第8話 ペンションへ

 まだ、沢山歩くということが出来ない俺は、とにかく少しずつ歩くということを目標にした。

 塵も積もれば山となる。それも、コツコツと毎日やること。結果を急いではならない。

 繁華街で歩いていると、いろんな人が歩いている。お陰で歩き方を知ることは出来た。

 しかし、それでは俺は、まだ満足できなかった。

 目標としている、真っすぐ歩くということを、とにかく極めたかった。

 地元の近くにある小さなペンション。

 俺にとっては、繁華街よりも歩いていて、面白さに欠ける。が、歩く練習をするには丁度いい、そんな簡素な立地。

 ここ何日か、俺はこのペンションへ、通い詰めている。ペンションには俺と同じように、真っすぐ歩けないような奴もいる。

 特に、昨日は最悪だった。

 2時間以上の時間を費やしたのに、俺は周りの人間に足を引っ張られ、一切前に進むことが出来なかった。

 なかなか空回りばかりしているという、自覚はあった。時々、歩くことすら諦めそうになる。このまま歩くよりは、なにもしないほうがいいのではないか、とか、いっそ死んだほうが、前よりも早く歩けるのではないか、などと思ったりもした。

 しかし、俺は諦めるわけにいかない。

 死なんて、一種の逃避でしかない。それは、停止か、後退だ。

 前よりも歩けるようになる方法。それは、歩き続けること。それしかない。

 膝をつくたびに、足の裏に痛みが走るたびに、ずっと、しっかりと、心に刻み付けた。

 あの高みへ、彼らの居る場所へ、俺はどうしても行きたい。

 まっすぐ歩き、誰もが崇拝し、尊敬する。そんな彼らのように。

 俺はまだ、その一歩すら進めていない。どんなに歩く練習をしても、ちっとも前に進めていない。

 努力が足りていないのだ。これは、単なる怠慢だ。

 人は誰しも、最初は真っすぐに歩けない。世の中にはまっすぐ歩いている人は沢山いる。その人たちがどれだけ歩くことに苦労しているか。この数年間で、俺はたくさん見てきた。

 中には、本当に歩く才能というものを持っている人間も沢山いた。

 反対に、歩く才能が全くないような奴もいた。

 そのどちらも、歩く努力をして、自由に歩けるようになっていた。

 だから、俺だけが、真っすぐ歩けないなんてことが、あるわけがない。

 俺は、真っすぐ歩くことから逃げ続けてきた。彼らは違う。まっすぐ歩く努力を続けてきた。

 今は、まっすぐ歩けなくてもいい。とにかく、進むことだ。

 まっすぐな歩き方は、頑張っていれば、絶対にできるようになる。

 そのためなら、誰にも理解されなくてもいい。

 誰にも認めてもらえなくてもいい。

 真っすぐ歩いて、前に進めるようになりたいだけなんだ。

 人の歩いているところを見るのは、歩き方を学ぶのに好都合だ。

 俺が歩こうとしているところを見た人間も、きっと俺の姿を、歩くための参考の一部にするに違いない。

 大事なのは、歩けると信じて、歩みを進めることだ。

 歩けると信じた時、必ず前に進むことが出来ることを、俺は知っている。

 このペンションは、俺の第二の家だ。

 ペンションのドアを叩く。


「こんばんは」


 キィィ。


 ペンションのドアから、男が姿を現す。


「今日は帰ってくれないか」


 男はドアを開いたまま、無表情で語る。


「誤解しているようなら言っておく。さっきの事故は、俺のせいではない」


 慎重に言葉を選びながら、返答する。

 俺は、もしかしたら、この人が失望するようなことをしてしまったのだろうか。


「君とは一緒に遊びたくないから、今日は帰ってくれないか」


 神妙な面持ちで語る男は、帰ってくれとは口でいうものの、ドアを強制的に閉めようとしたりすることはなかった。


「それはみんなが嫌がるからですか? だったら、貴方に一切迷惑の掛からないように振舞いますよ」


 慎重に、慎重に言葉を選んだ。

 俺は、まだ諦めてはいけない。俺は、まだなにも成すことが出来ていない。

 こんなところで、終わるわけにいかないんだ。


「見ず知らずの他人を虐めるようなやつと、僕は一緒に遊びたいとは思えない。今日は帰ってくれないか? 別に、もう二度と来るなってことじゃないんだ」


 この人とこんなやりとりをしていることが、既に苦しくてならない。どうしてうまくいかないんだろう。いや、うまくいかないと思い込んでいるだけだ。もう少し頑張れば、きっとうまくいくはずだ。


「考えを改めますので、そこをなんとか」


 長々しく言葉を並べても、聴衆の不安を煽るだけだ。


「今日は無理だ」


 きっぱりと断られた。これ以上は空気を悪くするだけだ。


「……わかりました。諦めます」


 俺は彼へ、持っていた小さな手土産を渡し、ドアを閉めた。


 キィ、バタン。


 大丈夫だ。俺はまだ死んでいないし、足を失ってもいない。


 それでも大きな絶望で、しばらくは、ひたすら虚空を見つめることしかできなかった。

 今までやってきたことが全て無駄だったようにすら思えてきて、そして、誰にも理解されなくていいと思っていたはずなのに、理解されないということが、これほど辛いことだと改めて感じた。


 本当に自分は、どうしようもない存在なのだと。


 どこへ行ってもまっすぐ歩くことが出来ない、そんな人間なのだと。



「帰ってくれて本当によかった、もうこれ以上、悠一がこのペンションで、苦しむ姿は見たくない。あいつがいるべき場所は、こんな安っぽいボロペンションなんかじゃない。本当のことを言えば、繁華街にも来てほしくはないんだ。……光一みたいな人がいてくれて、本当に助かるよ。俺一人だったら、悠一にこんな態度をとることも、無かっただろう……」


<了>

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