第2話
「亮、お帰り」
「ただいま――あ、定家さん、こんにちは」と、お孫さんの亮くんがこちらに軽くお辞儀をしました。彼は高校三年生、東京育ちの都会っ子で、毎日お父さんのお店を手伝っている、しっかりしたお孫さんです。今日はお休みを取ったのかもしれません。
「なんや、えらい早かったの。床屋空いてたんけ?」
「床屋じゃなくて美容室。予約制だから時間通りだよ」
「床屋でも美容室でも何でもええけど、またそんなに髪の毛を派手にして。学校でも目立つやろ、恥ずかしくねえんけえ」
「いいじゃん別に。茶色なんて普通だし」と、亮くんは目玉をくるりと上に向けて、髪の毛を隠すように手をやりました。「――ねえ、おじいちゃん、今からちょっとだけ楽器の練習したいんだけどいい? 奥の部屋使わせてもらうけど」
「楽器か。楽器なあ、いいで。和室やったらあ、あんまり響かんからお隣さんにも迷惑掛けんでえ。喧しせんように、襖をしっかり締めといての」
うん、と返事をして、亮くんは奥へ行きました。程なくして笛のような、ラーメンの屋台で鳴らされるチャルメラのような、丸みを帯びた不思議な音が聴こえてきました。チャルメラ、なんて、今の若い子には分かりませんよね。ラーメンの屋台が通るときに鳴らされるラッパの合図のようなものです。年寄りが青春のひとときに戻されるような懐かしい響きです。
「これ、なんの音やの?」
「なんつってたかなあ……オーボ? オウボウ、とかなんとか……」
「へえ、オウボウっていうんか。亮くんって楽器もできるなんてすごいのお。女の子にも人気があって、お店にも亮くん目当ての子がよう来とるみたいやで」
隆志さんは細かい皺を目尻に増やして、私の冷やかしを笑い飛ばしました。
「今の若い子の好みはよう分からんわ。高校んときのはっちゃんの方が、外国の映画スターのようでよっぽど色男やったざ」
はっちゃん――初男さんのお名前が突然出てきたので、湯飲みを持つ指に一瞬だけ力が入りました。初男さんは私や隆志さんと同じ高校のお知り合いです。競技かるたで何度も優勝されてその界隈では有名な方なのですが、彼も数年前にお亡くなりになりました。日本刀のような鋭さを持った目に鼻梁が整い眉目秀麗なそのお顔は、滑らかで透き通るような美しい肌をされていまして、巷ではかの加山雄三さまに瓜二つとも称されたほどです。私も陰でこっそりと「麗しのかるたの君」などと呼んではお慕いしておりまして、違うクラスだったので声を掛けることは叶わなかったのですが、何度か恋文を出してしまうほど彼に熱を上げていました。今となっては懐かしい、熟しきらない青い檸檬のような思い出です。その初男さんのことで、ふと頭によぎるものがありました。
「そういえば初男さんとこのご親戚さん、亮くんと同じ学校やったんやないかの?」
「ああ、ほういえば、クラスに同じ苗字のやつがいるって言ってたわ。あの息子さん、競技かるたの何かの大会でまた優勝したって、今日の新聞に一面で紹介されてたな。大したもんや」
初男さんの甥の息子さんもまた、競技かるたがお強いのです。昨晩の地元ニュースでも優勝のことが報道されていました。来月は東京で大事な試合があるらしいとか。隆志さんが棚から新聞を持ってこられたので、二人で写真を眺めました。甥の息子さんは眼鏡を掛けられた凛々しいお顔立ちで、どことなく初男さんの面影もあります。
「去年あそこのお嫁さんがうちに来たんやって。なんでもその息子さんが東京の大学に行くらしくって、その相談で」
「ほお。東京行ってまうんか。なんや寂しいのお。亮にも訊いてみるわ」
「二人って仲いいんかの?」
「一緒に弁当食べるっては言ってたで。何喋っとんかは知らんけど。はっちゃんもなあ、話すといっつもかるたのことばっかで変わった奴やったなあ。あの人の話をまともに聞いてたのって加藤くんくらいやったんやないか」と、隆志さんは立ち上がって、台所からお店のお菓子の入った籐の器を持ってきました。
加藤くんとはいうのは初男さんの親友でして、同じく競技かるたをされていた方です。フィナンシェを勧められましたので一つ頂いて袋を開けました。
「初男さん、同窓会でもかるたのことんなるとよう喋っとったわ。私のこともかるた繋がりで覚えていてくれての――……」
――十年ほど前、某ホテルで高校の同窓会が開かれたときのことです。
すっかり壮年となられた同級生のお顔を見ると寂しくて、それでも懐かしくて、開催されるたびに減りゆく同窓会メンバーの人生を嘆きつつも、友人たちとの久しぶりの会話に色とりどりの花を咲かせました。いくつか長テーブルが用意されていまして、各自思い思いの席に座ったのですが、偶然にも隣の席に座ったのが初男さんでした。お年を召されてもなお精悍なお顔立ちで、憧れの君が隣にいるなんて夢のようでして、年甲斐もなく胸の高まりを抑えることができませんでした。
あまりにも緊張してしまいまして、話しかけるなどもっての外でしたが、なんと初男さんの方から名前を尋ねてくださいました。もじもじと遠慮しながら自分の名前を伝えますと「ああ、もしかして何度もお手紙を頂いてた……」と思い出されたようで、恥ずかしさのあまり思わず顔を伏せてしまいました。
「定家さんのお名前が百人一首に縁のある名前で、よう覚えとったんですよ。藤原定家っていう、百人一首を選んで作ってくれた人なんやけどのお」
「まあ……有難いことです」
「『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ』という歌を詠んどる人です。来ない人はいつ来るのだろう、松帆の浦の夕なぎのときに焼いている藻塩のように、身も焦がれるほどに待ちわびているんですって、そういう意味ですよ」
まるで自身の境遇を詠われているようでして、まあ、と口に手を当てますと、初男さんは嬉しそうな思いを
「私の名前も百人一首に縁があるんでえ、勝手に親近感持っとったんですわ。『わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟』って歌で」
初男さんの苗字は
「広い海へ、多くの小島を目指して舟を漕ぎだしていった、そう京の人々に伝えてくれ、漁師の舟人よ……って意味やね。小野
初男さんは白髪交じりの眉をピクリと上げられて、そのお茶目な振る舞いに二人でふふふと笑いました。
「でもうらにはいい歌やって思えるんです。『わたの原』って大海原っていう意味なんですけど、それを冒頭に持ってくるところが、罪を着せられて落ち込むっていうよりも、『見てみろ、これからやってやるで!』っていう意気込みに聴こえて。目の前の小さな舟に話しかけながらも、その向こうの大海を望んでるような気がするんですわ。この歌は小野篁のこれからの人生の決意表明やないかって気がするんです」
「そうなんですか……」
初男さんは想像していたよりもずっと当たりの柔らかい方でした。温かみのある低いお声は、私の心に築かれた殻の中までよく響きまして、硬い殻の奥で膿んでいた傷口を癒してくれるようでした。海の向こうから長年帰国しようとしない息子のことを初男さんに相談しますと、大海原の精神で信じればいいと励ましてくださいまして、心優しいお声がけに目頭をそっと拭いたものです。
少しのつもりがいつの間にやら長い昔話になりました。隆志さんがお茶のおかわりをどうぞと気遣ってくださいまして、注がれたお茶から白い湯気がもうもうと立ちました。奥の部屋から静かに流れてくるオウボウの音と、滔々と語られる老人の昔語りとが、その湯気にふんわりと包まれていくようでした。
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