第11話 逆のことをしている

 「もう大丈夫だから帰っても良いよ」


 「心配だから、ここにいるよ」


 心細そうにしている妻を、置いて帰る気にはならかったんだ。


 「うふふ、ありがとう。 もうそんなに痛くないから、一緒にベッドで寝ない」


 何が嬉しいのか笑って妻が言ってきたけど、「看護師さんに怒られてしまうよ」と俺は返事をして、椅子を二つ並べて寝ることにした。

 寝るのには体勢が悪すぎるから、とてもじゃないが眠れそうにない。


 そうなると、俺が泣いたことや妻が漂白剤を被ったことを、どうしても考えてしまう。


 俺はまだ妻を許せていないんだな。

 俺は男としての自信を失ったままなんだ。


 浮気されたのは事実なんだから、そう思うのはしょうがないが、それで泣くのは情けなさすぎるぞ。

 自分の魅力が無かった結果だと、〈歯を食いしばって耐えてみろよ〉と思う。


 妻は俺に許されていないのを感じとり、発作的な行動に出たのだろう。

 俺が浮気して他の男が触った体を、汚いと感じていると思ったのに違いない。


 俺達夫婦はこの先、元へ返ることが出来ないかも知れないな。



 朝になって看護師さんが、妻の様子を見に来てくれた。

 妻の唇は痛々しくれているし、股間の奥はそれ以上だろう。


 それでも今日で退院するような事を言っている。

 これくらいの事で入院させる余裕が、病院には無いのだろう。


 医者の説明では、服薬以外にこれ以上病院で治療することは無いし、工業用じゃなくて家庭用の薬物だから、それほどでもないらしい。


 前に化学工場で事故があった時は、皮膚がベロンとめくれて中の肉が見えたのはすさまじかったと、聞いてもいないことを教えてくれた。

 化学熱傷かがくねっしょうと呼ばれるらしいけど、怖がらせないでほしいな。


 「こんなに素敵な旦那さんが、そばにいてくれるんだから、直ぐに良くなりますよ。うらやましいですね。ふふっ」


 こっちの事情を知らないから、看護師さんが妻に適当なはげましをしてくれる。


 それにしても、この看護師さんのお尻は大きくてまん丸だな。

 小学校の時に担任だった、〈あっこ〉先生を思い出すぞ。


 懐かしい。


 〈あっこ〉先生のお尻をまじまじと見たのは、6年生の水泳の授業の時だったと思う。

 紺色こんいろの水着に包まれた〈ザ女〉って感じの大きな丸いお尻と、どこまでも澄んだ青い空と、目を赤くする塩素の匂いが、セットで俺の頭の中へ強烈に刻まれているんだ。


 久しぶりに塩素の匂いを嗅いだから、〈あっこ〉先生のお尻を思い出したんだな。

 あれは俺が異性というものを、意識した最初のことかも知れない。

 〈あっこ〉先生は、今どうされているのだろう。

 元気でおられることを祈っておこう。


 看護師さんが病室から出ていった後、妻がねたように言ってきた。


 「看護師さんのお尻を、すごく嬉しそうに見ていましたね」


 ずっと見ていたからバレたか、看護師さんも気づいていたら、恥ずかしすぎるぞ。


 「そんなに見ていたかな。まん丸だから思わず見ちゃったんだよ」


 「ふん、私のは丸くなくて申し訳ございません」


 どういうシチュエーションかは忘れたけど、〈あっこ〉先生にしかられたことがある。

 「女の子には優しくしてあげなさい」って言われたんだ。

 同級生を泣かしたんだっけ。


 「そんなこと無いよ。君のお尻は最高だ」


 最高は褒めすぎかな、ちょっと嘘くさいぞ。


 「最高ですか、お尻も漂白しましたよ」


 触れってことらしいので、俺はあまりよく考えずに、パジャマと下着をずらして妻のお尻を触ってみた。

 あの時の俺は、〈あっこ〉先生のお尻を触ってみたいと思っていたんだな。


 「すごく柔らかくて、スベスベしている」


 「うぅ、もっと触ってください」


 泣いているような声で、妻が催促さいそくをしてくる。


 「もっと触っても良いの」


 「私のお尻は、他の男性のものじゃ絶対にありません。 全てが〈あなた〉のものです。 いくらでも触って良いし、揉んでも叩いても構わないものなんです」


 えっ、〈叩くはちょっとな〉と思いながらも、妻のお尻を触って揉んでいると、妻が声をあげて泣き出してしまった。

 俺はお尻をパジャマにしまって、妻に「ごめんなさい」と謝った。


 〈あっこ〉先生は、素直に謝ると笑って許してくれたもんだ。

 でも妻は謝っても笑ってはくれなかった。


 「謝ったけど、笑ってはくれないんだな。 お尻を触ったことを許してくれないの」


 「うぅ、何を言っているのですか、初めから許しています。 私が泣いているのは、嬉しいからです」


 目を赤く腫らした妻を見て、看護師さんは「あら、目には入っていなかったはずよね」と不思議がっていたけど、そのまま退院してマンションへ帰ってきた。


 「休んでいろ」と妻には言うのだけど、どうしても自分でコーヒーをれたいと言うことをきかない。

 確かに妻の淹れたコーヒーは美味しいのだけど、体の具合もたいしたことはないのだろうけど、妻のことが心配なんだ。


 妻から頼まれて塗り薬を塗ってあげるのだが、裸になる前の下着が派手すぎるんだ。

 この黒の下着は結婚記念日に履いていたヤツじゃないか。

 それに脱ぎ方も恥ずかしそうにするなよ、俺は薬を塗るだけだからな。


 それしても人間って不思議なもんだな。

 薬を塗るために妻の胸や股間を触っても、浮気のことは何も頭には浮かんでこない。

 目的が違うためなんだろうな。


 常々有給休暇の消化を勧められていることもあり、妻は週末までの二日間を休むことにしたようだ。

 「久しぶりにデパートへ行ってくる」と話していたのは、俺に出かける先を知らせる意味もあるのだろう。


 仕事から帰ってきたら、リビングの床に妻の下着や服が並べてあった。


 「この服は私が浮気をしていた時に着ていたものです。 気持ちが悪いと思いますので、ハサミで切り刻んでください」


 並べてある服はどれも見たことがあるもので、下着も普通って感じのものだ。

 妻は浮気相手のために特別おしゃれはしていない、浮気相手と切れたことを象徴的しょうちょうてき儀式ぎしきで俺に分からせたいのだろう。


 「えっ、良いのか。 まだ着られるだろう」


 「いえ、この服はもう二度と着ませんし、新しい服を買うから良いのです」


 「買うって、デパートで買ってきたんじゃないのか」


 「見てきただけです。 〈あなた〉が気に入った服を身に着けたいと思っています」


 うーん、これは買い物に付き合えということなんだろうな。


 服を切り裂く作業は、思った以上にすーっとした。

 記憶が物と結びついていると聞いたことがあるが、俺はそれと逆のことをしているんだな。

 浮気相手を殴った日に着ていた服を、もう二度と見ないで済むんだ。

 立ちすくんで肩を震わせていた妻の姿も、記憶から薄くなっていく気がしてくる。

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