第10話 ついててやる

 自宅のマンションへ帰り、妻が作ってくれた夕食を食べている。

 今日は酢豚だけど、黄色いいろどりのパイナップルがあまり甘くない。


 再び夫婦を続けると決めたのだが、まだまだギクシャクとした感じだ。

 何と言うのかしんの部分で、繋がりきっていないと思う。


 俺は皿とかを洗い終えて先に風呂へ入った。

 パジャマに着替えてソファーでくつろいでいると、お風呂上りの妻がトコトコとそばまで歩いてくる。


 バスタオル一枚だけの姿だ。

 妻は顔を真っ赤に染めてハラリとその一枚も床へ落とした、「抱いてください」と俺に言ってくる。


 こんな露骨ろこつに、妻から誘ってくるのは初めてのことだな、勇気を振りふりしぼっているのが表情からも分かった。

 良く見ると体が小刻みに震えてもいるぞ。

 俺が冷淡れいたんに拒絶する可能性も高いのだからな。


 俺も離婚をしない以上、出来るだけ前の状態へ戻るべきだと思う。

 妻を延々と責め続けても、にごった泥のような復讐ふくしゅうが出来るだけだ。

 俺にはそんな体力も気力も、継続性も執念しゅうねんも覚悟もない。


 俺は妻をお姫様のように抱え上げて、寝室へと向かった。


 「あっ、嬉しい。ありがとう」


 妻は俺の首に手を回して、満面の笑みを浮かべ裸の体を俺に引っ付けてきた。


 ベッドに妻を降ろして、唇へキスをしようと顔を近づけた時、浮気相手と妻が熱いキスをわしているシーンが頭の中に浮かんでくる。

 舌をからめあった二人の唾液が、ラブホテルのピンクの照明に、キラキラと光をはなっているんだ。


 乳房へ手を伸ばそうとしたら、そこを浮気相手に舐められた妻が「あん、感じる」と甘く応えている声が聞こえてくる。

 つんととがった先を吸われることで、俺が見たことも無い、恍惚こうこつの表情に変わっているんだ。


 少し開いた股間に目をやれば、浮気相手に「もっと股を開け」と命令された妻が、自分で大きく広げて「ここが泣いています」といやらしくおねだりをしている。

 俺に対して、こんなみだらな行為をしたことも、こんな卑猥ひわいな言葉を使ったことは絶対になかった。


 「泣いています」


 止めてくれ。

 また妻が卑猥なことを言っている。


 「〈あなた〉、どうしたのですか、どうして泣いているのですか」


 「君が浮気相手と舌を絡めてキスをしていたんだ」


 「えっ、舌を絡めてなんかいません」


 うぅ、でもキスはしたんだな。


 「君が浮気相手に胸を舐められて、〈感じる〉って言っていたんだ」


 「そんなことは言ってません。 声は押さえていました」


 はっ、感じてはいたってことじゃないか。


 「君が浮気相手に言われて、大きく股を開いていたんだ」


 「うっ、大きくは開いていません」


 くそっ、開いたのは事実なんだな、股を開かなければあの行為は出来ない。


 「俺が抱いても、君はたいして気持ち良くならないんだ」


 「そんなことないよ。 〈あなた〉が一番なんです」


 「俺以外の男だったら、ゾクゾクするんだろう。 ゾクゾクしない分、俺はどんな男よりおとっているんだ」


 「うぅ、〈あなた〉は劣ってなんかいません。 こんなにも私は、〈あなた〉を傷つけてしまったのですね。 あぁ、どうすれば良いの」


 裸で横たわっている妻を見ながら、俺は泣き続けていたらしい。

 この時の俺の心は、悔しさと情けなさと悲しさで、ぐちゃぐちゃだったと思う。


 自分で思っていた以上に、妻を愛していたのかも知れない。

 妻が自分じゃない男の、女になってしまったのがたまらなかったんだ。


 俺にだって自尊心はある。

 妻が俺をあわれんで、俺で我慢しようとしてくれていることに、耐えられないんだ。


 「うぅ、〈あなた〉はほかの男性とキスをした私の唇を見て、悲しくなってしまうのですか。 他の男性の唾液がついた私の胸に耐えられないのでしょう。 他の男性を迎え入れた私の股間が、〈あなた〉の尊厳そんげんを傷つけているのですね」


 「うぅ、俺にも良く分からない。 俺はもう君を抱く自信がないんだ」


 「全部私が悪いんです。 唇も胸もあそこも、全て新しくします。 他の男性の唇や手や唾液がついた皮膚は消し去って、あそこも綺麗にしてみせます」


 妻はこう叫ぶように言った後直ぐ、裸のまま寝室を出ていってしまった。


 俺は寝室で自分が泣いたことに、上手く整理がつかないまま、自分では制御出来ない感情の渦に巻き込まれていたと思う。

 妻のことを気づかう余裕も、優しさも無かったんだ。


 「〈あなた〉、私の唇も胸もあそこも全て、真っ白に漂白ひょうはくしたわ。 これで他の男性が触れた皮膚や粘膜ねんまくは、けてなくなって綺麗な体になったのよ」


 妻がニコニコと笑いながら寝室に入ってきたけど、妻の体からは強烈な塩素臭がしている。


 唇も胸も股間も赤くなっているのは、皮膚がただれているんじゃないか。


 泣いていた俺はすごい刺激臭と妻の異様さに、一瞬呆気いっしゅんあっけにとられたが、しでかしたことに怒りが湧いてきて、妻に「バカなことをしやがって」と言ってしまった。


 「うぅ、そう言うけど。 もう私に出来ることは、これぐらいしか残っていないのよ」


 俺は妻の言ったことに返事はしないで、抱えるようにして浴室へ連れていった。


 浴室の扉の前に来ただけで、猛烈に濃い塩素の匂いがただよってくる。

 換気扇を回し息を止めて窓を全開にしてから、浴室の床に転がっていた漂白剤のふたを固く締めた。


 俺の指先がヌルヌルとしてくる、しばらく塩素ガスが抜けるまで待って、引きずるように妻を浴室へ叩き込んで乱暴にシャワーを浴びせかけてやる。

 俺は自分にも怒っているけど、それ以上に自分自身を傷つけた妻に怒っているんだ。

 

 すごくずるいと思ったんだ。

 俺は男だけど、泣きたい時には泣かせてくれても良いじゃないか。


 原液の漂白剤をかけてからかなり時間が経っているので、妻の胸は赤く爛れて酷いことになっていた。


 唇と胸と股間にシャワーをかけながら、手も使って流してやるのだけど、身体中がヌルヌルだ。

 皮膚が溶けてきているんだ、特に粘膜で弱い唇と股間はマズイことになっているぞ。


 これだけ爛れて相当痛いはずなのに、妻は「あぁ、私の体を触ってくれている」と嬉しそうに言いやがる。

 こんな状況でどうして嬉しいんだ、俺は正直ゾッとしたけど、今は漂白剤を洗い流さなければいけない。


 かなりの時間シャワーをかけてから、病院へ連れていく事にした。

 唇は酷いことになっているし、股間の奥はデリケートな部分だから、もっと酷いことになっているかも知れない。


 妻がパジャマを着ている間に、タクシーを頼んで救急病院へ向かった。

 タクシーの運転手は、「うわぁ、塩素の匂いがすごい。変なことに巻き込まないでくれよ」と少しゴネていたけど、「妻が漂白剤をかぶってしまったんだ」と返事をしたら「あれをかぶったんですか。それは大変だ」とスピードを上げて急いでくれた。


 妻はその間もヒシっと俺に抱きついている。

 俺を離さないつもりなんだろう。

 少し怖くなる。


 医者の指示で看護師さんが徹底的に洗浄してくれて、塗り薬を塗って貰い処置は終わったらしい。

 今晩は病院に泊まり明日もう一度診察をする事になった。


 ふぅー、一安心だ、ぐったりするよ、疲れたな。

 個室だったため俺も朝までついててやることする。

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