第9話

 音楽や歌は姿形を変えて僕たちの背中を押してくれる風になります。生きる原動力になってくれます。突き進む航海の道には、目的の島が全然見えなくて不安しかないんですけど、これがあるから僕は自信をもって帆の向きを決めることができる……今の道を信じていることができるんです。


 今日ご用意したケーキは『サヴァラン』というものです。父にお願いして、昔そのままの味で特別に再現してもらいました。サヴァランはフランスの老舗のお店である、『ストレール』というパティスリーで考案されたものです。ストレールは創業が一七三〇年、パリの最古の伝統店でもあります。父は若い頃、この店で修業してここまでの技術を磨き上げました。僕はそんな父を尊敬してますし、いつかは同じようにパリへ修行に行きたい……その決意表明として、このサヴァランを選びました。


 今回、こうやって皆さんの前で演奏することで、皆さんの力を分けていただいて、僕は少しだけ強くなれたような気がしました。自分の乗る船が進むべき道を、今一度信じることができました。本当にありがとうございます。そして、もし僕たちの奏でた音楽が、皆さんの背中を押す風の欠片になってくれるのであれば、これほど嬉しいことはありません」


 会場から洟を啜る音がしまして、職人さんたちの方に目をやりますと、孝之さんが下を向いて右手で顔を覆っていました。蔭川さんの目と鼻の先端は真っ赤になっていて、白いお顔が更に青白く際立って見えました。隣の隆志さんもお顔に手をやっていたので、もしかすると泣かれていたのかもしれません。私にもそれが移ったようで、目と鼻の奥に熱を持ちまして、目元の皺に滲んできたものを人差し指でそっと拭きました。


 亮くんは会場の雰囲気に気が付いて少し言葉を詰まらせたようですが、そのまま堂々とした面持ちで話を続けました。


「最後に演奏するのは、今の自分の気持ちにピッタリだなと思って選んだ曲です。『マイ・ウェイ』という曲でして、原曲はクロード・フランソワのフランス語の歌である ”Comme d'habitude” だったかな、後にフランク・シナトラによってカバーされた名曲で、日本では中島潤によって訳された歌です。かなりヒットした曲のようなので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。手元にあるパンフレットに歌詞を載せてますんで、もしよかったら、演奏と一緒にみなさんで歌ってみてください」


 キーボードの伴奏とともに、フルートの旋律が奏でられまして、続いてオーボエが歌を鮮やかに彩りました。


 今 船出が 近づくこの時に ……


 観客の中から一人、二人と、歌を口ずさむ声が流れてきます。最初は低く、限りなく小さく呟くように。


 小さな歌の流れは、いつしか一つの川となって海へと流れていきます。フルートとオーボエに導かれた歌は、大海原の航海へと旅立ちました。私も口の中で歌の響きを乗せました。合いの手をするかのように、薪の弾ける音が歌に続きます。外では白い綿雪が歌を愉しみながら、ふわりと舞い踊っていました。


 …… 信じたこの道を私は行くだけ

 全ては心の決めたままに


 曲が終わりまして演奏者の三人が深々と礼をしますと、お客さんの拍手が盛大に鳴らされました。温かな拍手は歌のように心に響き、航海を助ける風となって、いつまでも、いつまでも鳴りやむことはありませんでした。





 演奏会が無事に終わりまして、お客さんが帰る準備を始めました。由奈ちゃんたちのグループが真っ先に店を飛び出しまして、外で雪の投げ合いっこを始めました。子どもたちがバタバタと走ったせいで床に足音が響きまして、それに驚いたのか、今まで寝ていた夢ちゃんが泣きだしました。旦那様が抱っこしてあやしていましたが、その方の頬にも濡れた筋がいくつか残されていました。


 この後はどうするのかと奥様に訊きますと、近くの温泉宿に泊まるとのことです。とても楽しかったと喜んでくださいまして、「また来ますね」とにっこり微笑まれました。足元が悪いので気を付けてくださいと玄関までお見送りしまして、ご夫婦は帰られていきました。店にいたお客さんも次々と帰られて、玄関先で遊んでいた子どもたちも、いつの間にかいなくなっていました。


 遥香さんと亮くんも楽器の片付けが終わったようです。遥香さんのご予定を尋ねますと、雪で交通機関の乱れがありますし、すぐに東京まで戻るとのことです。たった一日の慌ただしい演奏旅行となりましたが、それでも来てよかったと満足されていました。


 亮くんが遥香さんに白い箱を手渡していました。孝之さんに手伝ってもらい、自分で作ったケーキが入っているようです。舟の形をしているんだよ、と、亮くんが説明していました。


 隆志さんが家から車を持ってきて、駅まで送ってくれるようです。亮くんと遥香さんのお二人は、隆志さんを外で待つからと店を出ました。雪も降っていますし、寒いから店の中で待てばいいのにと窓から覗きますと、店の軒先で二人の体が寄り添ってまして、頭の影が引き寄せられるように重なりました。……あらあら、お邪魔虫になってはいけませんね。誰にも見つからないように、レースのカーテンをそっと閉じました。


 人と音楽の消えた店は旅人を見送った後の港のようで、水を打ったような静けさに包まれました。私と三國屋さん、それに厨房で働く職人さんたちの音と、薪の音だけが取り残されました。私たちの侘しい気持ちを慰めるようにして、暖炉で揺らめく炎が柔らかな光を放ち続けていました。それはまるで船の行き先を照らす灯台の光のようでもありました。


 やがて自動車のブウンと唸るような音がしまして、カーテンの隙間を覗きますと、二人の姿もすでになくなっていました。


 行く道を覆うように綿雪は白く降りしきります。道はどんどん雪で消されていきます。見えない道に向かって、二人の足跡が点々と残っていました。その足跡でさえも雪は隠していきます。白一色の、果てしない未来への航海。不安しかないその先も、愛する音楽があればきっと大丈夫でしょう。


 そして今この瞬間にも、初男さんのご親戚が名人戦で戦っています。歌はきっと彼をあるべき道に導いてくれるはずです。大海原の精神でもって彼を信じ、夜の吉報を待つことにいたしましょう。

<完>

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