2/2 冷凍庫

 彼は優しい。否、優しいを通り越した、馬鹿なお人好しだ。泣いている子をあやすために服を泥だらけにしたり、おばあさんの荷物を持ってあげて待ち合わせに遅刻したり。今着けているギプスだって、木に引っかかった風船を取ろうとして足を滑らせたせいだ。自分を省みずに人を助けられる優しさもひたむきさも尊敬するけれど、自己犠牲は嬉しくない。もっと自分を大切にして欲しいと何度伝えても、彼は困ったように頷くだけで、自己犠牲を辞めようとしない。彼のその精神は、治りようのない病的なものだ。心配と呆れを飲み込んで彼と共に居続けるには、そう思うしかなかった。

 シャワーから戻ると、彼は眠ってしまっているようだった。窓は網戸のまま、雨がパラパラと降り込んで窓の桟をぬらしている。起こさないように気をつけながらそうっと窓を閉め、持ってきていた薄手のカーディガンを彼にかけた。起こそうとも思ったけれど、雨粒の付いた頬が泣いているように見えて、声をかけるのを躊躇してしまったから、改めてかけるような言葉が見つからなかった。部屋の明かりを豆電球にして、床に敷かれたままの布団に一人で潜り込む。冷蔵庫の中のアイスがまだ眠ったままなのを思い出したけれど、一人で食べる気にはならなかった。明日、一緒に食べよう。心の中で、一人でそう決めて目を閉じた。



 窓をたたきつける雨の大声で、薄く意識が浮上した。雨に閉じ込められた室内は静かなもので、自分の身動きに合わせて鳴る衣擦れの音と、時計の音がただ静かに淡々と響く。今は何時だろう。確認しようと薄く目を開けたところで、自分に人の影が落ちているのに気がついた。一瞬跳ねた心臓を押さえつけ、咄嗟に寝返りをうつふりをして彼に背を向ける。

「みずき」

 ひどく優しい声が背に落ちる。暗闇に響く彼のかすれた声はどこか心地好く、もう少しだけ聞いていたくて、まだ眠っているふりをした。

「みずき、寝てる……?」

 私にかかっているタオルケットが小さく引かれたのがわかった。見えずともその声と仕草は捨てられた子犬を彷彿とさせるもので、ほんの少しだけおかしくて可愛くて、笑ってしまいそうになる。しょうがないなぁなんて抱きしめて、もう一度、今度は二人で一緒に寝よう。そうしたらきっと、明日の朝は幸せに目覚めることができるだろうから。

「……あのね、みずき」

 そうやって、彼を抱きしめるために寝返りをうとうとして、はた、と止まって身を捩るのをやめた。彼の息を呑む音が、私の心臓の鼓動に重なった。

「あの、ね」

 謝るように、許しを請うように、告白するように、別れ話をするように。彼は寝ているはずの私の背中に、ぽつぽつと言葉を零す。

「僕はさ」

 雨が降っているようだった。アスファルトが濡れてその色を濃くするように、彼の影がだんだんと濃くなって、私は彼の顔を思い浮かべることができなくなってしまった。今後ろにいるのは、いったい誰なのだろう。その正体を見極めようともしないまま、ただ古い壁にある染みをじぃと見つめて、ただ息を均等に均すことしかできなかった。


「僕は。……ぼくは、ね。人を、殺したんだ」


 彼の心臓の音が聞こえないくらいに、雨の強い日だった。


________________


 小学生の頃に、女の子をいじめていて。その子……龍堂さんがね、筆箱にストラップを付けてきたんだ、お母さんと一緒に手作りしたんだって、嬉しそうでさ。それで、帰り道に見せてって言って取り上げて、川沿いの、草が伸びたところに手を滑らせるふりをして落としたんだ。龍堂さんが必死で探しているのがばからしくって、小雨がだんだん強くなってきたから、ぼくはそのまま帰ったんだ。……うらやましくって。お母さんと一緒にとか、お揃いとか、嬉しそうで、幸せそうで、仲良さそうで。そんなことしたって、ぼくの母さんが優しくなるわけじゃないのにさ。……次の日に、ね。彼女。水死体でその川の下流で見つかったんだ。諦めて帰ればいいのに、大雨で川が増水して、筆箱と一緒に、流されてさ。ぼくが……ぼくが、あんな。

龍堂さんは、ぼくの。……僕のせいで、龍堂さんは死んだんだ。


______________________


 彼の声は震えていた。風が強いのか、古い建物故なのか。豆電球の灯りがチカチカと不安定に点滅し、彼の影が時折飲まれて消えてしまって、私はひどく寂しくなった。

「だから、ね」

 雨が勢いを増して、彼の声にノイズをかける。

「僕は瑞希が言うみたいに優しくない。僕は……ぼくは、さ。『死んじゃえば良い』側の、人間なんだ」

 低気圧に押し負けたみたいに私の体は動かないまま、時計の針は決まったリズムで淡々と嗚咽を零す。きゅうと細くなった喉を誤魔化すように、私はただ静かに呼吸を繰り返し、彼はそうっとそこに佇んだ。


 言葉が出なかった。否、出せなかった。何を言えば良いのか分からなかったし、彼の顔を見るのが怖かった。

 いじめなんてする人間がまともなはずが無い。生きてて良いわけがない。そう思ったのは事実だし、今でもそう思う。私の背の裏に佇むその存在の影が、恐ろしく暗く、重い気配を帯びていく。

 許されるべきではないだろう。一生抱えて生きていくべきだし、恨まれて、刺されても仕方のない事だろう。

 それでも、私は彼の現在を知っている。誰かを助けようと奮闘し、誰かに優しく仕様としているのを知っている。過去の罪から逃れたい贖罪のつもりなのだろうと思えば吐き気もする。それでも、それで助けられてきた人の笑顔も、私は知ってしまった。

 私は彼を、どうするべきなのだろう。軽蔑した、最低だと思う、けれど、その全てを否定しきるには、私は彼を知りすぎて、愛してしまった。彼と生きていたいと思ってしまった。


 答えの出せないまま、夜が更けていく。雨音が濃いカーテンで部屋を隠す。

 私は、彼を許せるだろうか。彼の罪を、贖罪のための人生を、一緒に背負って生きていけるだろうか。





 気がつけば彼は隣に眠っていて、窓の外は薄く日が射していた。窓をあけて網戸に切り替えるときに、ベランダに出しっぱなしのミニトマトの鉢が倒れているのに気が付いた。太い真ん中の茎がポキリと折れてしまったようで、鉢を立ててもその先はだらんとしな垂れて、一人で立てないみたいだった。

 財布だけを持って、一人でコンビニを目指して坂を下る。朝ご飯と、昨日なくなった歯磨き粉と、茎を補強するための支柱。支柱の端がはみ出た不格好なレジ袋を手に提げて自動ドアをくぐると、キジバトが一羽で鳴いていた。急な坂を見上げて、そうっと息を吐く。

「あ」

 そういえば、と冷蔵庫のアイスを思い出した。ああそうだ、冷凍庫じゃない、冷蔵庫の方へ入れてしまっていた。

まだ間に合うだろうか、溶けてしまっただろうか。冷蔵庫に入れ直せば、なんとかなるだろうか。なんとかなると良いな、なんて。すっかり濃くなり始めた影を踏みながら、信号が青になるのを待った。

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冷蔵庫 小林 凌 @nu__nu

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