第6話

 北からの寒気が日本列島を覆いまして、外には十センチほどの雪が積もりました。白一色の庭が窓から見えるだけで寒さに震えるほどですが、火が焚かれた薪のストーブのお陰で、床を這う柔らかな熱がポカポカと身体を温めてくれています。テーブル席を少し移動させて、空いた隙間に人数分の小さな木の椅子を並べていきました。ストーブ脇に譜面台と三國屋さんからお借りしたキーボードを置いて、準備は完了です。


 開始時間は昼の三時ですが、二時半を過ぎたころからお客さんが徐々に集まり始めました。私もカウンターの席に座ります。三國屋さんの娘さんが、先日の小学生のお友だちを連れてきました。男の子が三人に、女の子が二人です。由奈ちゃんの好きな男の子も混じっていて、無事に仲直りができたらしく安心しました。しかし彼らがじっとしていたのはたった数分程度、男の子たちはすぐに待ち時間に飽きてしまい、ゲーム機を鞄から出して遊び始めたので、由奈ちゃんがプンスカと怒っていました。


 私の左隣には赤ちゃん連れのご夫婦が座られました。ベビーカーの中で赤ちゃんはスヤスヤと気持ちよさそうに寝ています。おっぱいから離れられないようなアヒルの唇と、最後のオマケで神様にくっ付けられたような小粒の鼻と、掛けられた毛布から飛び出ている縫いぐるみのような指があまりにも小さくて可愛くて、思わず声を掛けてしまいました。


「まあ可愛い。赤ちゃん、何か月なんやの?」


「一歳と五か月になるんです。まだちょっと小さめで」と、カウンターの上で細長い手を組んでいた奥様が答えられました。髪の毛を後ろでお団子にされていて、背筋も綺麗で、シンプルな服装からしても賢そうといいますか、お仕事を頑張ってらっしゃるような印象を受ける方です。


「気持ちよさそうに、いい子に寝てんやねえ。この子のお名前は何て言うの?」

「夢です。せっかくここまで来たんで、大人しく最後まで寝ていてくれるといいんですけど……」

「遠くから来られたんけ?」

「嶺南の方なんですけど、元々は東京なんですよ。小野孝之さんのお店があるって耳にしたんで、主人と一緒にどうしても来たくって。面白そうなコンサートの情報もネットで知ったんで、申し込んでみたんです」


 奥様は切れ長の目を細めました。私も東京から来たんですよ、と、旦那様の隣の女性の方も話に参加されました。さすが孝之さんは都会でも有名な方なんですねえ。イントネーションの違う三人の会話を聞いていますと、田舎にいることを一時忘れてしまうようでした。


 隆志さんも来られて、私の右隣に座られました。お孫さんの演奏をまともに聴くのは初めてということで、今日の演奏会を心待ちにされていたようです。


 時間も迫り、ほとんどのお客さんが揃ったようです。いつもは広々と寛ぐことのできる店内は、今日はみっちりと埋まった人の頭で窮屈そうです。テーブル席の方にはお水とケーキが順次配られました。茶色いスポンジにリキュールが染み込んでいるこのケーキは、孝之さんの若いころに作られていたものらしく、亮くんのたっての希望により今日だけ特別に出されたものです。このケーキを知っている方もおられるようで、「これ、サヴァランだ……」と、二つ隣にいらっしゃる旦那様の呟く声がしました。


 テーブルのない方にはハート形のバタービスケットが六枚入った菓子袋をお渡ししました。孝之さんの創業当時から作られているお菓子でして、東京でのお店と同様に、こちらのお店でも定番の商品となっているものです。三國屋さんから教えてもらったのですが、このビスケットを好きな人と分けて食べると恋が成就するという不思議な噂があるらしく、縁結びのお菓子として特に若い女の子に人気があるようです。


 ケーキを配り終わると、白いワンピースを着たピアノの先生と、黒くて細長い楽器を持った制服姿の亮くんが厨房から出てきました。どうやらあの黒い楽器がオーボエというものなんでしょう。亮くんを目の前にして、高校生の女の子たちが静かに色めきだちました。職人さんたちも演奏を聴くために仕事の手を止めて、厨房から出てきました。お客さんの歓迎の拍手に亮くんはお辞儀をしました。


「えっと……今日は生憎の雪になりましたが、わざわざ俺――僕の演奏に来ていただいてありがとうございます。こういうのって初めての体験ですし、素人の演奏ってどうなのかなっても思ったんですけど、楽しみにしてくださる小さいお子さんもいるって聞きましたし、僕の演奏が何かのお役に立てるのであればと思いまして、思い切って挑戦してみました。こんなにたくさんの人に来ていただけるなんて、正直言いますと僕自身ちょっと驚いています。遠くから来ていただいてる方もいるみたいで、本当にありがとうございます」


 亮くんはこちらの方を向いて少し頭を下げました。隣の東京の方がお辞儀をされて、つい私も釣られてしまいました。


「今日は何を演奏しようか迷ったんですけど、練習も足りないですし、そんなにたくさんはできないので、普段練習がてらにしている有名なやつとか、ソロコンで演奏したやつなんかを選びました。三十分ほどの短いコンサートになりますが、どうぞごゆっくりとお付き合いください。ええと、ではまず最初に、ハーライン作曲の『星に願いを』から」


 亮くんは譜面台の前に立って、口を付けるところを指で撫でて、ツーっと楽器を鳴らしてキーボードと音を合わせました。音合わせが終了しますと、一呼吸おいてキーボードの伴奏が始まりました。

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