1-3 推しの顔は心臓に悪い

 どうしよう、ダッシュで逃げる? いや、無理でしょ。相手、ディランだし。と、フローラの頭の中は大混乱だった。何か上手い言い訳はないかと考えている間に、ディランはずんずんと近づいてきて、あっという間にフローラの目の前に立つ。


 紫色の綺麗な瞳がフローラを見下ろしている。わぁ、綺麗。なんて見とれる余裕はない。推しが目の前にいるのに喜ぶどころか、冷や汗がダラダラと流れている。今ここにいるのがイヴだったら、ゲームで見たスチル! と大はしゃぎ出来たのに、自分がヒロインの立場になったら全く楽しめないことにフローラは気づいた。

 だって、生きるか死ぬかの瀬戸際なのである。イケメンだ! カッコいいなんて、瞳をハートにしている余裕などない。イヴはこんな威圧的な男を前にしても引かずにいたのだとフローラは気づいて、改めて主人公の強さを感じた。フローラには無理である。


「えっと、ぐ、偶然ですね、クーパーさん! わ、私は同じクラスのフローラ・フローレスと言いまして!」


 視線を彷徨わせながらフローラは早口で自己紹介した。まるっきり不審者だが、どうすればいいのかフローラには分からない。顔をバッチリ見られてしまった。

 ディランの身体能力は攻略対象の中でも上位に位置する。フローラは前世と同じく運動オンチなので、走ったところで木の幹に足をとられて壮大に転けるのがオチだ。

 となれば口で説得するほかないのだが、ディランに思いっきり不審者を見る目を向けられている現状、早速心が折れそうになっていた。


「でぃ……クーパーさんは、学院に慣れました? 私はまだ慣れなくて、道に迷っちゃったりなんかして、なんか彷徨ってたら林が見えたから、わーい、林だー! って入ったら、クーパーさんの姿が遠目に見えまして」


 わーい、林だってなんだ。もう思いつくままに喋っているので、フローラ自身、何を言っているのか意味が分からない。これではヤバいものを見てしまったと自白しているようなものである。

 もうこうなったら、いっそひと思いに。これ以上、生き恥さらす前にと、首を差し出す覚悟でフローラはディランへ恐る恐る視線を向けた。きっと吹雪の雪山みたいな顔でこちらを見下ろしているんだろうと思ったが、目に飛び込んできたのは予想外のものだった。


 ディランは目を見開いてフローラを見下ろしていた。ゲームの立ち絵でみた、驚きの表情だ。だが、ここでその表情を浮かべる意味がフローラには分からない。あまりに意味不明なことを言っているので、何だこの生き物と驚愕しているにしてもおかしい。ディランの性格から考えて、向けられるなら侮蔑か軽蔑の表情のはずだ。


「……クーパーさん?」


 固まったまま動かないディランに、困惑よりも心配が勝った。こんな見ず知らずの不審者に素の表情を見せるなんてディランらしくない。何度も、何度もディランのルートはクリアしたのだ。ディランの性格は誰よりも分かっている自信がある。


「なにか、心配ごとでもあるんですか?」


 ディランがこんな反応をするなんて、よっぽどのことだ。何があったんだろうと心配になりながらフローラが問いかければ、ディランは一拍おいて泣きそうな顔をした。その反応は初めて見るものだった。


 それにフローラは驚いた。考えてみれば当たり前のことだ。ここはゲームじゃない。事前に用意された立ち絵やスチルでしか表現されないゲームとは違い、ディランにはもっと多くの顔がある。きっとゲームでは描かれなかった、フローラの知らない顔もある。その事実に気づかず、ディランの全てを知った気になっていたことに気づいて恥ずかしくなった。


 フローラは思い上がった自分から目をそむけたくて、ディランから目をそらす。自分でも何を言っているか分からないまま、思いつくままに言葉を口にして、足早にその場を去ろうとした。走り去ろうとしたフローラの手が力強く引っ張られる。ディランに引き留められたのだと気づいて、さらにフローラは驚いた。驚きのあまり、逃げるのも忘れて振り返ってしまった。

 そこにはやはり、見たことのない顔をしたディランの姿がある。その顔が、前世に残してきた彼と重なって、心臓が大きな音を立てた。


「フローラ、君は……!」

「す、すみません!! 失礼します!」


 強引に手を振り払って、今度こそフローラは逃げ出した。運動オンチなんて言ってられない。今逃げなきゃいつ逃げると、必死の逃げ足を披露した。

 といっても、体力のないフローラは林を出てすぐに力つき、学院の壁に手を当ててゼェゼェと荒い息をつく。ディランが本気で追うつもりだったら、あっさり追いつける雑魚具合だったが、ディランは追ってこなかった。


 闇魔法を見てしまったことに気づかれなかったのか、フローラごときモブ、その気になればすぐに殺せると見逃されたのか。どちらかは分からないが、今のフローラには有り難い。

 息を整えながら混乱した頭を整理していく。いくら推しとはいえ、現実となったここで不用意にディランに近づくのは危険だと身にしみた。

 何より……。


「心臓に悪い」


 フローラは壁に額を押しつけるようにして、ずるずるとその場にしゃがみ混んだ。作りたての制服が汚れる。寮に戻ったらエンジェリカに呆れられるかもしれない。けれど、この暴れ出しそうな気持ちをどうにか落ち着かせたかった。


「あの顔、宏一こういちくんにそっくりだった……」


 その名前を呼んだだけで胸が痛む。口に出したら、フィルターがかかったようにぼんやりしていた前世の記憶が、急激にクリアになった。

 死ぬ直前、最後に宏一を見た時の記憶が鮮明に思い起こされる。高熱でうなされ、行くなと言った宏一に対して前世のフローラは軽く笑った。大丈夫、すぐ帰ってくるからと。買い物にいった帰り道、車にひかれて死ぬなんて、当時のフローラは考えてもいなかった。

 

 大学二年生の夏、池田鈴はあっさり死んだ。幼馴染みであり自慢の彼氏、安藤宏一を残して。

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