エピソード 4ー7
「――すまなかった」
襲撃があった翌日の早朝。
窓から差し込む淡い光が院長室を静かに照らす中、セイル皇太子殿下がいきなり頭を下げた。その姿勢には真摯な謝意が感じられるが、突然のことに私の心はかき乱される。
「セイルさん、なんのことか分かりません、まずは頭を上げてください」
「すまない、気が急いていたようだ」
セイル皇太子殿下がそう言ってまた頭を下げる。
私は「まずは席にどうぞ。詳しい話はそれから伺います」とソファに座るように勧めた。彼が冷静になる時間を作るため、紅茶を淹れると言って席を外す。
やかんから蒸気がゆらゆらと天井へ向かう中、私は不意に回帰前のやり取りを思い出した。セイル皇太子殿下の淹れた渋い紅茶を飲んだ私が、苦笑交じりに告げたささやかな約束。
『次の機会があれば、私が淹れて差し上げますわ』
……下手な紅茶を淹れる訳にはいかないわねと気合いを入れる。
実のところ、カタリナ叔母様に叩き込まれた技術に加え、現代の知識を持ち合わせている私は、紅茶の淹れ方にかなり自信がある。
まずはお湯でティーポットとカップを温める。そのお湯を捨てた後、ポットに茶葉を二人分入れて、沸騰直前のお湯を注ぎ込む。
重要なのは、途中で温度を下げないこと。
茶葉と水の品質、それにポットの形状とお湯の温度。これらがすべてベストの状態だと、ポットの中で茶葉が回るジャンピングという現象が発生する。私はそれが発生するのを確認し、軽く揺すって濃度を均一にしつつ、茶葉を漉してカップへと注ぎ込んだ。ゴールデンドロップと呼ばれる、最後の雫はセイル皇太子殿下のカップへと落とした。
お湯を沸かしているあいだに用意したクッキーとともにトレイにのせ、私は院長室へと舞い戻った。セイル皇太子殿下は、陽の光が柔らかく差し込むソファに深く腰掛け、肩を落としてうなだれていた。彼の顔には苦渋の色が濃く滲んでいる。
……よほど落ち込むことがあったみたいね。
ローテーブルの上に紅茶とクッキーを並べ、向かいのソファに座る。私は毒味を兼ねた所作で紅茶を一口、セイル皇太子殿下にも「お口に合えばよろしいのですが」と勧めた。
「ああ、いただこう」
彼は紅茶を口にして、わずかに目を見張った。
「あぁ……いい香りだ。それに……味も素晴らしい。これはアリーシャが淹れたのか?」
「ええ。気に入っていただけたようでなによりです」
「もしや、これは幼少期に学んだのか?」
私は答えず、無言で笑みを深めた。
「すまない、失言だった。いまのは忘れてくれ。それから……カタリナ侯爵夫人から、人違いをしたと聞いている。……迷惑を掛けたようですまなかった」
もちろん、セイル皇太子殿下はそれを信じていないはずだ。だが、そういうことになった。それに異論を唱えるつもりはないという迂遠な意思表示だろう。
「私とその方はよく似ていたと聞いています。見間違うのも無理はないでしょう。ところで、さきほどの謝罪は、その誤解の件でしょうか?」
私が問えば、彼は沈黙して紅茶を口にした。それから一呼吸置いて、「いや、そうではない。謝罪は今回の襲撃の件だ。恐らく、あれは俺に対する嫌がらせだ」と告げた。
予想外の告白を受け、私は返答に迷う。既にお互いがお互いの正体に気付いているけれど、表向きは互いに気付いていない振りをしているからだ。
「あえて理由は言わないが、今回の一件は俺に敵対する者が、俺の出入りしている孤児院にちょっかいを掛けたというのが真相だと思っている」
「……そうだとして、なぜそのことを私におっしゃるのですか?」
私はその真意が知りたくて首を傾げた。
「俺は、おまえから手を引くつもりはない。だが、おまえを危険に晒すことは望んでいない。だから、俺は今日、この街を発つつもりだ……と、告げるためだ」
予想外の言葉。私は想わず耳を疑った。
「なにをおっしゃっているのですか? 襲撃は貴方の差し金ではないのでしょう?」
「だとしても、俺がおまえに迷惑を掛けたという事実は変わらない」
セイル皇太子殿下の言葉から明確な意志を感じて息を呑む。まさか、そんな決断を下すなんてと焦って、ふと我に返った。私は……どうして焦っているの?
遠くからでも彼を助けることは出来る。彼が私の下から離れても困ることはないはずだ。
むしろ、セイル皇太子殿下が私の正体に追求しないと言っているのだから都合はいい。動揺する理由なんてないはずだ。……ない、はずよね?
「……アリーシャ?」
彼の声が私の名前を口にする。私はきゅっと唇を噛んだ。それから視線を彼に向ける。
「……貴方の存在が私に迷惑を掛けてしまう、ですか。こう言ってはなんですが、貴方はうぬぼれすぎではありませんか?」
「……なんだと?」
「私は魔導具以外にも、いくつも取引を予定しています」
「湯沸かし器の魔導具のようなものを、か?」
信じられないという顔をする。セイル皇太子殿下に向かって、私は力強く頷いた。
「孤児院はこれから豊かになっていきます。嫉妬が向けられるのはもちろん、直接的な脅威も現れるでしょう。だから、貴方が気を遣う必要はありません」
子供達を脅威から守るのは私の役目だ。だから、今回子供達を不安にさせてしまったのも私の責任だ。セイル皇太子殿下が気にすることはない。私が孤児院の警備体制を強化すれば問題は解決する。
「……おまえは、変わらないな」
懐かしむような表情。どうしてそんな表情をと、私は息を呑んだ。
まさか、回帰前のことを言ってるの? いや、そんなはずない。回帰前の記憶があるのなら、これまでの行動はおかしすぎる。だったら……子供のころに会っている?
「……その様子だと覚えていないのだろうな」
私は「ごめんなさい」と目を伏せた。
「いや、かまわない。おまえが忘れていても、俺は約束を覚えているからな」
「……そう、ですか」
どうやら、私はセイル皇太子殿下と幼少期に約束をしていたらしい。私はそれを覚えていない。だけど彼はそれでもいいと言った。その気持ちは少しだけ分かる気がする。
私も同じだから。
セイル皇太子殿下が忘れてしまっていても、私は回帰前の彼から受けた恩を覚えている。彼が二度と思い出すことがなかったとしても、私は彼への恩返しを止めるつもりはない。
「まぁそういう訳で、俺は今日中にここを発つ」
「私は気にしないと申し上げたはずです」
「俺は気にする。それに、いつまでも王都を離れる訳にはいかないからな」
「……なにを言っても無駄のようですね」
セイル皇太子殿下は静かに、けれど寂しげに頷いた。
この決断を変えるのは無理だろう。そう思った私は席を立った。それから金庫を開けて、事前に用意していた手紙を取り出した。それに封蝋をしてセイル皇太子殿下に差し出す。
「……これは?」
「選別です。いま見られると恥ずかしいので、王都に着いたら開けてください」
私が微笑むと、彼は「そうか」といって受け取った。彼は優しげな目で私を見下ろした。
「アリーシャ、短い間だが楽しかった」
「私は……少し物足りなく感じています」
「……そうか。なら、いつかまた俺がここに来たときは、もう少しおまえにかまうとしよう」
セイル皇太子殿下はそういって私の頬に手を伸ばした。そうして私の頬をそっと撫で、「そのときはまた、あの紅茶を淹れてくれ」と笑った。
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