冷蔵庫
小林 凌
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「鈴田」の表札と彼に教わった部屋の番号を反芻し、その部屋が目的地であることを念入りに確認してから、不用心に開け放たれた扉をくぐった。外の日差しが強いせいか、部屋の中の色が褪せているのに気がつくと同時に、じわりと視界に色が戻ってくる。その感覚に目を細めながら、おじゃましますと声をかけた。
彼の住んでいる六畳一間は、山の斜面を少しだけ削って作られた、蔦に半分呑まれかけている古い木造のアパートだ。階段は赤茶けて錆び、駐輪場の屋根のトタンは所々崩れている。一番近いコンビニは、急な坂道を下った信号の先にローカルチェーン店が一つ。苦学生というわけでもなく、両親ともに健在であるはずなのに、高校生の頃からもう五年もずっとこんな所に一人で暮らす心理を、私は未だ理解できないでいた。溝の隙間に身を寄せていたちいさな蟻が、突然の来訪者に驚いたように飛び出して、靴棚の下に身を隠す。時計の短針が六時を指していても、まだ外は明るかった。
ワンルームの奥の方で、右手に重そうなギプスを着けた颯が顔を出す。茶色に傷んだ髪が、逆光のせいで真っ黒に見えた。
「ごめん瑞希、来てくれてありがと。外暑かったでしょ」
「まぁ、夏だし。下のコンビニでアイス買って来ちゃった、あとで食ぁべよ」
「ん、お風呂入ったら食ぁべよ。冷凍庫、入れといてくれる?」
「はぁーい」
冷蔵庫の扉を開けた。中にはペットボトルのお茶と数個の卵しか入っていなかったから、明日の予定をお買い物に決めて、空の段にアイスを置いてから冷蔵庫をそうっと閉める。今日の夜ご飯は、下のコンビニで買ってきた親子丼と付け合わせのサラダ。ベランダに置かれた鉢植えに実るミニトマトもサラダに使わせて貰う予定になっていて、どれをいただこうかと値踏みしていれば、ひときわ大きな粒の上を闊歩する立派なクロアリと目が合った気がした。彼をふっと吹きとばし、親指のツメでその粒の根元を押し切る。ごめんねとは、言わなかった。
お風呂上がりの彼の髪を、じゃれるみたいに乱雑に拭いた。彼の座る布団の正面にはテレビが置いてあって、明日の天気を映している。今夜から明日の朝にかけて、台風程ではないらしいけれど、それなりに強い雨が降るらしい。
「雨戸いれなきゃ」
網戸越しに聞こえる蝉の声と、柔らかく入る涼しい風が心地好くて、面倒臭そうな彼の呟きにそっと目を伏せて首を振る。
「んー……もーちょっとしたらでいいよ。まだ風が気持ちいから」
返した言葉に呼応するように、タオルに包まれた人間の頭部がこくりと小さく頷いたのがわかる。私はそれを、宝物を包むみたいに、きゅっと抱きしめた。
部屋の隅に置かれたテレビに映る可愛らしい服装の女性が、神妙な面持ちで中学生が投身自殺をしたらしいニュースを告げた。遺書の一部や周囲の人の証言からいじめらしいことは明らかであっても、公に事実を認めることは出来ないらしい。学校の会見でだって、犯人の名前もそこで何があったのかも頑なに挙げられやしない。聞いたことがある、こういう場でいじめっ子に関する事項が一切述べられないのは、いじめっ子にはまだその後の人生があって、それらを保護する必要があるからだと。一人の人間の命と未来と可能性を根こそぎ奪ったくせに、その子の未来を守るなんて、どう考えたっておかしい。無性に腹が立って溜息を吐くと、タオルの端からこぼれた彼の髪がかすかに揺れた。
「なんでいじめられる方が死んで、いじめた方が保護されるんだろう……。いじめっ子の方が、死んじゃえば良いのにさ」
そうだね、とだけ笑って彼は立った。まだ乾ききってないよ。そう声をかけると、あとは自然乾燥でいいよ、なんて薄く笑って、彼は窓際に座り込んだ。網戸をすれ抜ける風が彼の髪を優しく撫でる。彼がこうするときは、極力話しかけないでほしい時のサイン。
何よりも優しい彼のことだから、悪人にも優しいのだろう。「死んじゃえば良い」は言い過ぎたかな、なんて一人で反省しながら、テレビを切って、私もシャワーを浴びに行くことにした。あがったら、一緒にアイスを食べよう。私の好きなミルクアイスと、彼の好きなチョコミント。夕方に交わした約束と、嬉しそうな時の彼の笑窪に期待して、一人で小さく微笑んだ。
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