1-6 体調が悪いと思考は弱る
フローラが目覚めたのは救護室のベッドだった。状況が理解できず、真っ白い天井を見上げて、しばしぼぉーっとする。なんで私はこんなところで寝てるんだっけ? と寝起きでまとまらない思考で考えていると、煌めく銀髪が視界を覆い尽くした。
「フローラ、目が覚めた?」
心配そうな顔でフローラの顔を覗き込んでいるのはエンジェリカ。至近距離で見るには眩しくて、フローラは顔を手で覆う。その行動を頭が痛いためだと判断したらしいエンジェリカは、慌ててベッドの横においてあった水桶から濡れた布を取り出して、フローラの額に置いた。
魔道具を使っているのか、布はよく冷えていた。気持ちのよさにフローラは息を吐く。
「フローラ、自覚なかったみたいだけど、熱あるんだよ」
「えっ!?」
思わず起き上がろうとして、頭がぐらりと揺れた。「無理しないの」と言いながらエンジェリカが体を支えてくれて、ベッドに横たわらせてくれる。
「っていっても、微熱程度だからちょっと寝てればよくなるってさ。昨日から調子悪かったんでしょ。言ってくれればよかったのに」
エンジェリカはそういいながら、動いたことで額からずり落ちた布を直してくれた。熱があると分かった瞬間、気持ちが悪くなった気がするのだから、体とは不思議なものだ。
昨日から混乱することが多かったから、心よりも先に体が限界を迎えたのかもしれない。もともと頭がいいとは言えないのに、いろんなことを考えすぎてしまった。
納得したところでフローラは気絶する直前のことを思い出す。再び勢いよく起き上がろうとしたフローラを、その行動を予期していたらしいエンジェリカが止めた。
「はい、はい、落ち着いて〜。深呼吸して〜」
「えっ、エンジェリカ! えっとあれ、あの、ディラン……じゃなくて、クーパーさんは!?」
「気絶したフローラをここまで運んでこようとしたから、止めた」
つまり、目が覚めたらエンジェリカではなく、ディランの顔が目の前にあったかもしれないということだ。
フローラはエンジェリカの手を両手で握りしめた。
「ありがとう〜! 女神様!」
「女神様は恐れ多いから、天使様って言ってほしいな」
「天使様! エンジェリカ様! ほんっとありがとう! たすかった! 危なく死ぬとこだった!」
「そんなに!?」
エンジェリカが困惑した顔でフローラを見下ろす。大げさだと思っているのだろうが、全くそんなことはない。フローラにとってはまさに死活問題。せっかく目が覚めたのに、再び気絶するところだった。それだけ、推しの破壊力は凄まじい。
「それよりも、ディラン・クーパーとなにがあったの。いきなり結婚申し込まれるって、どういうこと? 顔はいいけど性格は冷酷無比の氷結男って聞いたけど」
「……入学して一週間でそんな噂広まってるの……」
なにしたのディランとフローラは思ったが、ルートに入る前のイヴへの当たり強さを思い出して納得してしまった。ヒロインに対してもあれなんだから、モブに対してはさらに酷かったのだろう。
だからこそ不思議で仕方ない。
「……なんで私、結婚申し込まれたの?」
「それ、私が聞いてるんだけど」
天井を見上げて唸るとエンジェリカに呆れた顔をされた。
「昨日なんかあったんじゃないの?」
探るような視線を向けられて、フローラは目を逸らした。事情をすべて説明するとなると、ディランが闇属性であることも話さなければならない。エンジェリカは良い子だから、闇属性に対する偏見はないと思う。だからこそ巻き込みたくはなかった。
この世界において、闇属性への差別意識は根強く、未だに教会は闇属性狩りを行っている。ディランの属性がバレたら、その秘密を知る人間だってただでは済まない。ゲームでもイヴが散々な目にあっていた。
イヴは攻略対象との人脈、魔法の才能、ヒロインの魅力や女神の申し子と言われる、幸運で切り抜けた。
だが、フローラにはなにもない。エンジェリカを守る力なんてないのだ。
「学院の探検中に偶然あって、ちょっと挨拶したくらいだよ」
だからエンジェリカには真実を伝えるわけにはいかない。そもそも信じてもらえるとは思えない。前世のことも、ここが乙女ゲームの世界だということも、あまりにも妄想じみている。その妄想みたいな世界に自分がいるということに、あらためてフローラは気が遠くなりそうになった。やはり転生や転移は、他人事だから楽しめるのだ。当時者になったらそれどころじゃない。
ディランの真意が読めないこともあり、熱以外の頭痛を覚えて額に手を当てる。ひんやりとした布の感触で少しマシになった気はするが、この先どうすればいいかはまるで分からない。聡いエンジェリカにも何かを隠していることは筒抜けのようで、不満そうな顔をしている。気になっているだろうに、フローラが話すまで待ってくれるつもりなのだろう。エンジェリカはため息交じりに次の話を始めた。
「教室は大騒ぎだったよ」
「だよねえ……」
当事者でなければフローラも騒いでいた。イヴなら納得だが、ディランが求婚したのはモブのフローラだ。意味がわからない。ディランと話したのは昨日が初めてだ。記憶が戻る前からカッコいいな思っていたが、声をかける度胸なんて全くなかった。ただ、遠くから眺められればいいと思っていたのだ。前世、宏一に向けたのと全く同じ行動に、転生しても自分は変わらないなとフローラは内心苦笑する。
「熱でもあったのかな?」
「……熱があったのはフローラでしょ」
エンジェリカに呆れを通り越して、残念なものを見る目を向けられた。事実、熱があったのはフローラだが、熱もないのにディランがあんな行動を取るとはフローラには思えない。
考えられるのは口封じだが、ゲームのやり方とあまりにも違いすぎる。ゲームのディランはイヴが一人でいるところを狙い、喋ったら殺すと脅した。イヴに接触してくるのはほとんど夜で、イヴと接点があることすら周囲に隠したがった。
それに比べ、先程のディランはあまりにも堂々としていた。復讐のため、目立つことも避けているはずなのに。
「ゲームとは違う?」
「えっ、なに?」
フローラの呟きにエンジェリカが首を傾げる。口に出ていたことに驚いて、慌てながらフローラは「なんでもない」と誤魔化した。
けれど、頭の中では疑問がグルグル回っている。なにか重要なことを見落としているような気がするのに、なにを見落としているのかが分からない。真面目に考えようとすると頭が痛み始め、フローラは小さくうめき声をあげた。
「……やっぱり、気持ち悪いかも。ここで寝ていく」
自覚した途端、熱が上がってきたような気がする。これは大人しく寝た方が良さそうだと、フローラはエンジェリカを見上げた。
「そうして。先生には言っとく」
エンジェリカは心配そうにフローラの顔を覗き込むと、髪を優しく撫でてくれる。それだけでぐちゃぐちゃだった気持ちが、少しスッキリした気がした。
「エンジェリカ、ありがとう」
「私はフローラの天使様だからね」
エンジェリカは冗談めかしてそう笑ったが、その笑顔はまさに天使。見ているだけで心が浄化され、翼が生えて空が飛べそうな気すらする。
「これがファンサ……!」
「……フローラ、昨日から意味不明な言動に磨きがかかってない?」
怪訝な顔をするエンジェリカを見ていたら、なんだかおかしくなってきた。頭がふわふわする。寝ようと思った途端、急に眠気が襲ってきた。
眠気でぼんやりする思考の中、実はすべて夢なんじゃないかとフローラは考えた。死んだのも夢で、目が覚めたら宏一と暮らす部屋の寝室で、リビングに行ったら宏一がいるんじゃないか。今見ているのは長い夢なんじゃないか。そうであったらいいなと思った。
「……ごめんね、エンジェリカ」
眠気に意識が負ける直前、本音がこぼれた。眠くてエンジェリカの顔はよく見えない。聞こえていなければいいなと思った。
こんなに素敵な友達がいて、家族にも恵まれていて、魔法学校にも通えるのに、前世への未練が消えない。残してきた大事な人の存在が気になって仕方ない。この世界が夢であったらいいと思ってしまう。なんて薄情な人間だろう。
「フローラは何も悪くないよ」
最後に聞こえた言葉は、罪悪感から逃れたいがための幻聴だったのだと思う。だってあまりにも、それはフローラに都合が良すぎた。
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