第2話:パン一つの価値

 フェンダリム帝国の辺境に、ホロウスティアと呼ばれる都市がある。


 そこはフェンダリム帝国が作った都市であり、様々な政策や学問などを試し、本国へ取り入れるために造った実験的な都市である。


 世間的には実験都市と呼ばれているが、玉石混交なこの都市は来る者拒まずであり、一定以下の犯罪には寛容である。


 様々な人種や宗教が入り乱れており、細かい法律を制定する事が出来ないのだ。

 その代わり、殺人や盗みなどの誰にとっても悪となる犯罪は厳しく取り締まられる。


 そのせいか治安は思いの外良く、あれよあれとという間大きくなった。

 そして大きい光が出来れば、そこには影が生まれる。

 そう、スラムだ。

 

 しかし帝国はそのスラムも実験に用いることにした。

 管理され、一定以上の悪が広まらないスラム。


 スラムと呼べるのか微妙なラインだが、そんなスラムで一人の少女が走っていた。


 薄汚れ、よろけながらも一生懸命に足を動かしていた。

 腹には一本のナイフが刺さっており、今も血が垂れている。


 抜いてしまえばもっと速く走れるかもしれないが、その分流れる血が増え、迫りくる死神の刃に首を斬られるのが早くなる。


 その事を本能的に理解していた。


 彼女はこの世界で獣人と呼ばれる種族であり、兎の特徴を持っている。

 生への本能が強く、過酷な地でも生きていける強さがある。


 普通の人ならば痛みで抜いてしまうナイフも、本能が抜くのを抑制しているのだ。


 だが、それでも長く走ることは出来ない。


 視界はぼやけ始め、歩いているのと変わらない速度まで落ちる。


 何所だか分からない建物に倒れるようにして入り、這いつくばりながら奥へ奥へと進む。


(死にたくない! 死にたくない!)


 必死に進むが、壁に突き当たってしまい、動きを止める。

 少女が顔を上げると、所々欠けた女神像が見下ろしていた。


 そして、少女は死期を悟った。


 女神像に寄りかかり、腹に刺さったままのナイフを見る。


(何を……間違ったのかな?)


 孤児として生きるならば、この実験都市であるホロウスティアは優良物件だった。

 過度な盗みや殺人以外は甘く処罰され、親の居ない孤児も挨拶さえ出来れば働くことが出来た。


 決して裕福な暮らしか出来るわけではないが、生きることは出来ていた。

 しかし不幸なことにホロウスティアの孤児は質が良いと一部の界隈では人気だった。


 人攫いは厳罰の対象だが、全ての孤児を管理する程の余裕は無く、多少ならば拐っても露見することはまず無い。


 しかしいくら露見しないとしても、目撃者や逃げ出した孤児が居た場合、通報される恐れがある。 


 捕まえることが難しいならば、殺してしまった方が犯罪がバレる可能性は低くなる。


 たまたま人攫いの現場に出くわしたシラキリは、思わず声を上げてしまった。


 そして直ぐに逃げ出したが、運悪く腹を刺されてしまったのだ。

 その状態で逃げることが出来たのは、シラキリが兎獣人だったからだろう。


 だが、その命ももう間もなく尽きようとしている。


 意識が遠退き始めたシラキリは、誰かが近づいてきたことに気付いた。


 自分を刺した人間か、それともこの建物の住人か。

 僅かに顔を上げ、霞む視界に赤い髪の女性が映った。


「たす……け……て」


 まだ死にたくない。どうしても生きたい。

 薄々無理だと分かっていても、声を出さずにはいられなかった。


「天におりまする我が神よ。どうか少女から痛みを取り除き、罪をお許しください」


 その祈りは、シラキリが聞いたことの無いものだった。


 孤児であるシラキリはホロウスティアに沢山ある教会の炊き出しに行くことが度々あった。

 無料でご飯が食べられる代わりに、眠くなる説法や聖書の言葉などを聞かされていたのだが、このような祈りは聞いたこもがなかった。


 シラキリが覚えていないだけの可能性はあるが、そもそも言葉の選び方がこの世界の宗教ではあり得ないものなので、間違いではない。


 しかし、そんなことはシラキリにとって関係ない。

 シラキリの意識が完全に落ちようとしたその時…………奇跡は起こった。 

 

 女神像から光が降り注ぐようにしてシラキリの全身が光り、傷が癒えていく。

 自分の身へ起きた事に驚き、目の前の女性が「ほわい?」と間抜けな声を出した事には気付かず、呆然として声を零した。


 シラキリが知る中で、死の淵から人を助けられる程の魔法は見たこと無い。

 噂では教会の偉い人ならば可能と聞いたことがあるが、こんな場所に居るはずもない。


「ありえないと」シラキリが呟いてしまったのも仕方の無いことだ。

 ボヤけていた視界がクリアになり、頭が働くようになったシラキリは、目の前の人物を観察した。


 格好からシスターと思われるが、目が少しつり上がっており、冷たい印象を受ける。


 スラムに居るとは思えない程肌が白く、艶やかな赤い髪も相まってシスターと言うよりも、女神の様にシラキリには見えた。


 暫しの間見とれてしまっていたシラキリだが、声をかけられた事で現実に引き戻させられた。


 相手は神ではなく人だ。


 助けて貰ったからには、相応の礼。金を払わなければならない。

 スラムにおいて、ただより高いものはない。


 それは誰もが知っていることだ。


 しかしシラキリは孤児であり、金銭などパン一つ分位しか持っていない。  

 

 助かって早々に、シラキリはこの後の事を憂いた。


 逃げることは可能かもしれないが、相手は死にそうになっていた自分を治す程の魔法の使い手だ。


 他にどんな手を隠しているか分からない。


 シラキリは観念して正直に話すと、相手は奉仕活動するならば支払いを免除すると言ってくれた。


 その提案に飛び付いたシラキリだが、この提案に飛び付いたことをシラキリは後悔することになる。


 なにせ、相手は期限については一言も言っていなかったのだから。






1






 色々と誤魔化しながら情報をシラキリから聞き出したが、此処はとある帝国の辺境にある都市のスラムであるそうだ。

 正確な場所は分からないが、シラキリ曰くスラムの端の方だと思うとの事だ。


 俺にとって幸いなのは、この都市は住民の管理がかなり緩いため、俺みたいな存在がポンと湧いて出ても問題ない。


 まあそれ以外は問題しかないのだが、生きられるだけでも儲けものと割り切っておこう。


 色々と話しているシラキリには悪いが、一度頭の中で問題を整理していこう。


 先ずは記憶についてだが、幸いなことに残っている。

 名前は井上いのうえじゅん。年齢は二十九歳。

 社会人生活にも慣れ、後輩の育成に精を出していたしがない社会人だ。


 趣味は絵を描いたりカラオケに行ったりする程度で、後は広く浅く色々だ。

 たまに酒に溺れる事もあったが、大人なら普通だろう。


 次は現状についてだ。


 最低限場所は分かったが、それだけである。


 どうして身体が女性になったのかは分からないし、先程の祈りで起きた現象も分からない。

 

 頭に響いた声が何かしら関係しているのだろうが、本当に何故返事をしてしまったんだか……。


 せめて何をどう助けるか教えてくれませんかね? 後、せめて身体を戻して欲しい。


 ……嘆くのはこれ位にして、次は今後どうするかだ。

 何をするにしても、先ずは衣食住を揃えなければならない。


 幸い土地の所有権なんて無いスラムなので、住むのはこの教会? で良いだろう。

 次に服は計三着あるので、少しの間は問題ない。下着の類は後々考えよう。


 最後に食だが、これが一番の問題だ。

 

 こんなスラムの端に食料など有るわけないし、食料を買う金は勿論無い。

 炊き出しの手もあるが、この姿で行くのはあまりよろしくない。


 言っては何だが、この身体はナイスバディであり、かなりの美人だ。

 更に格好が格好なので、スラムの住人と思われることはないだろう。


 後、襲われたりするの怖い。


 この身体で何が出来て何が出来ないのかを確認するのも重要だが、生活環境を整える方が重要だ。


「……って事です。そう言えば、シスターの名前は何ですか?」


 名前か。そのまま名乗るわけにもいかないし、何か考えなければ……。


 この身体に合った、厳格そうで響きの良い名前……。


 ――急に頭に痛みが走った。顔を顰める程ではないが、折れている角のせいだろうか?

 

 名前……サレンディアナ・フローレンシアで良いか。


「サレンディアナ。サレンディアナ・フローレンシアです。呼び方はお任せします」


 はて? どうしてこんな長い名前がスラスラと言えるのだろうか?

 それに適当に考えたにしては妙に馴染む。


「えっと……じゃあサレンさんで良いですか?」

「はい。それで確認ですが、此処は誰のものでもない……って事でよろしいのですね?」

「はい。役所が認めた場所は別ですが、多分この辺は大丈夫かと……」


 おっかなびっくりといった感じでシラキリは話しているが、別に取って食う気はないんだがな……。

 まあ変に馴れ馴れしくされるよりは、恐れられていた方がまだマシか。


「それと、あなたの様な人がどうしてこんな所に?」


 それは俺が知りたい事なのだが、見ず知らずの人間に俺の身に起きたことを話しても、信用されないだろう。


 せめて男のままだったならば一考の余地あったが、こんな状態ではな……。


「気づいたら此処で倒れていたのです。困った事に、記憶がぼやけているのですが、私は一体どこの誰なのでしょうね?」

「はぁ……」


 気のない返事だが、その眼には信じていない事を言外に語っていた。

 別に構わないのだが、少しイラっとしてしまう。


「私の事は気にしないで下さい。シラキリは何か得意な事や、出来ることはありますか?」

「走る事が得意で、物覚えが良いと言われてました。後、少しですが水の魔法が使えます」


 水か。生きる上で水は大事なものだ。それが棚から牡丹餅ってわけではないが、手に入ったのは運が良い。

 

 だが……。


「その水は飲むことができるのですか?」 

「え? はい。魔力だけで作った水以外は飲めます」


 よしよし。後は食料さえどうにかなれば一旦大丈夫だな。

 気温は日が落ちても少し暖かい程度なので、寝るのは問題ない。


 「そうですか。因みに食料などは持っていますか?」


 シラキリはズボンのポケットに手を入れ、一枚の硬貨らしき物を差し出してきた。

 

「これは?」

「こ、これでパンが一つ買えます」

 

 アニメじゃないんだから、一切れのパンなんかじゃ腹は満たされねえよ。

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