第7話

 オーボエの旋律が重なってから、やっとこの曲を思い出しました。パンフレットを見ますと「ディズニー映画『ピノキオ』の主題歌として……」と説明されていました。みんなが知ってる有名な曲ですね。スウェーデンとノルウェーではクリスマスソングにもなっているそうです。目を閉じますと、瞼の裏の暗闇でたくさんの星が瞬いているようにも感じられました。私が星に願うのは、やはり異国の地で暮らす子どもたちの幸せです。なかなか会うことは叶いませんけれど、いつまでも元気でいてもらえますようにと、音の煌めきに願いを込めました。


 続いて演奏されたのは、大島ミチル作曲の「風笛」です。ああ、これは私のようなおばあちゃんでも知ってますよ! 昔、朝のドラマでやっていたテーマ曲です。あれは確か、父の跡を継いで和菓子の職人を目指す女性の物語だったんではないでしょうか。この曲に使用されていたのはオーボエだったんですね。亮くんのお陰でようやく知ることができました。曲が物語とリンクされますと、感情を刺激する網がより細かく、より広くなります。私の主人も存命中は小さな会社を経営してまして、夫婦でそれなりに苦労をしてきたものですから、主人公の前向きな生き様と自分の人生が重なりまして、少しばかり涙ぐんでしまいました。


「次に演奏するのは、中三のときに僕がアンサンブルコンテストで演奏した、サン・サーンス作曲の『オーボエソナタ・ニ長調』から一楽章です。毎日すっげえ練習して、関東の大会で金賞貰うことができたやつで、僕にとっては一番思い入れのある曲になります――あ、ケーキを配られた方は食べながら聴いてください。食べる音がしても僕は全然気にしませんし、早く食べてもらった方がケーキも喜びますので。気が利かなくてすみません」


 ふふっと周囲から笑い声が起こり、演奏に気を遣って遠慮していたケーキを、私もようやく口にしました。しっとりとお酒の染み込んだスポンジから、オレンジの香りが上品に漂ってきました。


「サン・サーンスってフランスの作曲家なんですけど、時代の流れに逆らった古典的な手法を好む人だったんです。人からどれだけ古臭いと評価されようとも絶対に流されない人で、そういう頑固で偏屈なところって、うちの父親にもなんとなく似てるところがあるんですけど――」職人さんたちから笑い声が低く漏れました。「――それくらい自分の曲に絶対的な自信があったんですね。フランスの最高位勲章であるレジオンドヌール勲章を贈呈されるほどに、彼の音楽の功績は多大なものがありました。晩年になって、オーボエとか、ファゴットとか、そういう作品に恵まれない楽器のために曲を提供しようということで作ってくれたのが、この『オーボエソナタ・ニ長調』になります。時代遅れだと揶揄され続けてきた頑固おやじが最期に作ったロマン溢れる美しい曲でして、そういうのを思い浮かべながら聴いてもらえると嬉しいです」


 オレンジの香りに誘われるようにしてオーボエの音が漂ってきました。食べ物を美味しくする音、というのは、確かにこの世に存在するようです。亮くんのオーボエの音は、ケーキの美味しさを全く損ないませんね。練習していたと言い切るだけあって、とろけるような音が店内にこだまします。この歌であれば、ケーキだってきっと喜んでいることでしょう。小学生のお友だちも夢中になってケーキを食べていました。私のすぐ傍でいい子にねんねをしている夢ちゃんも、いつかはこの愉しみを味わえるといいのですがねえ。パチリ、パチリという薪の弾ける音が、オーボエの歌声に溶けていきました。


 さて残る曲もあと二つのようです。パンフレットを見ますと、次は「フルートとオーボエの為の二重奏」となっています。はて、フルートと書かれていますが、一体どういうことなのでしょうか。


「――えっと、ちょっとここで皆さんに紹介したい人がいます。僕の中学校の時の先輩で、今は音大でフルートを学んでいる、浅尾遥香さんという方です。今日はこの演奏のために、東京からわざわざここまで足を運んでくれました。――遥香さん、大丈夫? こっち来れる?」


 亮くんがこちらを向いたので何事かと戸惑ったのですが、どうやら三つ隣にいらっしゃった女性の方に話しかけたようです。その方が黒いケースを持って前へ進みました。袖が広がったパープルのニットに、膝丈の花柄のスカートを合わせていて、真っ直ぐな黒髪をされた清楚な装いのお嬢様です。


 いつかどこかで見たようなお顔に既視感を覚えました。ふと思い出して手元に目をやりますと、パンフレットの中で女の子が楽しそうにフルートを吹いていまして、可愛らしい雰囲気が彼女に瓜二つです。ああ、きっとあの人は亮くんの……このイラスト一枚だけで、彼女が亮くんにとってどれだけ大切な方なのかが理解できたような気がしました。「なんやの、あの子……」と、恨みがましい声がどこからかしまして、女性の方に聞こえていないかと冷や冷やしました。


 遥香さん……親しみを込めてそう呼ばれた方が楽器を出している間に、亮くんが語りだしました。


「四曲目は、ヒナステラ作曲の『フルートとオーボエの為の二重奏』から一楽章です。ヒナステラはアルゼンチンの作曲家で、これは南米の民謡風の軽快な音楽になります。すっげー難しい曲でして、これを演奏したいって遥香さんから依頼されたときは、無茶ぶりにも程があるよなあってマジで悩んでしまいました」


 途端に遥香さんのお顔には柔らかな笑顔が零れまして、亮くんは照れ笑いを隠したいのでしょうか、閉じた唇が波に揺れていました。


「……遥香さんはプロの演奏家を目指していて、遊んでる余裕なんてないくらい練習で忙しいんですけど、連絡したら是非演奏したいってことで、今朝の電車でここに来てくれました。ただ、さっき家で音を合わせたばっかりなんで、ちょっと自信がないです。もし上手くいかなかったらすみません。間違えないように頑張ってみます」

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