第8話

 亮くんが右側に立ち、遥香さんが隣にいますと、華やかさが一気に増して、なんてお似合いのカップルなのかしらと微笑ましく思えました。亮くんのファンの方には、少々酷ではありますけどね。彼女がフルートを構えると、左手の小指の銀色の指輪がキラリと光りました。


 それは今までの曲とは全く違う難解で複雑な曲でして、不安定な音の流れに、私の感性では理解できないところもありました。プロを目指されている遥香さんの演奏技術はさすがに巧みでして、その音の圧倒的な迫力に、さすがの亮くんも付いていくのがやっといいますか、戸惑っているような感じにさえも見受けられました。


 細かい音の連続に差し掛かったころ、亮くんの顔が急に険しくなりました。八の字になった眉の間に皺が見る見る増えてきて、首を左右に振り、とうとう指が止まってしまいました。


「すみません、練習不足で……」


 亮くんでもこういうことがあるんですねえ。悔しそうな表情を滲ませながら演奏を再開しました。曲が終わったあとの温かな拍手で、亮くんは深々とお詫びの礼をしました。隣にいる遥香さんは、亮くんのミスを責めることもなく、ニコニコと心から嬉しそうな笑顔を見せていました。


「お見苦しい演奏を聴かせてしまって失礼しました。ええと、次が最後の曲になりますが、その前にちょっとだけ話をさせてください。


 僕の友人に競技かるたをしているやつがいまして、いつもかるたの話ばっかりする変な奴なんですけど――まあ僕も人のことは言えないんですけど……そいつから面白いことを聞いたことがあります。


 そいつの親戚に、『わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟』っていう、百人一首の歌が隠されてる人がいるんだって、僕に教えてくれました。小野篁って人が遣唐使廃止を訴えたために罰を受けて、島に流されたときに歌った和歌らしいんですけど、この歌は反省でも懺悔をしてるわけでもなく、人生への航海を決意してるんだって……大海原の精神を抱いた決意表明の歌なんだと、そいつは嬉しそうに語っていました。確か今日は競技かるたの日本一をかけて、名人戦というもので戦っているはずですが」


 ――ああ、初男さん、あなたの思いは亮くんのご友人にもしっかりと受け継がれていますよ……!


「大海原にちなんで、僕の好きな言葉があるので、それを紹介したいと思います。エラ・ウィーラー・ウィルコックスというアメリカの詩人が、 ”The Winds of Fate” ――日本語で『運命の風』という詩集に残した言葉です」


 亮くんはポケットから紙きれを出して、流暢な発音でそれを読みました。


「”One ship drives east and another drives west with the selfsame winds that blow.

  It’s the set of the sails and not the gales that tell us the way to go.

  As we voyage along through life, It’s the set of a soul that decides its goal, and not the calm or the strife.”


 訳しますとこうなります。


『吹いている風がまったく同じでも、ある船は東へ行き、ある船は西へ行く。

 進路を決めるのは風ではない、帆の向きである。

 人生の航海でその行く末を決めるのは、なぎでもなければ、嵐でもない、心の持ち方である』……


 人生ってよく船に乗ることに例えられます。帆の向きを決めるのは自分自身ですが、それじゃあ帆に吹き付ける風ってなんだろうって思うことがあります。船を動かすための力となる風――それは、僕にとっては音楽であり、歌でもあります。


 遥香さんとは中学が同じなんですが、そのときに間山先輩というファゴットの人もいまして、ハイドン作曲の『ロンドン・トリオ』を三人で一緒にアンサンブルをしたことがありました。練習の合間に、その先輩からどうしてハイドンを選んだのかと訊かれまして、僕自身も、あれ、どうしてこれを選んだんだろうなと不思議に思いました。取り敢えず『彼の前向きな生き方が好きだったから』って答えたんですけど、後で考えるとこれだけじゃなかったなっていう気がしてます。


 ハイドンの同時代を生きた作曲者にモーツァルトがいます。モーツァルトがハイドンより二十四歳年下です。繊細で生真面目なモーツァルトの性格に対し、ハイドンは大らかな明るい性格で、この二人の性格は全くの正反対でした。でもその真逆の性格があったからこそ、二人は互いに魅かれ合い、影響し合うようになりました。モーツァルトはハイドンを心から敬い、父のように慕い、自分の曲にハイドンの魂を取り込んで、後世に残るほどの名曲をたくさん作ることができました。ハイドンがいなければ、今のモーツァルトの音楽はなかったかもしれないのです。


 僕の人生においてもそうだなって思ってます。中学の部活でも、このパティシエという仕事でも、たくさんの素晴らしい仲間と先輩たちに出会うことができました。僕が帆の向きを決めて船で進むことができるのは、自分の力だけじゃなくて、周りの人のお陰でもあります。


 音楽は船を進める風です。それは一人でも多くの人たちに歌われることで、より強い追い風となってくれます。日本の音楽でも、西洋の音楽でも、昔から伝わるものでも、新しい流行りの歌でもそれは変わりません。友人の好きな百人一首だって歌のひとつです。歌は耳に聴こえるものだけではありません。ケーキを作るのは音楽と一緒なんだと、以前父が教えてくれました。ケーキを作ることによって、曲を奏でることができるのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る