第十一章 第五節 「地獄の門を開いて」

 目が覚めると、見覚えのない真っ暗な部屋の中にいた。目を凝らすとしっかり紫塔さんたち三人がいるのが分かった。


「……」


 暗い、ということは夜なのかな。窓は見えない。もしかしたらカーテンか何かで覆っているのかもしれない。ポケットに携帯があるかとも思ったけれど、どうやらない。せめて時間だけでも、と思ったのだけれど。




 気分が悪い。気持ちが重くて、どうしようもない気持ちになる。目の前で燃える先生の姿を見てからそうだ。あれから気分が悪くなって、気を失って。目覚めた今でも油断するとまた吐きそうだ。


「……」


 部屋の中はずっと静かで、耳鳴りがしてくる。他の三人が寝ているのなら、寝息の一つもしてきそうな気がするけれど、なぜか聞こえない。起きているのかもしれない。




 胸に手を当てる。あの時感じた、嫌な心臓の鼓動がフラッシュバックして、苦しくなる。私、……どうしちゃったんだろう。


「はぁ、はぁ」


 鮮烈に湧き上がってくる記憶に、またあの時のような苦しさが戻ってくる。やめよう、やめよう、と頭を振るけれど、一度入ったスイッチはなかなか切れなかった。


「あ、ああ……」


 ――助けてほしい。なんなんだ、この苦しさ。私が入ってしまったこの沼は一体なんだろう。分からない。分からないものに手を引っ張られている。


「――!」

「晴香……!?」


 どうして一人起きたのかと思ったのも、その理由に思い当たったのもワンテンポ遅かった。叫んでいたのだ。考えるより先に。


「晴香……起きたのね」


 姿は分からないけれど、声は紫塔さんの物だ。でも彼女の声はとても不安げだった。


「……紫塔さん」


 名前を呼ぶと、彼女はこちらへと近づいてきた。そして、私の横に座った。


「ここは……?」

「近くにあった空きビルよ。……あれから日が暮れるまで、ここで過ごしているわ」

「え……?」

「もう、私たち、かなり活動が厳しくなってしまったのよ」


 思い出した。私が気を失う前、紫塔さんは足を撃ち抜かれてケガをしていた。紗矢ちゃんも重傷を負っていたし、シェリーはもはやどうだったかも分かっていない。紫塔さんがそう言うってことはもう、ロクな状態じゃなかったんだろう。


「ごめん」


 とっさに出た言葉。自分でも何か変だと思った。


「あなたのせいじゃないわ」


 彼女の慰めはサラッとしている。


「……明り、つけましょうか」


 すると紫塔さんはポケットを探った後、取り出したものを使った。ピカッと、突然の眩しさに目がくらむ。でも、喋っていた紫塔さんの顔が見えて、少しだけ安心する。他のみんなの姿も見えた。薄い毛布を被って寝ている。


「今何時?」

「もう夜の十時よ」


 ……随分長く気を失っていたんだ、私。ぐぅ、とおなかが鳴った。そう言えば、昼から何も食べていない。途中で吐いてもいるから、空きっ腹なのは当然だった。


「ごめんなさい晴香。こう長期な突撃になると思っていなかったから、ご飯がないのよ」

「……そうだよね」


 悲しい気分が重くなる。自分たちの辿ってきた道は、やっぱり無謀だったのかな。


「ねえ、晴香。聞いてもいい?」

「なに?」

「あの時、どうしてしまったの?」


 聞いてくるよね。あの路地で一体私に何が起きて倒れてしまったのか。


「ケガは、してないわよね? あの金髪の男に変なものを吸わされた、って訳でもない……わよね」

「そうだね」

「……どうしてしまったの? 体調が急に悪くなったの?」

「……。わからないんだ」


 そういうと、紫塔さんはきょとんと首を傾げる。


「あの先生が燃える姿を見た瞬間、何か、……おどろおどろしい気持ちが湧いてきて……それが、自分でも感じたことのないくらい、大きくなって……」

「…………なるほど?」

「この気持ちに向かい合うと、たぶん、恐ろしいことを突きつけられる気がして……ごめんね」


 私は怖くてこれ以上この気持ちに向き合いたくない。でも紫塔さんが知りたいのはこの先なんだ。


「……やっぱりあなたに何が起きているのか、分からないわ。私が解決できることなら、なんでもしてあげたいけれど」


 彼女の目を見ると、不安に揺れている。そんな彼女を見るのはほとんどなかった気がする。紗矢ちゃんが弱音を吐いていた時だって、彼女はこんな感じじゃなかった。金髪と先生に挟み撃ちにされた時だって、彼女は不安な素振りは見せなかった。それなのに、今、彼女はとても崩れそうな顔をしていた。


「晴香、話せる時が来たら、話してほしい」

「うん」


 紫塔さんは別れ台詞のような事を言った。けれど彼女が私の横を離れる様子はなかった。


「紫塔さんは、おなかすいてない?」

「平気よ。……これくらい」


 強がりだけれど、きっと空いている。


「ここを出るのは、難しいってことだよね」

「そうね。昼の二人を倒した影響で、かなり相手側の警戒も強まってる。下手に出たら捕まるわね」

「気配消去があればどうにかできるんじゃない?」

「先生に銃を渡したっていう狙撃手がまだ姿を表していない。きっとそいつは、先生同様こちらを看破できるでしょう。そいつが居場所を仲間に知らせるなり、自らの手で撃ってくるなりされる危険があるの」


 なるほど……やっぱり厳しい状況には変わりがない。




 少し紫塔さんと喋り込んだけれど、シェリーと紗矢ちゃんが起きてくる様子はない。疲れてしまっているのかも。


「シェリー、体調どうだった?」

「あの金髪の男に変な薬品を吸わされてしまったようね。……どうして撃たなかったのかは、分からないけれど」


 あの男の口ぶりなら、容赦なくシェリーを殺してしまっていても不思議ではなかった。そうなってたとしたら、もう今頃私は気が変になっていたかもしれない。


「……」


 お風呂に入りたい。ご飯が食べたい。ぐっすり寝たい。そんな日常的な欲求がふと沸き上がった。紫塔さんの言っていた通り、二日以上に渡る計画じゃなかったのが響いている。きゅっと、心が締め付けられるような感じがした。余裕がない。


「ねえ、紫塔さん」

「どうしたの?」

「……紫塔さんは、辛くない?」


 訳もなく聞いてしまった。


「……。どうでしょう。でもこうでもしないと、私はもう先は長くなかったわ」

「そっか」


 紫塔さんは、やっぱ強いや。そこで自分の気持ちを抑えられるのが、強いと思った。


「私は……怖くなっちゃった。自分でも、意気地なしだって思う。……」


 すぅ、と息を吸う。気持ちを吐き出す準備だ。


「みんながバタバタ倒れて、その中でどうにかあの男たちを倒して、最後に先生を燃やした時に――なんだこれ、って思ったんだ」


 紫塔さんが横目でこっちを見ながら、聞いてくれている。


「私は――むごいことをやったんじゃないか、とか、もう戻れない、とか……もう取り返しのつかないところまで来ちゃったんだな、っていうのが……津波みたいに流れ込んできて……そりゃあ気持ちの整理はつけてたつもりだよ? これから激しい教会との戦いで、惨いことが起こるかもしれないって。でも……実際に目の前で起きて、起こしたら……やっぱり、異常な事だって、感じちゃったんだ」

「晴香……」


 紫塔さんの声が揺れる。ごめん紫塔さん、これがなんとか形にできた、私の本当の気持ちだ。


「正直、このおどろおどろしい気持ちが無くなるかどうか、自信がない。この後ずっとずっとついて回る感情なのかもしれない。そのせいでこの計画に影響が出るかもしれない。――この計画が終わった後も、もしかしたら一生背負っていく気持ちになっちゃうのかもしれない」

「……」


 ぽん、と肩を叩かれた。それは隣にいる友達の手だ。紫塔さんがこんなスキンシップを取る人じゃないと思っていたから少し驚いてそっちを見ると、彼女の目が真っ赤に腫れているのが見えて更に驚く。


「晴香……ごめんなさい」


 それから紫塔さんは崩れ落ちるように私の腕に顔をうずめる。嗚咽おえつを漏らしながら、私の袖を濡らしてくる。そんな、紫塔さんのせいじゃないのに、弱い私が駄目なのに。





 紫塔さんはずっとずっと泣き続けた。なんでそこまで泣くの? と思わずにはいられなかった。人間はここまで大泣きできるんだ、と思いながらも彼女が落ち着くのを待ち続けた。

 涙が枯れた後も紫塔さんはどうにか泣こう、泣こうと嗚咽を漏らす。ぐしゃぐしゃの顔が見えて、私まで胸が痛い。いや……最初から痛かったのかもしれない。もしかしたら私が目を向けなかった痛みに、彼女が代わりに泣いてくれているのかもしれないと、少しだけ思った。


「紫塔さん、どうして紫塔さんが泣いているの?」

「……あなたが背負わなくていい重荷おもにを、背負わせてしまったからよ……っ」


 一瞬だけこちらに向いた目は、もう悲しいとかそんなもので言い表せるような色ではなかった。いろんな大きな感情があふれた跡が見えた。


つぐなうしかない、私が、全てをかけて、あなたのその重荷が少しでも軽くなるように、償う……」

「なにを、言って……?」

「あなたは解ったのよ、自分たちの手で、誰かを殺める重さを、その不可逆性フカギャクセイを! 誰よりも、真っすぐに受け止めてしまったのよ……!」

「っ……、えっ……!?」

「やっぱり、あなたは……私と来てはいけなかったのよ」


 そんな……。そんなことを、なんで言うんだ……?


「ごめんなさい、ごめんなさい……」






 以前彼女が私を拒否していた理由が分かった。魔女マジョ運命ウンメイを背負う事。そのうえで避けられないツミを背負う事。私は覚悟かくごしていたと思う。……していたはず。

 紫塔さんはそう生きてきた人だ。




 じゃあ――紫塔さんがそれを“誰かに背負わせる”覚悟は?






 ああ、と腑に落ちた。紫塔さんは最初から言っていたじゃないか。私と仲良くすることを拒み続けていた。それは、彼女自身が『誰かに罪を背負わせる』覚悟がどうしても出来なかったからだ。だから今、彼女は必死に謝り続けている。なんて……。


「紫塔さん……優しいんだね」


 もう彼女を宥めることしかできない。腕は自然と彼女を抱きしめる事を選んだ。


「え……?」

「謝らないといけないのは……私かもしれないね」

「違う、違うのよ……」

「いいんだ、紫塔さん。もう、私は戻ることはできない。だから、……もう謝らないでいい」


 濡れた袖がまだ温かい。彼女の涙を止めるには私が罪を許容するしかないような、そんな気がする。


「紫塔さん……これは、私が選んだ道だよ。紫塔さんが気負う事なんてないんだ」

「でも……晴香、あなたが一生抱えるものは……」

「罪は消えないかもしれない、私の中に一生よどんで残るかもしれない。でも、私は……それでいいんだ。それで紫塔さんを幸せにできるなら、それでいい」

「……っ!」


 首を二度三度横に振って、紫塔さんはその答えを拒んだ。


「私……っ、私が……」

「約束して、紫塔さん。――しあわせになって」


 私の心からの願い。彼女が背負わせてしまった私の罪。それを昇華するとしたら、もうそれしかないと思った。


「きみの幸せが、私の願いだから」

「……晴香」


 まだ泣こうとした紫塔さんを優しく抱き寄せて、もうちょっとだけ気持ちが伝わってほしいと願った。言葉だけじゃきっと伝わり切っていないと思ったから。


「だから……これからも一緒に進もう。この運命ウンメイを断ち切ろう」


 今見えた。私の中で、罪をただ受け止めて、それでも進む覚悟が。私自身が恐れても、彼女の幸せを願うなら……。


「……ええ。ならば……共に行きましょう、地獄の果てジゴクノハテまでも」

「望むところだよ」


 もし私が罪の重さにくじけそうなときには――ただ一度だけでいい、彼女の幸せのために奮える勇気が出せますように、そう祈った。

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