マイ・ウェイ

nishimori-y

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第1話

 ふうっと浮き上がるような感触とともに意識が覚醒しまして、そのまま布団の中でじっとしていました。そろそろかしらと思うのと同時に、規則的なリズムを叩く電子音が枕元で鳴り、鈍い痛みを伴う関節を少しずつ軋ませながら、身体をゆっくり起こしてそれを止めます。七十も超えますと起床時間は身体で覚えているもので、朝の時を告げてくれるはずの文明の利器はすっかりお役目御免となっていました。


 寝室のカーテンをさっと開けますと、外はまだ暗闇に包まれています。朝の五時半ですし、十月のお天道様は私よりも寝起きが少し悪いのです。電気を付けますと、窓脇に纏めた桃色のカーテンが、太陽に耐えた年月を黄ばみの濃淡で教えてくれました。布団を畳み、仏間へ行き、いつものように主人の遺影へ手を合わせました。主人は数年前に胃がんで亡くなっています。気が付いたときには末期症状で亡くなるまではあっという間でした。頼れる息子も遠方なものですから、その当時は広くなった家に一人残された孤独で、立ちあがる気力さえも失われてしまったほどでした。


 息子は海外で建材ゼネコンの仕事をしています。仕事が忙しいようで長年日本へ帰国できず、主人の弔いさえもできない有様でした。それが去年の夏、ようやく嫁と孫を連れて我が家に帰ってきてくれたのです。僅か三日間という慌ただしい帰省でしたが、ほんのひと時でも大事な人に会えるというのはやはり嬉しいものですね。特に初めて顔を見ることができた可愛い孫息子。高校生の年頃になる彼の面持ちはたまにフェイスブックで見せてくれる写真とは全然趣が違っており、幼い子どものそれではなくて、すっかり大人びているその表情に異国の暮らしぶりが垣間見えるようで、頼もしくもあり寂しくも感じられたものです。


 朝の支度を終えるころには、窓の外が薄ら明るくなってきました。暗い山際から立ち昇る東雲が夜の絨毯を持ち上げて、隙間から茜色のライトをこちらに照らしています。さて今日は出かける予定が一つ入っています。隆志たかしさんのお宅に寄ってお給料をいただくことになっているのです。隆志さんの息子さんがこの街でカフェを営んでいまして、息子さんのお年は今年で四十代後半になりますか、私はその庭の手入れを任されており、今日はそのお給料日なのです。月二万ほどの小遣い稼ぎですが、趣味がお金になることほど嬉しいものはありません。ガーデナーを募集していると人伝で耳にしたその日のうちに、私は隆志さんのお店へ求人の問い合わせをしたほどです。


 カフェに隣接する庭には約十畳ほどの芝生にジューンベリーとシマトネリコを植えております。ジューンベリーは小さなサクランボのような甘酸っぱい実をたわわに実らせる木でして、その甘い実を求めてやってくる愛らしい小鳥たちを観察するのもまた楽しいものです。玄関先にはマーガレットやペチュニアといった季節の寄せ植えを置き――今は秋ですから、菊とリンドウですね、大輪のバラは虫が寄るので植えていないのですが、手入れの簡単なミニバラを数株ほど鉢植えにしました。あとは宿根草やハーブも地植えにしてあります。百花繚乱する初夏の庭になりますと、これらの花々は木のぬくもりのあるカフェをより美しく彩ってくれまして、お庭が美しいお店として地元の情報誌に載せていただいたこともありました。芝生の手入れや真夏の草むしりは年寄りには厳しいというのが本音ではありますが、綺麗だ、美しいとお客様からお声がけを頂けるたびに、沸き立つ気持ちで年が十くらいは若返りそうです。


 朝の支度を終えて、車で隆志さんのお宅に向かいました。彼の家は竹田川の近く、お店から歩いて数分のところにあります。


「敏江さんにはいつも世話になっとるでえ、助かるわ」


 玄関先で隆志さんは私に給料袋を手渡してくれました。


 小野隆志さんとは高校の同級生でして、彼は今でも私のことを苗字の「定家ていか」ではなく名前の「敏江としえさん」と呼んでくれます。銀ぶちの丸眼鏡をつけて人懐っこい笑顔をされる隆志さんは、その小さく細い体からは考えられないほどのエネルギーを燃焼させながら料理人としての道を歩んでこられました。この街で四十年にもわたって定食屋を営み、大根おろしをかけて食べる手打ちの越前蕎麦が美味しいとの評判のあるお店でした。しかし奥様を亡くされ、ご自身も心臓を弱くして入院されたのもあり、一昨年そのままお店を畳まれてしまいました。東京のレストランへ修行に入られた息子さんがその後を継ぐのかと思いきや、彼は菓子屋として大成されまして、今では若い人に人気のカフェ店として生まれ変わっているのですから、人生もお店も何がどうなるか分からないものです。


「こちらこそありがとうの。息子さんにはいつもお世話になってもうて」

「まあいいんや。どうや、敏江さん、よかったらちょっと上がってっての」


 人当たりのいい微笑みを皺いっぱいに広げながら、彼は私を居間へお招きくださいました。隆志さんのお宅は今年になって介護用にリフォームされたようで、廊下は段差もなく、新しく貼られた床板がワックスで綺麗に光っています。改築とともに入れ替えた鳶色とびいろのキッチンシステムも、さすがプロの料理人の選んだものだけあって立派で使い勝手がよさそうで、台所の壁には見たこともないような調理器具がずらりと並んでいました。


「隆志さん、最近の体の調子はどうなんや? 胸の方は大丈夫なんけの」

「ああ、もう大丈夫や。休もうにも息子らのせいで忙しねえわ。逆に休まる暇もないでえ」

「でも賑やかのはいいのお。夜も安心やしねえ。家族がいると気い張るんかして、隆志さんのお顔が前よりも元気に見えるで」


「賑やかっつったって、年寄りの方が働かされとってなあ、掃除やら洗濯やら食事やら、いっつも手伝わされとるわ。胸よりも腰が痛いんやあ、腰が。毎日整骨院へ行っとるわ。孝之があかんのやあ、なあんもせんで。あんなんやから、せっかくの嫁さんにも逃げられるんやざ」


 と、息子さんの不満を口にはするものの、彼の表情は嬉しさを隠しきれないようでした。それもそうでしょう、長年離れていたご家族が一緒なんですから。しかも可愛いお孫さんまでいるのです。たとえ忙しくなろうとも、家族の存在は緩んだ気持ちを程よい加減で引き締めてくれるものです。私も笑顔を返しながら、出していただいた温かい湯飲みを両手で持ってそっと啜りました。


 お孫さんは、と訊こうと思った丁度そのとき、当のご本人が帰ってこられました。

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