま、考えるのはやめておこう。


15分後、カレーが運ばれてきた。スパイスの香りが鼻をくすぐる。一口食べる。本格的な味わい。リーズナブルな値段の割に、なかなか美味しい。毎晩、客の酒に合わせるおつまみを作っている俺でも、舌が唸るほどだ。


「イヤァ、深夜 営業、イイ! オキャクサン 来ル、ウレシイ!」


オヤジが嬉しそうに話しかけてくる。その笑顔に、俺は曖昧に頷く。確かに、こんな時間に開いている店があるのは便利だ。でも、客が来ない時間帯でも営業を続ける理由が何なのかは、正直よく分からない。


そんなことを考えながら、俺はカレーを口に運び続けた。深夜の静寂の中、スパイスの香りだけが鼻孔をくすぐり続ける。この店には何かある。何か秘密がある。そう確信している。でも、それが何なのかは分からない。分からないからこそ、俺はまた来るんだ。この不思議なカレー屋に。そして、いつかその謎を解き明かす日が来るのを、どこかで期待している。そんな自分がいる。


深夜のカレー屋。謎めいた空間。そして、その謎を追い求める俺。これが、バーテンダーとしての日常と、窮屈な自宅暮らしの間で揺れる俺の人生に、ほんの少しだけスパイスを効かせる、そんな儀式なのかもしれない。まあ、俺の人生自体がカレーみたいなもんだけどな。複雑で、時々辛くて、でも何故かやめられない。そう、まるで中毒のような、そんな感じ。ヤバいスパイスにハマった中年オヤジみたいだ...って、まさか俺の未来の姿?いや、それだけはご勘弁を。


自宅に着く。玄関の電気が消えている。静かにドアを開け、靴を脱ぐ。家の中は暗く、静寂に包まれている。そっと廊下を歩き、リビングに向かう。


「お兄ちゃん?こんな時間に帰ってきたの?」


突然、リビングから妹のカエデの声が聞こえてきた。俺は少し驚いて足を止める。


「ああ、カエデか。まだ起きてたのか。こんな遅くまで何してるんだ?」


リビングに入ると、ソファでごろごろしているカエデが見えた。彼女の前には開きっぱなしのノートパソコンが置いてある。


「うーん、レポート書いてたんだけど...」カエデが目をこすりながらソファから身を起こす。「気づいたら朝になりそうで...でも、お兄ちゃんこそ、こんな時間まで何してたの?バイトはとっくに終わってるでしょ?」


俺はため息をつきながら答えた。「ああ、仕事は終わったんだけどな。その後、ちょっとカレー食べてきたんだよ」


「え?カレー?」カエデの目が丸くなる。彼女は首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべる。「こんな時間に開いてるカレー屋なんてあるの?それにしても、深夜のカレーって胃に悪そう...」


「ああ、実はな」俺は少し得意げに説明を始める。「24時間営業のカレー屋があるんだ。『スパイス・オラクル』っていうんだけど」


「へぇ...」カエデは感心したような、怪訝そうな、複雑な表情を浮かべる。「でも、そんな時間に営業してて儲かるのかな?」


「さあな」俺は肩をすくめる。「でも、たまにはいいだろ。スパイシーなカレーで、仕事の疲れを吹き飛ばすってのも」


カエデは突然何かを思い出したように身を乗り出してきた。目がキラキラと輝いている。


「そうだ!お兄ちゃん、いいこと思いついた!」


「ん?なんだよ」


「明日ね、私、マヤ先生のところに行くんだけど」カエデが熱心に話し始める。「お兄ちゃんも一緒に来ない?きっと面白いと思うよ!」


「マヤ先生?」俺は眉をひそめる。「ああ、あの占い師か。相変わらずあんなところに行ってるのか」


「もう!そんな言い方しないでよ」カエデが膨れっ面をする。「マヤ先生、本当にすごいのよ。先月私が行った時も、ピッタリ当てられたんだから」


俺は鼻で笑う。「へえ、で、具体的に何を当てられたんだ?恋愛運とか?学業運とか?」


「えっと...」カエデは少し口ごもる。頬が少し赤くなっているようだ。「それは、ちょっと秘密...でも、本当にびっくりするくらい当たってたの!」


「ふーん」俺は適当に相づちを打つ。正直、あまり興味が湧かない。「まあ、俺はいいよ。そういうの、あんまり信じないしな」


カエデは更に膨れっ面を強める。「もう、つれないわね。マヤ先生はすごいのよ。私の未来も、お兄ちゃんの未来も、きっと見通せるはず。それに...」彼女は少し声をひそめる。「お兄ちゃん、最近なんだか悩んでるみたいだし...」


「未来か...」俺は遠い目をする。窓の外を見つめながら、ぼんやりと呟く。「俺の未来なんて、今のところ霧の中だよ」


「だからこそ、占ってもらうべきじゃない?」カエデが熱心に食い下がる。「きっと何かヒントがもらえると思うよ」


「いや、それでも...」俺は軽く頭をかく。「自分で切り開いていくしかないんだよ、結局は。占いに頼るのは...なんていうか、逃げてる気がするんだ」


「もう、しょうがないなあ」カエデは諦めたように肩をすくめる。「でも、いつか絶対連れて行くからね!」


「はいはい」俺は軽く手を振る。「じゃ、俺はもう寝るよ。おやすみ」


「うん、おやすみ、お兄ちゃん」カエデの声が背中に届く。「...でも、深夜のカレーは控えめにね」


俺は苦笑いしながら自室へと向かった。ベッドに横たわり、天井を見上げる。今夜のカレーの味が、まだ口の中に残っている。スパイスの香り。オヤジの不思議な笑顔。そして、あの店に漂う謎めいた空気。全てが混ざり合って、俺の中で渦を巻いている。


明日も、きっとあの店に行くんだろう。そう思いながら、俺は目を閉じた。外では、朝を告げる小鳥のさえずりが聞こえ始めていた。新しい一日の始まりを告げるその音が、どこか物悲しく感じられた。まるで、俺の人生のBGMみたいだ。

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